まちかど学問のすゝめ 其の五

創業 1803 年の老舗「京菓匠鶴屋吉信」プロディ―スの茶房、tsubara café の店内
▲2019 年に堀川今出川にオープンしたオープンした「はんなり」スペースでの“まちかど学問”のはじまり~はじまり。

《木立のカフェ》はヴァーチャルでリアルな喫茶店。マスターの村井俊哉さん(京都大学精神医学教室教授)が京都市内の喫茶店をぶらっと訪れて、そこに集う人たちと「こころとからだ」「文化・社会」について語り合います。
今回は、カフェトークのお客さま、齋藤清二さんのお住まいの近く、堀川今出川tsubara café(ツバラカフェ)にお邪魔します。創業1803年の老舗「京菓匠鶴屋吉信」プロディ―スの茶房です。2019年オープン「はんなり」スペースでの“まちかど学問”となります!

 

暗がりでの捜し物


● 村井俊哉:1966年生まれ、京都大学医学研究科精神医学教室教授。最新の著書に『統合失調症』(岩波文庫, 2019年)がある
☆ 京都大学医学部附属病院 精神科神経科 公式サイト
https://www.kuhp.kyoto-u.ac.jp/~psychiat/
● 齋藤清二:1951年生まれ、新潟大学医学部医学科卒。英国セントメリー病院医科大学研究員、富山医科薬科大学第3内科助教授、富山大学保健管理センター長/教授などを経て、2015年より立命館大学総合心理学部教授。最新の共

訳書に『ナラティブ・メディスンの原理と実践』(北大路書房, 2019年)がある。
☆ 木立の文庫webサイト《こころとからだの交差点》にて「リレーエッセイ」連載中!
https://kodachino.co.jp/dialogue/intersection-of-mind-body/mind-body-2/

アンチテーゼのハイジャック?

テーブルをはさんで村井先生と齋藤先生
▲2019 年にオープンした「はんなり」スペースでの“まちかど学問”のはじまり~はじまり。
村井俊哉
村井さん

今日は齋藤清二さんとの “まちかど学問” 談義を愉しみにしています。齋藤さんは医師でありながら、医療のあり方そのものを捉え直す営みを続けてこられているので、精神医学、精神科医療にもからめて面白い話ができそうです。まずは齋藤さんといえば「ナラティブ」ということですね。

常連さん
常連さん

ナラティヴという視点はいまでこそさまざまな領域に浸透してきていますが、そもそもナラティブ・ベイスト・メディスン(NBM: narrative-based medicine)というムーブメントが出てきた背景を見ておきましょう。そこには、エビデンス・ベイスト・メディスン(EBM: evidence-based medicine)が世界中に広まって、それがちょっと広がり過ぎというか、行き過ぎている感じがあって、それに対するアンチテーゼという意味あいがあったんですね。もともとNBMを生み出したトリシャ・グリーンハル(Trisha Greenhalgh)などは、英国でいちばん売れているEBMの本を書いている人です。彼は、どうもEBMが変な方向へ行っているので、それをちょっと補正しなくてはならんということで、ナラティブを強調したというのがあります。ちなみにそのグリーンハルさんはいま、NBMも一段落したので、またEBMのほうに戻っています。

村井俊哉
村井さん

なるほど。僕もEBMが最初に出たときはすごく面白く感じました。特に精神医学は、実証的な姿勢にアンチな人が圧倒的に多かったので、EBMが登場した頃には、そういう状況に一石を投じて引っくり返してやろう! というような過激な面がありましたね。

常連さん
常連さん

そうです、そうです。

村井俊哉
村井さん

過激な人は、過激なうちは面白いんですけどね。それで定職を得たり、その道の権威となったり、というふうになってくると……。

常連さん
常連さん

実は、心理の世界でそのパロディみたいなものが起こっちゃっているわけです。一時期、医学におけるエビデンス・ベイストの思想みたいなのを心理の世界へ持ち込んで、しかも、それをかなり歪めた形で政治的に利用したというのがあります。

村井俊哉
村井さん

はい。

常連さん
常連さん

エビデンスの考え方を持ち込んだこと自体が悪いわけでもないんですけど、それがあまりにもひどい。アメリカではある程度それが修正されるのですが、日本ではぜんぜん修正されない。それを、私は「『エビデンスに基づく実践』のハイジャックとその救出」という論文を書いて、半分冗談で『こころの科学』という雑誌に載せたら、やっぱり一部の方が「我が意を得たり」ということで、「よく書いてくれました」というような反応がありました。でも、その人たちの考え方も僕とは違う。要するに僕は、エビデンスが気に食わないわけでは全然ない。そこは非常に複雑な思いなんですね。

村井俊哉
村井さん

今みたいなことを言っていると、EBMに反対派の人が応援してくれることもありますが、そういうことではないと、そうした意見にもまた反論したくなってしまいますね(笑)。

常連さん
常連さん

どちらかというと極端な人が多いので、その人がバーンと場を読まない発言をすると、炎上したりとか……。実際にTwitterを見ていると、今でも、そういう案件はとても多いです。僕から見ていると、どちらもべつに間違ったことを言っているわけではないんだけれども、完璧にボタンの掛け違いになっちゃって、議論は噛み合わない。

村井俊哉
村井さん

冷静な議論にならないんですね。

常連さん
常連さん

臨床心理学なんかでは、それなりのバランスをとって、多少いろいろ言う人はいても、それぞれの言い分を、できるだけ誰をも圧迫せずに出してもらって、「じゃ、この目の前のクライエントにどうするか」というあたりで落としどころをつかんでいくということは、ある程度できそうな気はしているんですよね。そこに、議論をする場と信頼関係のある安全な場がないとだめなんですけれども、具体的に「この人に対してどうするか」という議論については、大体それなりのところに行くんですね。

村井俊哉
村井さん

なるほど。

齋藤清二、立命館大学総合心理学部教授
▲「目の前のクライエントをどうするか」とういう現実が、ある程度の落としどころを探せると斎藤先生

ひろがる暗い海と灯台

常連さん
常連さん

例えば「多元主義」という視点を村井さんは紹介されていますね。論理的な議論をしていると相容れないんだけれども、それは認めたうえで、どうやって実際にやることを調整していくか、みたいなところは大事なのではないでしょうか。

村井俊哉
村井さん

適材適所で最も優れた方法を使うべき、という「多元主義」は、実用的で優れた考えた方で私は共感しています。ただ、多元主義には一つ弱点があります。どういった時にどの方法が適材かを判断する際には、なんらかの基準が必要なわけですから、そうだとすると、多元的ではなくて、結局は一元的、ということになってしまうのです。だから多元「主義」というのは論理矛盾である、という見方もあるのです。
ただ、齋藤さんがおっしゃったようなプラクティカルという意味では、つまり、相容れない考え方もとりあえず両方置いておくというという意味では、多元主義はぴったりです。実は、先ほど言った論理矛盾のように見える点も私からすると矛盾ではないと思っています。でも、それを理屈っぽく説明しちゃうと、聞いている人はしんどくなるので、とりあえず多元主義とは「異なるものを仲良く同居させておいたらいいんだ」という考えだと説明するようにしています。

常連さん
常連さん

普通「見解の相違」としてしか認識されないので、意見が一致しなくても、相矛盾していてもいいんだというように合意に持ち込むというのは、ひとつの有効な方法だと思うんですね。そうでないと、そこの議論だけで疲れ果ててしまう。

村井俊哉
村井さん

人間の心について私たちが手にしている知識は極めてわずかなことで、いってみれば
「暗黒の海」のようなものです。先ほどのEBMですが、こうした暗黒の海のところどころにある灯台みたいなものだ。そういうイメージで考えればどうでしょうか。

 

常連さん
常連さん

はいはいはい。いい例えですね。

村井俊哉
村井さん

その暗黒の海を、俺はこういうふうな航海術で行くとか、俺はこれで行くとか言って、まあどっちも、間違いか合っているかわからないけれども、やっているうちに、「ああ、こっちが正しかった」とわかる。そういうふうに考えれば、何の不思議もない。
ところが、サイエンスとはもっとプレサイス(precise)に物事を予測できるもの、たとえば物理学モデルのようなものだと私たちがイメージしてしまうと、異なる航海術をとる人の間で船出する前から喧嘩になってしまう。たとえば、「〇〇精神療法」と「△△精神療法」のどちらが科学的に優れているか、などと堅苦しい言葉で言っていても仕方がない。それよりも、どういうふうに言葉かけをしたら相手の人はちょっと元気になってくれるだろうか、といったことの方が大切ですもんね。

常連さん
常連さん

うん、そうですよね。

村井俊哉
村井さん

そんなふうに試行錯誤でやっているわけです。そのときに、傾聴中心で行くのか、多少踏み込んでこちらも意見を述べるのか、どっちがいいんだと。こうしたことについてエビデンスをもとめて大規模な臨床試験に落としたところで、まあ出たとしても、「こういう研究の枠組みではこういう結果が出ましたよ」というだけのことですね。いまわれわれが航海しているか泳いでいる暗黒の「知識の海」みたいなイメージが、こうした結果を解釈する際のベースにあればと思います。

常連さん
常連さん

哲学というよりは、「一神教なのか多神論なのか」というような宗教的なメタファーのほうが近いような感じですね。ひとつの原理ですべてが終わっているのが一神教のイメージなんですけれども、いまの「知識の海」には、多神教的なイメージのほうが近いですよね。

村井俊哉
村井さん

多神教って、何か神さんがそこらじゅうにいるみたいですが、われわれが泳いでいる海というか、イメージというのは、その神様に滅多に出会えなくて……。たまに、お地蔵さんとかが助けてくれますが……またしばらくは、もう闇のなかで行かないとしゃあない。

常連さん
常連さん

だから臨床実践は、これはおそらく精神科でも身体科でも僕はあまり違わないように思うんです。よく、からだのことってスッキリわかっているけれども、こころは見えないからわからないんだという比喩をよく心理の人は使われるんです。
けれども、僕は全然そう思っていなくて、「からだ」だってぜんぜんわかっていない。不確実で、複雑で、ぐじゃぐじゃしていて、予測してもそれは当たるかどうかもわからない。海の中を泳いでいるときに、まあちょっと確からしいぞというのが、こうポッと……灯台のように……。

村井俊哉
村井さん

確実に治る病気もときどきありますけど、本当にときどきであって。

常連さん
常連さん

しかもそれは、どっちかというと、確実に治る病気って、ある意味、自然経過といいますか、待っていれば治るというほうが多いですよね。ある経過を邪魔しないでいれば。
ところが、そのときに何か複雑なことがたぶん起こっている。例えば炎症なんかそうですよね。最初にばーっと浸出液が出て、好中球が走ってきて、そのあとフィブリンが出てくる。実は複雑なことなんだけれども、怪我をしたところが、二日目には腫れるけれども、それがだんだん引いていって、一週間で治るというストーリーとして予測できるから、みんなびっくりしない。

村井俊哉
村井さん

そこで起こっているメカニズムを全部明らかにしようとすると、ものすごく大変なことなんだけれども、大雑把に言えば、ひとつの定型的なストーリーを利用しているからわれわれは医者をやっていけるので、それをしなかったら、もうドツボにはまるわけですよね。

常連さん
常連さん

そうです(笑)。

村井俊哉
村井さん

だから、すべて明らかにしないと医学はだめなんだとか、ちょっとでも不確実なことがあったらそれはだめなんだみたいなほうに行っちゃうと、むしろ、普通にやっていれば何とか泳ぎ着けるものが泳ぎ着けられなくなっちゃう。

常連さん
常連さん

そうですよね(笑)。

齋藤先生
▲精神科でも身体科でも、暗い海の中を泳いでいるうちに「確からしい」という「灯台」のようなものを見つけようとする体験と姿勢が大切だと、齋藤先生

航海術のまえに

常連さん
常連さん

心理療法でもそうだと思います。冷静に見て行くと、だいたいどんな心理療法も優秀なセラピストが丁寧にやっていれば、半分ぐらいの人は確実に良くなる。確実というか、半分ぐらいは良くなると。でも、そのうちの三割ぐらいは実は、何もしなくても良くなるという人で(笑)、誰がどうやっても良くならない人というのがやっぱり二、三割いる。そういうところはコンセンサスとしてあって、あとは、その時その時に、どのぐらい状況に合わせた何かができるかみたいなことです。
暗い海を泳いでいる感覚で臨むと、こういうことが全体として見えるわけですよね。にもかかわらず、「認知行動療法以外は心理療法ではない」と言う人もいれば、「認知行動療法は、あんなのわざわざ人間がやることではない」みたいなことを言う人もいます。これは、どう考えても不毛でしょう。その辺はもう少し全体像を、あまり先鋭的にではなく、「こんなものなんだよ」というのを示してあげないと、いちばん困るのは、これから学ぼうとしている学生さんだろうと思うんですよね。

村井俊哉
村井さん

下手をすると、全人的に見るというのと、科学でやるというのが対立しちゃって、せっかく全人的にといっても、またそれと何かが対立するみたいなことで、きりがないんですね。なので、最初から「多元的なんですよ」というのはひとつの方便かもしれません。結構「しょせん暗い海だから」みたいな見方がしっくりくるんじゃないかなという思いがあります。

常連さん
常連さん

海のたとえで行くと、共通部分というのは、どの流派の「航海術」を使うとしても、「船というもの」はこうやらんと動かんよ、ということですよね。

村井俊哉
村井さん

(笑)そうそうそう。そう。

常連さん
常連さん

でも、ときどき、船ってこうやらんと進まんよねというのと「逆」のことをやっている人が、たまに、いはりますよね。

村井俊哉
村井さん

たまに、いはりますね。たぶんその「航海術」の流派の違いというものは、ある種の気象条件のときはある航海術でうまく乗り切れて、別の条件のときは別の流派の航海術が危機を乗り越える。でも、どの条件のときにどっちの流派で対応するかというところまでは正確にわかっていないので、たまたま今日の天候はこうだったので、日本流のチームがヨットのレースで勝ったけれども、今回の条件を日本の航海のあれにはもうちょっと合っていなかったかなというのはよく言うような感じなんですかね? それで、ところどころに目印になるような灯台みたいなものがあったりとかする。でも、そうは言っても、何回やっても圧倒的な差があってオーストラリアチームが勝つ。その航海術が世の中を席巻する。そういうことが医療でもあります。

常連さん
常連さん

これもメタファーですけれども、ソリの競技でワックスを間違えると、全然だめ、ものすごく実力のあるところでも、ワックスを塗り間違えると全然だめになっちゃうみたいなことってありますよね? たかがワックスなわけですね。だけど、やっぱりそういう小さいディテールが非常に結果を左右することはある。
けれども、そこばっかりに注目してしまえば、それでは、じゃあ、ソリの競技はワックスだけで成り立っているのかという話になっちゃうわけです(笑)。精神療法の技法ってそれみたいなものですよね。「確かに、それはそれで大事なんですが、まずそもそもやっぱりその基本技術があるか、という……」(笑)。ソリになってさえいないようなものに、いくらワックスを投じたってだめなので。

村井俊哉
村井さん

ちょっと研究の話に戻るんですけれども、その根本になっているところって、実証的なデザインがつくりにくいんですよね。基本になっているところが共通だからこそ、細かいところの実証デザインができるので。
ただ、どうしても医学全体の問題として「疾患があって、それを診断して、治療という介入を課す」というパラダイムがある。ところが、実際には、何かよくわからないけれども、「一緒にいたら治る」ということがあったりするわけですね。それって、非常に「デザイン」にしにくいですね。
なのにどうしても、やりやすいところのことが目立つし、評価される。いわゆる「夜の駐車場で落とし物をしたときに、街灯のあるところだけを捜す」ということですよね。

常連さん
常連さん

ああ、そうです。わかりやすい。

 

村井俊哉
村井さん

明るいところだけを捜しているということをやっているということは、自分ではわからないから、なんで暗いところを捜さないの? という話なんだけれども、しかし……明かりがないから捜せないんですね。
齋藤さんたちのされている分野もそうですし、僕らのところでもそうですけれども、精神医学は重症でない精神疾患といわれている気分障害とかはもう、「医療モデル」以外のモデルで社会が扱ったほうがトータルとしていいかもしれない、という考えさえ可能なわけです。
僕自身は医学の側の人間なので、医学モデルで扱うことを当然というふうに普段は語っているわけですが、そうした考え方に問題があるかないかということは、医学モデルのなかでやっている研究デザインのなかでは出てこないわけです。

常連さん
常連さん

はい、そのとおりなんです。ただ、自分にとっても耳に痛い話なので、あえてそういう発想をするためには、どうしても、ちょっと荒療治といいますか、外からの、あるいは、人類学的な視点とか、そういうものがないと、やっぱりそういう発想って、そもそも出てこないんですね。

村井俊哉
村井さん

ええ、そうですよね。

村井先生、手前に斎藤先生
▲「夜の駐車場で落とし物をしたときに、街灯のあるところだけを捜す」になってしまいがちだと村井先生

耳が痛いほうに耳を傾ける

常連さん
常連さん

「だから、「医療がむしろ病気をつくっているんじゃないか」という発想は、反精神医学とかいうことではなくて、常に考えていなければいけないことだと思っています。

村井俊哉
村井さん

僕は今でもすごく残念なのですが、反精神医学って、今日非常に評判が悪いんですね。昔は評判が良かったんですけど……。そういう時代に正統な精神医学の側にいて苦労した人たちは、反精神医学のことを黒歴史として全否定するわけです。

常連さん
常連さん

なるほど、なるほど。

村井俊哉
村井さん

ただ、そういう時代に苦労した先輩が反精神医学のことをそのように言うのを、下の世代の人が、単純に受け売りで、けなしている場面をみることがあるんです。やっぱり自分で一度ちゃんと考えたほうがいいですね。自分でそれなりに考えると、そう簡単に論破できない話って、結構あるんです。

常連さん
常連さん

はい、はい、はい、はい。本当に、そうですよね。

村井俊哉
村井さん

鵜呑みにしてやっているのはリスキーです。そういう、人の話を鵜呑みにしてずっとやってきた人って、人生のあるときに、例えば目論んでいたプロモーションがうまくいかなかったとか、家庭で辛いことがあったとか、何か自分の人生の危機に遭ったとき、突然、反医学とか、反精神医学とか、あるいはスピリチュアルやオカルトに唐突に向かうんですよ。
反精神医学やスピリチュアルが悪いということではなくて、唐突に大きくぶれてしまうことが何かおかしいと思うわけです。若いときに、ちゃんと自分自身で両方考えて、「こういうよい面もあるいけれどもこういう問題もある」といったことを考えた経験のある人は、のちに人生の危機にあったとしても、唐突に大きくぶれることはありません。

常連さん
常連さん

メタで考えている限りはぶれないですよね。なるほど、やっぱり免許を持っている者がそういうことを言い出すと、周りに対する害が大きいね。
私が今所属している学部ですと、人類学とか社会学との教員を採用していますし、そこである意味「反-心理学」風の話も、学生は聴く機会があります。教えている方々が「反-心理学」なわけではないのですが、考え方としては、いわゆる批判理論みたいなものがしっかり学べるので、まあある意味、そういうのはいいと思うんですね。

村井俊哉
村井さん

 いいですね。耳が痛いものを排除しちゃうと、あとが逆に危ない。

常連さん
常連さん

純粋培養では、しっぺ返しが怖いですものね。

左手に齋藤先生、右手には村井先生
▲本来は複雑な臨床の現場をいかに若い臨床者たちに伝えていくか……熱く語り合う

(2020年3月10日掲載)


■協力:tsubara café(ツバラカフェ) /取材:木立の文庫

第六話 心のありか、心の様相

[磯野真穂]


 すでに私で六走目に達したリレー。
 まず、二巡目最後の私でこのエッセイに大ブレーキがかかったこと、岡田さんと齋藤さんにお詫びしたい。前回何を書いたか忘れていてもおかしくないほどの時間が過ぎてしまった。

 おさらいをしておくと、「心身という言葉に違和感はないですか?」という私の問いに対し、岡田さんも齋藤さんも「そのような違和感を感じたことはない」と率直にお答えくださった。そしてそのうえで、たいへん誠実なエッセイをそれぞれの専門性から展開してくださっている。やっぱり先輩ってありがたい(加えると、齋藤さんがあのマニアックでかつ利用頻度も低い呪文「ザメハ」を知っていたことに驚きを隠せない。一度ドラクエ談義をさせていただきたいものである)。

 しかしそのような返信をいただいたにもかかわらず、当の私が大ブレーキをかけてしまった。繰り上げスタートになってもおかしくないレベルで六走目のバトンを持ちっぱなしにしていた訳である。いったい私はこの間、何をしていたのか? ――ぼんやりしていたわけではなく、不思議な巡り合わせ、魂全開の上半期を送り、その結果、下半期はその抜け殻のようになっておりました。

 このためどうにもこうにも手がつけられず。
 ごめんなさい。


心があらわれる処

 さて今日は、四走目の岡田さん「第四話 心と身体の空間」の言葉から始めたい。

ラベルが理解を妨げる理由は、ラベルは対象物を整理するために対象物の表面に「付けるもの」あるいは「貼るもの」であり、それは、本質的に中身を覆う行為であるからである。

 岡田さんがいうように、ラベルとは実に便利なものである。名札で世の中を腑分けすることによって、世界が整理され、わからないことがよくわかるようになったような気がしてしまう。実際にそれでわかることも多いのだが、岡田さんはその裏にある「ラベルの陥穽」を的確に突いてくださっている。
 そのような目線で三走目から五走までの我々のやりとりを何度か読み返すと、“心”というラベルによって覆われていた世界が見えてきた。

 まず精神分析家である岡田さんは、「無意識と意識の交錯」に心のあらわれをみている、と考えた。友人の精神分析家が「精神分析家はたとえ爆弾が落ちてくるような状況であっても分析をしている(つまり環境ではなく、無意識と意識の交錯から現れる現象として問題を捉える)」とうそぶいていたことがあるのだが、精神分析というのは、無意識を措定し、そこを丁寧に見ることで“心”に奥行きを持たせ、人生に生じるさまざまな問題を扱うことができるようにした学問と言えるのではないか。

 かたや医師である齋藤さんは、心身医学会が自らを刺し殺すような「心身症」の定義を作り出してしまったことを嘆きながら、心と身体についてのエッセイを提示してくださった。明らかなのは、ここでの齋藤さんの心のスタンスは、あくまでも「身体との接点にあらわれる重要な何か」として“心”を捉えていることである。

 他方、文化人類学者である私は「身体と世界の接点」に“心”を見る。私は「身体とは、それ自体が心ではないか」と思うこともあるのだが、それは私の学問的背景のせいなのだということがよくわかった。“心”を「傾向性」として捉えるギルバート・ライルの理論がすっきりくるのも、そのせいなのだろう。
 したがって、このエッセイはもしかすると、心という言葉を使わず、お互いのスタンスをより明確に示すような言葉を選んだ方が良い場合もあるのかもしれない。というより、お二人のお話を聞いた結果、ますます“心”がわからなくなった。心って何?

森の中の一本道をゆくバックパッカーが一人。手前にラウンドアバウト交差点の標識
身体-心-世界-心-世界-身体-世界-心-身体…

 

心ならではの在り方

 さて、そんな私は昨日から、大塚伸一郎さんからご恵贈いただいた、C.G.ユングの『分析心理学セミナー』(みすず書房 2019年)を読んでいる。
 精神分析と哲学はいずれも人類学と関係の深い領域であるが、私はこの二つを――書物にはふれながらも――いつも遠巻きに眺めていた。一度踏み込んだらずぶずぶになって、出て来られなくなりそうな予感がしていたからである。しかし何のご縁か、この二つの領域があちら側からやってくるようなことが最近増えた。きっとこれは、「いい加減きちんと向き合え、というお告げに違いないと」と思い、おそるおそるページを開いた次第である。

 結論からいうと『分析心理学セミナー』。ものすごく面白い。なぜもっと早くにページを開かなかったのか、と思う。しかし他方で、その内容に驚いてもいる。率直に受かんだ言葉を言うと、ちょっとぶっ飛び過ぎてないですか?!
 ここで紹介されているユングのアクティヴ・イマジネーションの解説にはこうある。

たとえば「ヘビ」の姿が心に受かんできたら、そのヘビとともにファンタジーに留まり続け、そのヘビに対しパッシブに身を委ねたり、アクティヴに関わったりすることを繰り返しながら、無意識との対話を重ね、徐々に心の深みに降りてゆく。

『分析心理学セミナー――1925年、チューリッヒ』C・G・ユング(みすず書房 2019年)

 これを読んで私の頭に真っ先に浮かんだのは、シャーマンのおこなう「呪術」である。エスノグラフィはこのような話にあふれている。アクティヴ・イマジネーションは、適当にやると危ないので、きちんと訓練された専門家とともにやるべき、といったことも書いてあるが、これも「ちゃんとしたシャーマンの治療を受けないと病気が治らない」というのと同じではないのか?

 精神分析家は、これを十把一絡げに「呪術」と言われるのは納得がいかないだろう。おそらくこの問いに対しては、すでにいろいろな答えがなされているとは確信するが、お二人の先生は、精神分析と呪術を分かつものを何だと考えているのだろう? 私からの小さな問いである。

 

社会でのあらわれと在り方

 さて、もうひとつ最後に、齋藤さんのいう“心”に近いところから問いを投げたい。
 日本におけるHPVワクチン接種率の低下が問題視されて久しい。この問題で注目したいポイントは複数あるのだが、そのひとつは、対象者が接種後に不調を訴え、その不調が続いた場合、その不調の原因が“心”にあると語られがちなことである。

 実際にそういうこともあるのかもしれないが、他方で、この言い回しには暴力性も感じる。
 なぜなら、彼女たちの不調が心の問題に回収されるとき、そこには「それは本当の病気ではない」といったニュアンスが入り込んでいるからである。HPVワクチンの問題は、それ自体が多様な意味で深刻さを孕むが、それを通じて、疫学に回収しきれない問題に対する「コミュニティの向き合い方」を見渡すことが可能であり、またその際に、そのコミュニティのなかで“心”がいかなる存在・あらわれであるかを知る契機にもなると考えている。

 いかがだろうか。

[追伸]
生徒も学生もいないのに先生だけがいるのはどうも居心地が悪いので、敬称を変えさせていただきました。


磯野真穂磯野真穂(いその・まほ)

国際医療福祉大学大学院 保健医療学専攻看護学分野准教授
1999年 早稲田大学人間科学部卒業(スポーツ科学)
2010年 早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程修了
こころの分野は、文化人類学(医療人類学)
からだの分野は、ボクシング(ライセンス取得 2013年)
著書
『なぜ普通に食べられないのか』(春秋社 2015年)
『医療者が語る答えなき世界』(ちくま新書 2017年)
『ダイエット幻想――やせること、愛されること』(ちくまプリマー新書 2019年)
共著:宮野真生子
『急に具合が悪くなる』(晶文社 2019年)
●磯野真穂 公式サイト
http://www.anthropology.sakura.ne.jp/

「根回し」のほんとうの意味は

[中島由理]


雑木林に戻そうと思っている荒地に来春に移植するための木の周りを掘り進めている。

根回しという言葉のもともとの意味を知ったのは、木を植え替えたときだった。

根回しとは、植え替える半年前にあらかじめ根を切っておいて、細い根を発生させて、新しい土地に活着させやすくすることである。
太い根を断ち切ることには躊躇しそうになるけれど、古い根を切るとそこからしなやかで生き生きとした新しい毛細根が出てきて、根はにわかに活性化する。

見知らぬ場所に移動させられた木は、その瑞々しい根で大地の滋養を活発に吸収し、新しい場所にしっかり根付かせようと勢いよく大地を掘り進めてゆく。

 

落葉樹の場合、ある程度成長した木でも、活動期にあらかじめ古い根を整理し、新しい根を発生させておいてから、地上部が休眠している時に移植すれば、しっかり根付いてくれる。
根を切った分量に相当する上部の枝葉も切っておく。切った根が送っていた分の水や養分が枝葉に届けられなくなるからだ。

植え替えられてしばらくは、昔の場所になじませてきた枝葉が新たな場所には違和感を感じさせるけれど。
数年もたつと、最初からそこにあったかのように、その場にふさわしい姿へとしなやかに変えていくのは見事である。

 

移植された木は、本来ありえない移動という事件に遭遇して、根と枝葉を削られ、生まれ故郷から追われても新しい場所でさらに大きく、生き生きと新たな生の営みを紡いでいる。

木は一部を失っても、生きようとする生命力そのものが削がれることはないように見える。

「大いなる生命」は無際限に充溢しようとしているかのようである。
生命が流れている限り、失うものは何もないのかもしれない。

失ったように見えても、やがて尽きない泉の水がそこを満たし、溢れてゆく。

無際限の生命の泉に繋がっているなら、自分にとってもう必要のない古びた根は解き放って、そこに新たな根を活性化させて新しい養分を吸収し、より大きく、瑞々しくいのちを沸き立たせる未知の場所へと広がっていけるのかもしれない。

オオカメノキの紅葉
オオカメノキの紅葉

 

低山の低木の中でとりわけ大きな葉が印象的なオオカメノキ。

山の中の大きな木の陰で、肩身の狭そうな貧相な枝振りだったオオカメノキを、庭の主役の位置に据えた。

根元を林の腐葉土でたっぷり覆って、新しい根に行き渡るように水やりは欠かさないようにした。

 

朝陽があたる広々とした空間で枝をたわわに広げ、数年たった今、貫禄ある姿になってきている。
とりたてて手はいれていない。
木がその空間に合わせて絶妙な姿へと変身していくのに任せている。

 

春には無数の花を咲かせてくれる。
山では見たことがないような、ものすごい数の花なのである。


中島由理 (なかじま・ゆり)
京都市生まれ、同志社大学で哲学・倫理学を専攻。
自然の中での人の立ち位置を考えるなか“ほんとうの自然”を自分の目で確かめるため、自然農を試み、日本各地の原生林や高山を訪ね歩く。人の手の入らない自然の中に、驚くような調和とうつくしさを見つけて、「森」をモチーフに油彩・水彩で表現。現在、山梨県小淵沢町に居を移し、身近に自然と接しながら、制作を続ける。
●中島由理 公式サイト
http://www.ne.jp/asahi/yuri/gallery/index.html

こんにちは

世界的な英語辞典にも収録された ‘HIKIKOMORI’
この社会課題への「生物/心理」labo.連載です!
―― スタート回は加藤隆弘さん(九州大学病院精神科神経科)に思いの丈を語ってもらいます。


わたしのひきこもり

[加藤隆弘]


《みんなのひきこもり》という連載をはじめることにしました。
このタイトルを目にしてどのような印象を持たれるでしょうか? ――「『みんな』とはどういうことだ! 俺はひきこもりじゃないぞ!!」と非難したくなる方が多いかもしれません。NHKの音楽番組「みんなのうた」、あるいはサザンオールスターズの『みんなのうた』を連想される方もおられるかもしれません。

私は、精神分析的な足場をもつ精神科医として日常臨床のなかで「社会的ひきこもり」〔このあとは“ひきこもり”と呼びますね〕と言われるような方々と出会い、彼ら・彼女らに向き合っている日々です。並行して、国内外の研究仲間とともに“ひきこもり”の病態解明と新しい治療法開発のための国際共同研究(参考WEB記事)をすすめています。
「ひきこもり」という言葉は、世界で最も有名な英語辞書であるOxford Dictionaryに ‘Hikikomori’ という形で紹介されるほど、国際語になりつつあります。日本以外の国々で「ひきこもり者」の存在が次々と報告されており、“ひきこもり”は国際的なトピックになりつつあるのです。だからといって、もちろん、世界中のみんなが将来“ひきこもり”になると言いたいわけではありません。

なのに、なぜ「みんな」の“ひきこもり”なのか?
そのわけはここでは明かしませんが、私は、そもそも「みんな」という言葉が大嫌いなのです。生理的に「みんな」という言葉に反応してしまう人間なのです。家族から『みんなは○○しているのに、貴方は?!』と言われることほど苦痛なことはありません。こうした場面で、私は内心「『みんな』って誰だよ! 俺は『みんな』じゃないぞ!」と思うのです。
こうした心性を、私だけでなく、少なくとも一部のひきこもり者は持っているのではないかと思うのです。「みんな」という言葉が頻用されるこの日本社会であればこそ、ひきこもり者が100万人も存在するのではないか? と空想することさえあります。

サザンオールスターズの『みんなのうた』、この機会にまじまじと歌詞をながめてみました。失恋と孤独感をテーマにした曲なのですね。
この連載では、「みんな」という言葉をキーワードにしながら、“ひきこもり”のことを考える場を提供できればと思っています。私たち一人一人のこころのなかに“ひきこもり”的な部分がきっとあるだろう、と私は思っているのです。みなさん、日本の、世界の、そして自分自身の “ひきこもり” に出会ってみませんか?!


加藤隆弘加藤隆弘(かとう・ たかひろ)

九州大学病院 精神科神経科 講師
日本精神神経学会専門医・指導医、精神保健指定医
共著『北山理論の発見』(創元社 2015年)など
●参考WEB記事のURL https://www.data-max.co.jp/article/21378?rct=health

まちかど学問のすゝめ 其の四

《木立のカフェ》はヴァーチャルでリアルな喫茶店。マスターの村井俊哉さん(京都大学精神医学教室教授)が京都市内の喫茶店をぶらっと訪れて、そこに集う人たちと「こころとからだ」「文化・社会」について語り合います。
きょうは、前回と同じく鴨川沿いのドイツ料理店: カフェ・ミュラーさんにお邪魔しています。ジャーマン・スイーツを味わいながら、常連さんと今日も “まちかど学問” 談義… 折しも11月30日から始まる「多文化間精神医学会」の話に…。私たちが人と出会うとき、そこにはどんな「文化/時代」が織り込まれているのでしょうか?

無くてもいいもの だから大切に…


● 村井俊哉:1966年生まれ、京都大学医学研究科精神医学教室教授
京都大学医学部附属病院 精神科神経科 公式サイト
https://www.kuhp.kyoto-u.ac.jp/~psychiat/
● 常連さん:1967年生まれ、勤務編集者を経て、出版プランナー

 

カフェ・ミラーの日本庭園
▲秋の夕暮れには テラスで“まちかど学問”でも…
常連さん
常連さん

前回の《木立のカフェ》は、《病跡学会》の大会をまえに「精神医学と芸術」をめぐって盛り上がりましたが、学会シーズンはまだ続くようですね?

村井俊哉
村井さん

こんどは《多文化間精神医学会》の大会長を務めます。

常連さん
常連さん

11月30日から伏見の龍谷大学での開催ですね。《多文化間精神医学会》というのは比較的あたらしい学会なのでしょう?

村井俊哉
村井さん

《社会精神医学会》の一部があるときに分かれたと聞いています。精神医学に社会的な影響があることを考えるのが社会精神医学で、そこから「多文化」という観点から分かれて創設されたということで、トランスカルチュラル(transcultural)という名称になったのだと思います。

常連さん
常連さん

「間」という意味合がcross-やinter-ではなくtrans-に込められている…。そんな精神医学では、「文化」をどんな風にとらえるのでしょう?

村井俊哉
村井さん

多くの人がイメージするのは、レヴィ=ストロース(Lévi-Strauss)のような人が「途上国」に行ってそこの文化を見て、自分たちの文明を振り返るようなスタイルでしょうか。

常連さん
常連さん

日本も文化人類学をはじめ、実際に入って行って他文化に触れるフィールド・ワークが盛んでしたね。

村井俊哉
村井さん

いまでも「多文化間」という観点では、そうした関与観察を重視する立場がひとつあって、もうひとつに、国際協力研究としてデータを持ち寄って、研究者自身は現地の人と生活を共にしたりはせずに、統計解析に乗せるスタンスがあります。

常連さん
常連さん

後者では、医学という土俵でのエビデンスが浮かんでくるわけですね。

村井俊哉
村井さん

研究スタイルとしてはかなり異なるこうしたふたつの立場が混ざっているのが《多文化間精神医学》だと思います。

村井俊哉教授
▲ 元・バックパッカーの村井さん

 

文化差が問題なのでしょうか

常連さん
常連さん

比較文化心理学のようなジャンルもありますが、精神医学固有の問題としては…?

村井俊哉
村井さん

ひとつ問題になるのは、外国人が日本に来た場合に起こる事態ですね。

常連さん
常連さん

労働問題とか?

村井俊哉
村井さん

あとは観光客の問題。旅行の途中で症状が出て受診したけど、これは精神症状なのか? それとも国の文化なのか? そこがわからないというようなこともあります。

常連さん
常連さん

アメリカなどでは常にある問題なのでしょうね。

村井俊哉
村井さん

たとえばヒスパニックの人たちの診療のときには、文化差というのを考慮して適切な医療を届けなくてはいけません。症状の評価をする場合でも、うつの表現の仕方は文化によってかなり異なりますので、文化差に鈍感など評価を誤ります。クラインマン(Kleinman)は「中国ではうつを『うつ』と言わない」と指摘しています。
うつをこころの症状ではなく、「頭が重い」など身体の症状として患者は表現し、医師もその症状を拾うので、病名としては「神経衰弱」という概念がより広く流布している、という指摘です。うつというと「こころの病い」になってしまうので、精神疾患に対する偏見が、病気を身体疾患に寄せて考える見方を後押しするのだ、といった説明がされます。

常連さん
常連さん

文化的なスティグマは根深いでしょうね。

村井俊哉
村井さん

たぶん実務上は、そういう「現場」での個別の患者さんへの対応が《多文化間精神医学》でいちばん大事なテーマでしょう。対応するこちらの側の苦労、気づき、成長などもそうした臨床場面には含まれていますので、これも広い意味で「フィールド・ワーク的」多文化間精神医学と呼んでよいのかもしれませんが。
一方で疫学・統計学的な研究、つまり研究者が事態に巻き込まれない研究については、たとえば「統合失調症の発症率は途上国のほうが低い」というような研究が有名です。
この研究は、現代社会、医療、薬物療法がむしろ病気をつくっているんだという言説を後押ししましたし、一方では、最近、この研究はデータのとり方に不備があることが指摘され、論争の的となりました。《多文化間精神医学》が精神医学全般の問題(この場合は統合失調症の原因ですが)に大きな影響を与えた研究と言えると思います。

 

常連さん
常連さん

文化差というのは、言葉の違いやコミュニケーションの違い以上に、深いところ… たとえば精神構造のようなところに出ますか?

村井俊哉
村井さん

そういう意味でいうと、これはまったく個人的感想ですが、日本からすると、ヨーロッパやアメリカはほぼ問題にならない。韓国もまず問題にならなくて、東南アジアも。中国も、日本に来ているような人たちではまず問題になりませんね。よく「韓国人と日本人の気質の違い」とか言いますけれども、そんなものは、精神科の重大な症状が出ているときは、症状の差のほうが大きいので、そこに吸収されて、文化差はほとんど問題となりません。

常連さん
常連さん

欧米もアジアも「文化差」問題がないとすると…。

村井俊哉
村井さん

私の個人的経験では、難しかったのは中東諸国の人たちでした。「宗教」の違いが大きいですが、同じ宗教でもインドネシアの人たちの診察ではそれほどの困難は感じませんので、宗教を含む広い意味での風土の違いということでしょうか。

常連さん
常連さん

この時代、アジアのなかでの心性の違いが云々されますが、中東には思いが及びませんでした。

村井俊哉
村井さん

昔、本多勝一が『カナダ=エスキモー』とか『ニューギニア高地人』とか、関与的な取材を報告していました。遠目にはまったく文化が違って見える人たちも、現地へ入っていくと、わかりあえるじゃないかと。つまり「懐に入ればわかり合える」という本を書いて、ベストセラーになりました。
ただ、もう一冊『アラビア遊牧民』という本があって、そこでは、「人類みな、わかり合える」と言い切れない壁みたいなものも感じた、ということを書いていたと思うんです。そういうことを僕らも、感じることはありますね。
もちろん、精神科医である私たちの場合には、この国の文化はわかりにくい、では済まされず、自分が責任を持つことになった患者さんに元気になってもらわなければなりませんので、そういう状況でも、何とか突破口を探る努力を続けます。

 

村井俊哉
村井さん

そういったことも含めて、《多文化間精神医学会》はとても面白いです。もともと精神科というのは色んな立ち位置の人がいるところが面白いのですが、研究をする精神科医の側の多様さが増幅された感じがして…。

常連さん
常連さん

自分たちの間にも「文化差」がある…。そういう意味でも、立ち位置の多様性を含んだ議論は、これからますます大事になってくるでしょうね。

村井俊哉
村井さん

そうした議論は、「他民族」批判が噴出した際に重要ですね。国家間の政治的軋轢などをきっかけに「韓国人はこういう民族だ」みたいな言論に私たちは陥るリスクがある。そうしたときには必ず「日本人論」が出てくる。日本人の「白黒はっきりさせないところがいいんだ」みたいな…。

常連さん
常連さん

湿潤な気候では「水に流」せて素晴らしい、みたいな…。

村井俊哉
村井さん

たぶんその同じ流れで、これからの社会では、日本文化と韓国文化の違いのような個別文化の違いよりも、「グローバリズム」のほうが重い問題になってくるでしょうね。つまり「世界全体の文化均質化の方向へ向かっている」ことへの視線です。

常連さん
常連さん

グローカルや、ダイバーシティみたいな話をからめて。

村井俊哉
村井さん

精神医学は社会学というような大きな分野ではないので、基本的に病気になった人に対して、精神疾患という病気に対して、文化的なファクターがどう影響するかという問題から考えることになるわけですが。

常連さん
常連さん

国民の「気質」分類が合っているかどうかよりも、病気としてどう捉えられるか…。

村井俊哉
村井さん

たとえば自殺率の高さというのは、気候だけでは説明できません。たしかに北の国では高くて南の国は低いけれども、イタリアの自殺率の低さを単に「暖かい国だから」というだけでは説明できない。そこには、カトリックが自殺を禁じていることなど、「文化」の要因が絡んでいるはずです。
ドイツと比べたらイタリアのほうが所得が低いし、ドイツのほうが社会保障がしっかりしているはずなのに、自殺率というアウトカム(outcome)で見ると、イタリアのほうが良い。この事実は、「気候」や「宗派」の違いだけでは説明がつきづらいのではないでしょうか。

常連さん
常連さん

遺伝子なんかが着目されたり?

村井俊哉
村井さん

もちろん、そう言う人もいます。ただ、歴史のなかでヨーロッパの民族はすごく混ざり合っているので、自殺しにくい遺伝子/しやすい遺伝子というのが淘汰を重ねるには何世代かかるかということを考えると、遺伝子だけでは説明できず、まさに「文化」と呼んでおくしかないようなことがらが影響しているのだろうと思っています。

常連さん
常連さん

統計的・疫学的な視点からは「自殺」の他になにか重要なテーマは…?

村井俊哉
村井さん

どちらかというと、イタリア人とドイツ人の国民の文化差なんていうのは、気楽な話題です。もうちょっとシリアスな問題は、世界じゅうの紛争地域での精神疾患の比率が、一般の人口と比べてどうなのか? というテーマがあります。
当たり前ではありますが、うつと、不安と、PTSDは紛争地帯では明らかに高くなります。
「この地域の人たちは戦闘民族の血を受け継いでいるので、子どもは生まれたときから銃を与えられてこそ生き生きと育つのだ」みたいな言説を耳にすることもありますが、こうした考えが基本的にはおかしい、ということをこうした疫学研究は指摘してくれます。でも、そのあたりまえのデータを出すのがけっこう大変なのです。多文化間の比較というのは、すごく難しいんですよ。

カフェ・ミラーの日本庭園の池
▲この施設じつは むかし「日独文化研究所」…

それは文化? それともシステム?

村井俊哉
村井さん

面白いですよね、文化って。自分たちがつくったものによって自分たちが縛られるというのが文化なんですよね。ある種の思い込みで「日本人はこうあらねばならない」とかいう意識が自分や周りの人の行動を決めていく。そして、自分と周りの人でつくったルールで自分たちを拘束していく、という…。

常連さん
常連さん

民族間とか人種間もあるけれども、ひとつの国のなかでも、たとえば、世代間で「文化」が違うとか…。昔は何があっても学校に行けと言われていたのが、今は、行って死ぬなら行かないほうがいい、と言われています。

村井俊哉
村井さん

そういう意味では、ぜんぜん文化と関係ないと思われているいろんな病気も、文化で説明したほうがいいかもしれないですよね。たとえば「ゲーム依存」が疾病として位置づけられましたが、若い世代の人たちにとってゲームって、文化なんですよね。

常連さん
常連さん

ネット依存もそう。

村井俊哉
村井さん

そういう「文化依存」症候群というか、その世代の人たちに特有の症状は興味深いですねぇ。世代が違っていたって人はみな何らかの“弱点”を同じように持っているはずで、たまたまそのときの環境によってある症状が出るわけじゃないですか。そのときの文化によって、症状は違った形で出るわけですね。たとえば、妄想ひとつとっても、今だと「インターネットを通じで自分の考えが盗用されている」と訴える人が多いですが、昔だと「テレパシー」が定番でした。

常連さん
常連さん

“依存”がどこに表れるか? に時代や社会が見える…。

 

村井俊哉
村井さん

表面は違うけれども根っこのところは一緒で、その精神症状が異なる現れ方をするという視点で考えると、若い世代の「ゲーム依存」にあたるものが、今の高齢者の世代では何でしょう?
よく言われるのは、団塊の世代とかをイメージして「ワーカホリック」が挙げられます。でも、僕はちょっと違うかなと思ってね…。なぜなら、一部のワーカホリックな人はどんどんワーカホリックになりますが、多くの人はそうはならないので、世代を象徴しているとはいえないでしょう。

常連さん
常連さん

世代を象徴する、「ゲーム」に当たるようなもの… うーん、なんだろ? たとえば「健康至上主義」とか…? 「アンチエイジング」とか…?

村井俊哉
村井さん

“依存”するのは、それを取り上げられたら、もう、そわそわしてしょうがない対象です。ゲームのように、周りから見たらそんなことしてるより勉強をしたほうが良いにきまってるのに、それをしたくてたまらないし、取り上げられたら激しく怒る。そんな対象が、今の高齢者にとっては何だと思いますか?

常連さん
常連さん

「健康」に夢中なるのは、傍から見てそんなに非合理ではないか…。

村井俊哉
村井さん

僕は見当をつけているものがあります。クルマ!

常連さん
常連さん

えっ? あぁ!

村井俊哉
村井さん

高齢者の一定割合に、クルマを手放せない人がいます。もちろん全員ではないですよ。また、都市部の生活者ではなく他に交通手段がなく、クルマに乗りたくなくてもそれができない人もたくさんいます。なので話は首都圏など都市部生活者に限りますが、クルマの維持費を考えたらタクシーに乗ったほうが安い人でも、手放せない。

常連さん
常連さん

人の命を奪ってしまうし。

村井俊哉
村井さん

事故が起きたらもう取り返しがつかないから、子どもの世代が『お父さん、もうクルマやめはったら?』と言う。なのに、なかなかやめてくれなくて、すごく苦労しているご家庭は多いと思うんですよね。これまではクルマは“依存”という観点では、おそらく誰も考えてこなかったんだけれども、この「手放せない」感からして、実はそうかもしれないと思っています。時代性でいうと、若い頃にはクルマというのがステータスの証しになっていて、自由を得られもする。仕事を離れて自分の時間が持てる。

常連さん
常連さん

社会の風潮や仕組もそのようにお膳立てしてきた。

村井俊哉
村井さん

ネット依存でも、スマホ依存でも、それが無いと成り立たないように社会が変わっていくなかで生じていますよね。クルマが便利な生活になると、鉄道とかバスへのニーズが減って、廃線となる。そうすると、ますますクルマが必要となって、クルマを二台もつことを前提に郊外に一戸建とかを買う。郊外だからどうしてもクルマが手離せない。
こう考えると、文化と関係する病気というのは、本人だけで起きてくるものではなくて、社会全体と本人との相関で出来てくることがわかりますよね。電車やバスの便の悪い不便な地域では、クルマに頼るしかないではないか、それを依存というのはおかしい、という意見はもちろん至極まっとうな意見ですが、そもそも社会全体が、自家用車を前提とした方向へと依存してきたので、結果として個々人としては「クルマ依存症」という状態ではない人も、クルマに依存せざるを得ない状態になっているともいえるかもしれません。

常連さん
常連さん

原発依存も連想されます。

村井俊哉
村井さん

まあ言ったら、そういう形で、若いうちからだんだんと緩やかに“依存”状態ができてきて、「はた」と気づいて、もう運転が危ない高齢になったときに、しかも仕事での必要がなくなったときに、それを手放すことができないというような…。

 

村井俊哉
村井さん

もちろん、これは半分冗談で言っているのですが…。文化と結合したこういう精神症状というか、精神疾患というのは、非常にダイナミックな社会状況のなかで、どっちかといったら本人の問題より社会の状況で、つくられていく。その社会の状況というのも、日本文化とか韓国文化という何か固定したものがあるのではなく、もっと流動的です。世代でも動いていくし、その変化によって我々がつくっている環境が変わる。その環境がまたその問題をつくっていく。こうしたものすごく複雑な側面を、精神症状・精神疾患は孕んでいます。

常連さん
常連さん

精神医学には、そこで何ができますか?

村井俊哉
村井さん

もちろん、重症な人はスタンダードな医学的治療を考えなくてはいけません。しかし、本来、その対応の仕方は、個人の病気を治しにいくという医学的対応以外にもあるのでは、という発想が重要です。

常連さん
常連さん

ゲーム依存からどことなく連想してしまうのですが、「ひきこもり」というのも、精神医学の対象とばかりも言えませんよね?

村井俊哉
村井さん

あれは「文化」の側面があるともいえます。強制的に引きこもりを許さないような社会制度だと、あるいは貧困が著しい国だと、ひきこもりは出来ないですよね。あるいは、これらは文化というより「制度」の問題かもしれません。もちろん、大人になっても家族が子どもを世話する、子どもも親の面倒をみるという、日本人のある種の美徳みたいな「文化」が影響しているとは思うんですけれども、だけどやはり、社会制度のほうがより強く影響しているのではないでしょうか。

常連さん
常連さん

たとえばどんな制度とか…?

村井俊哉
村井さん

たとえば、徴兵制というシステムがないことはが大きいと思います。あとは、保険制度とか社会福祉制度とかも関係してきますよね。こうしたことを考えると、ひきこもりとは、日本という国のよい側面の現れのひとつであるともいえるかもしれません。
一方で、日本では失業後の就労再トレーニングの制度が不十分ですよね。NEET(not in education, employment, or training)という言葉がありますが、日本では、このうちのtrainingの影が非常に薄いのです。
もう何十年も前に留学したドイツでは、産業構造の変化のために職業トレーニング中の人は大勢いましたし、そうした人たちはマインドとしては失業者というよりはeducationつまり就学中の人たちに近いものがありました。日本のひきこもりの土壌の負の側面としては、こうしたことがあるのではないでしょうか。

常連さん
常連さん

システムと文化の腑分けはむずかしそうやな。

村井俊哉教授
▲こう見えても「みうらじゅん」ファンの村井さん

いらないところに「はまる」

村井俊哉
村井さん

サブカルチャーも本当は「文化」なので、見逃せませんね。

常連さん
常連さん

何十万人もがつくっている文化ではなくとも…。

村井俊哉
村井さん

何人から文化をつくれるかわかりませんが、人が複数いれば文化ということで…。僕らは何々文化というものに専属しているわけではなくて、たとえば日本文化からある程度影響を受けていたけれども、政治思想としてはグローバリズムみたいなものが染みこんでいる。あるいは、趣味はこうでこう… とかいうことで、ひとりの人がいくつもの文化に所属している状態ですね。そうしてお互いが重なり合っているような状況なので、面白い。

常連さん
常連さん

ということは… 自分のひとりのなかで《多文化間~》って起こり得るわけですね。

村井俊哉
村井さん

ひとりのなかで… そのとおりです。

常連さん
常連さん

頭ではこう考えているんだけれども、体はこう動いちゃう、みたいな。

村井俊哉
村井さん

そうなんですよ。一人の人間の中でこっちの文化とこっちの文化が相容れなくなる。職場での文化と宗教的な文化が自分のなかで折り合いつかないとか…。ほかにも、大人でも社交クラブ、サークル活動みたいなのは盛んじゃないですか。ああいうものもひとつの文化ですよね。個人主義とか何とか言っていても、結局、何かクラブに帰属して安心している…。

常連さん
常連さん

宗教にも、信仰と教会がありますよね。

村井俊哉
村井さん

キリスト教でも、単に個人として神と繋がっているわけではなくて、ある教団に属して、教会に通っていつも同じ人から説教を聞いて、というなかで安心している。そのなかでボランティア活動をしたりして、同志とのつながりを深めているんですよね。人はそういうものに「帰属」しようとする傾向があって、その帰属先で縛られたり安心したりとかしながらやっている。そうしているうちに、いろんな症状が出たりすることもあるみたいな… そんな感じですかね。

常連さん
常連さん

帰属する/しないを折々に自分でコントロールできれば、いいのかなぁ?

 

村井俊哉
村井さん

依存症というのもそうかもしれませんよ。タバコ依存も…。もちろん、他人とはまったく無関係で独りで勝手に依存している人もいますけれども、多くの場合は、なんらかの文化的文脈の中で起きているのではないですかね。

常連さん
常連さん

なんとなく… 一人でやっている感じがしないですね。マリファナや違法ドラッグなんかも…。

村井俊哉
村井さん

依存症って、医学ではあまりそんなふうに考えられていなくて、単に脳の報酬系の問題として捉えられることもあるんですけれども、「文化と結合したものだ」という理解は面白いかもしれませんね。

常連さん
常連さん

さきほどの「クルマ依存」の話にも近くなるかもしれませんが、ハーレー軍団のおじさんたちも、やっぱり独りではやらないですね。

村井俊哉
村井さん

申し訳ないですが、何が楽しいのかと僕らは思っている。うるさくて迷惑だし… 事故のリスクがあって… お金もかかってるし… 真夏に革ジャン着て、「なにがええんか!」と。その仲間集団に所属していない僕らから見たらそうなんですけど…。

常連さん
常連さん

本人たちは自由と帰属を満喫している。

村井俊哉
村井さん

そういうふうに考えたら、文化自体を「依存症」と言ってもいいのかもしれません。となると逆に、依存症を「文化」に格上げしてもいいわけだよね。適度な範囲でやっているものに関しては…。

常連さん
常連さん

依存はなはだしい「学会」活動はとっくに文化を名乗っていますが…。

村井俊哉
村井さん

精神神経学会については、これを単に文化というのは言い過ぎで、あれはまあ… 無いとまずい…

常連さん
常連さん

システム。

村井俊哉
村井さん

極論ですが、少なくとも《多文化間精神医学会》とかは、無くてもいいと思うんです。そういうのは文化です。

常連さん
常連さん

帰属して依存している。

村井俊哉
村井さん

うん。帰属しているけど、無くてもいい。それがまあ、文化ですかね。

常連さん
常連さん

おもしろいなぁ。なくてもいいというのが「文化」の規定。うん、確かに… 無いほうがいい場合もあるぐらいの…。

 

村井俊哉
村井さん

無くてもいいというのは、バカにしているのではなくて、本当はそれが大事なんですわ。無くてもいいものが存在する世界は素晴らしいですね。
『中世の秋』という名著で知られるを書いたホイジンガ(Huizinga)人が「人間とは何か」を定義するときに、「ホモ・ルーデンス」という言葉を使った。「人間とは、遊ぶ動物である」と。人間とは知性のある動物(ホモ・サピエンス)と言われていたなか、遊ぶ動物と定義したわけです。「こんなに遊ぶのは人間だけだ」ということですね。

常連さん
常連さん

「遊びをせんとや生まれけむ」みたいなね。

村井俊哉
村井さん

まさにそうです。“遊び”って、凝ってしまって依存してしまうものですよね。そして、どの遊びに凝るか? 依存するか? は、人それぞれ違う。そこが“遊び”の特徴でしょうね、全員同じ遊びをやっていたら変だと思うんですよね。なんでそうなるのか不思議なんですが…。

常連さん
常連さん

それぞれ違う“遊び”を、それぞれでやっている。

村井俊哉
村井さん

ここのところがやっぱり、おもしろい。人間の人間らしいところですね。だから、精神医学というのは、よく考える必要があるでしょうね。ある種「合理的でない」もの、「無くていい」ものを悪もの呼ばわりして全部切り捨てていくと、人間を全部殺すようなことになるんです。だから、“遊び”は残しつつ、「でもやっぱり、ここの部分は…」というような限度を超えたものに対しては“病気”として見ていくというような。なにかそういう、ちょっと広めの風呂敷みたいなもので考えておく必要があるんです。

常連さん
常連さん

なるほど、なるほど。うん…。

カフェ・ミュラーのスイーツ
▲ちょっと広めのお皿で 文化は美味しい

開催のお知らせ
第26回 多文化間精神医学会 学術総会
第26回 多文化間精神医学会 学術総会
日程:2019年11月30日(土)・12月1日(日)
会場:龍谷大学 深草キャンパス


▪️会長講演
多文化の時代〜多文化概念の多様化と精神医学〜
演者(会長):村井俊哉(京都大学 精神医学教室)


ほかにも特別講演、教育講演、学会賞受賞講演、シンポジウム、ワークショップ、産業医学セッション、一般演題等
詳しくは、総会公式サイトをご覧ください。
https://jstp26.jpn.org/

(2019年10月24日掲載)


■協力:カフェ・ミュラー/取材:木立の文庫

想定外の予定調和(1)

[藤中隆久]


 大学入試の面接対策として、想定問答集を作ってそれを一生懸命に暗記している純情高校生にしょっちゅう出くわすので、『そんな無意味なことはやめろ』と僕は言っているのだ。
 しかし、僕ごときがそんなことを言ったところで、純情高校生たちは決して聞きやしないだろうし、純情高校の先生たちも、今後もずっと、想定問答の指導を続けるだろう。そんな対策をする高校生や先生の気持も、わからなくはない。彼・彼女らにしてみれば、僕なんか、時おり非常識なことを言いだす意味不明のシェキナベイベェなおっさんみたいなもんだろう。
 でも、繰り返すけど、僕は決して非常識なことを言っているつもりはないし、むしろ、教育についての最も本質的なことを言っているつもりだ。そのために、古武道の形稽古や文楽の人形遣いの例なんかもあげて、本質についてとてもわかりやすく説明したつもりなんだけど……『ますます、わけがわからなくなった』という声が、どこからともなく聞こえてくる。
 おかしいなぁ……。そういえばシェキナベイベェのおっさんも、自分の言ってることこそがロケンロールの本質だ! みたいなことを言ってたけど……。

 

望んだ結果を得るため

 ということで、前回の話を、視点を変えて、もう少しわかりやすく、そのうえで品格も落とさず解説してみたい。
 「教育」ということについて考えてみたいのだが、教育を専門的な行為と考えても良いのだろうか? 専門的な行為を「専門的な知識とスキルを駆使して、望みうる結果に到達させること」と考えた場合、教育の専門職の人に、そんなことが出来るのだろうか?

 『その程度のことは、まあ軽くやっちゃうね』と断言しているのが、ワトソンという人である――『わたしに健康な1ダースの赤ちゃんを与えてくれれば、医者でも、弁護士でも、芸術家でも、泥棒でも、何にでもして見せる』と豪語している。
 ワトソン君も、泥棒にはしない方がいいぞ。いくら行動主義だといっても、やって良いことと悪いことはあるからな。でも、本当にそれができるのならすごいけど『そんなことは不可能だ』と、僕は断言してもいい。
 僕の記憶が確かなら、このワトソンという人は、富豪一家の周辺に出没する犬に関する話で、シャーロックなんとかという人から『残念ながらワトソン君、君の結論はほとんど間違っている』と言われているような人なのである。この場合は犬の話だったが、きっと人間に関する話でも、ワトソン君はほとんど間違った結論ばかり言っている人なのだろう。だから、ワトソン君が言った人間に関する結論も、間違いだと僕も思うのだ。(……ところで、僕の記憶は確かなのだろうか?)

ワトソン君にだって わからない
ワトソン君にだって わからない

 どうしてワトソン君の言っているようなことは不可能か? といえば、それは、教育という行為が結局「科学」にはなりえないからだと僕は思う。
 科学とは「同じ条件下で同じことをやれば、必ず同じ結果になる」こと。同じ温度と同じ気圧のもとで、同じ量の物質を反応させれば、いつも、同じ物質が同じ量だけ生成されるという「再現可能性」が物質においては保証されていて、これこそが科学。ところが、人間を思いどおりの結果に至らせることは、不可能だろう。どれほど完璧な教育をしたところで、思いどおりの結果になってくれないのが人間なのだから。
 うちの子は将来ジャニーズに入るんじゃないか?! と思って僕は歌と踊りを教えたのだが、すんでのところで、ジャニーさんから『ユー、ジャニーズに入っちゃいなよ!』という電話を戴くことは叶わなかった。永遠にお誘いがなくなったことを悟ってか、うちの子はジャニーズどころか、最近、かなりオタクっぽくなってきている気がする。
 そう。教育でどのような結果に行きつくのかは、教育してみなければわからないのだ。物質ならば思いどおりの結果を得ることができる。しかし、人間を思いどおりの結果に至らせるなんて、いくら完璧な教育をしたとしても、やっぱりできないのだ。

 

予測不可能な変化

 医者も、人間を変化させて思いどおりの結果に至らせようとする仕事だ。医学には「科学」を指向してきた歴史があり、かなりの「再現可能性」を達成してきたといえよう。糖尿病の患者には食事療法とか運動療法とかが効果を上げる。それでも効果が上がらなければ、インシュリン投与で効果が上がる。結核菌の感染症ならば、抗生剤を投与することで効果が上がる。
 つまり、人間に対してどうすればどのように変化するかが解明されているので、血糖値を下げるとか結核菌を死滅させるとかいう結果に到達させるための、具体的な方略を医者は立てることができるのだ。血糖値が高いと、あるいは、結核菌が体内に増殖すると、人間にさまざまな悪影響を及ぼす。その悪影響の要因が、血糖値とか結核菌とかに限定されていることが明らかな場合、そして、その要因を取り除くことが単純な方法論で達成できる場合には、医学は大きな効力を発揮する。

 ところが、教育では、どうすれば人間はどのように変化するかがわからないのである。だから、不登校の子どもを学校に行かせるための具体的な方略を立てることは困難だし、そのような方略を立てることに、そもそも、どれほどの意味があるのかさえ、不明である。
 不登校の子どものカウンセリングをしたら、結果として、学校に行くようになることもありうる。あるいは、子ども自身が、学校に行かない人生を決断するということもありうる。どの結果に到達するのかは、カウンセリングをやってみなければわからないし、どの結果が正解かも、やってみなければわからない。学校に行けば即ち正解とはいえないし、学校に行かない人生を選んだならば即ち正解ともいえない。

自然のなか 正解のない道
自然のなか 正解のない道

 医療行為ならば、血糖値を下げるとか結核菌を死滅させることは紛れもなく正解である、とはっきりしていて、その正解に到達させるための方法論も、はっきりしている。ところが、教育においては何が正解かもはっきりしていなくて、その正解に到達させるための方法論もはっきりしていない。
 あるカウンセラーがある不登校の子どもをカウンセリングして、その結果、その子が納得して学校に行くようになったとしても、では「同じようにすれば、どの子も学校に行くようになるか」というと、そんな普遍性は示しえないだろう。同じクライエントに対してさえも、同じカウンセラーが全く同じ結果をもう一度出してみることもできないのである。逆に、同じカウンセラーと同じクライエントがもう一度同じようなカウンセリングをやったら、その子が学校に行かない人生を決断することだってありうる。
 カウンセリングとはそのようなものだ。そのとき出された結論は、そのカウンセリングにおける一回限りの事象なのだ。

~次回に続く~


藤中隆久藤中隆久(ふじなか・たかひさ)

1961年 京都市伏見区生まれ 格闘家として育つ
いろいろあって1990年 京都教育大学大学院教育学研究科修了(教育学修士)
西にシフトして1996年 九州大学大学院教育学研究科博士後期課程修了
南に下りて1999年から 熊本大学教育学部 2015年から教授
6フィート2インチ
現在200ポンド:当時170ポンド(第四話「日々これ想定外(その弐)」を参照)

第五話 誰が《心身症》をコロしたのか?

[齋藤清二]


誰が駒鳥 殺したの
それは私 とスズメが言った
私の弓で 私の矢羽で
私が殺した 駒鳥を

(マザー・グース:Who killed Cook Robin)

 

《心身》への違和感という覚醒体験

 前々回のエッセイ「第三話 〈心身〉への違和感 ―交差点は危ない―」において、磯野先生から投げかけられたのは

《心身》という言葉に違和感はないですか?

という衝撃的な問いであった。磯野先生の問いはまさに、大魔導士のみが唱えることのできる究極の呪文パルプンテの効果をいかんなく発揮し、「パルプンテ・パルプンテパルプンテ……」と木霊のように響き渡りながら、惰眠をむさぼっていた私の精神を覚醒させた(「それならばザメハではないのか?」というツッコミが聞こえるのはとりあえず無視する)。
 磯野先生はさらに「事故は交差点で起こる」と喝破し、岡田先生(あるいは私)と交差点の中央で正面衝突することに対する警告を発したのであるが、第四話の岡田先生は、自身の現実の交差点での事故の例をひきつつ、みごとにそこから建設的な議論を引き出す老獪な(もとい、洗練された)熟達の技を披露されたのであった。
 というわけで、私はちょっとほっとしつつ、自分なりの「《心身》という言葉をめぐる問題」について書いてみたいと思うのである。
 

心身症という概念

 私は《心身》という言葉にはあまり違和感をもったことはないが、その派生語である〈心身症〉という言葉には、学生のころから違和感ありまくりであった。
 といっても、〈心身症〉という言葉が嫌いだったわけではなく、「心身症 psycho-somatic disorders という言葉が何を指しているのか、さっぱり分からない」という意味で、違和感を覚えていたのである。
 もともとの私の理解はこうであった。

  • 心身症とは、臓器別の疾病にうまく分類できないものに与えられたひとつのカテゴリーである。
  • 心身症とは、元来は精神疾患と身体疾患のどちらにも分類できない、あるいは精神・心理的要因と身体的要因が重なり合った病態を示すような概念であり、それを専門的に扱う医学として“心身医学”が提唱されてきた。

 と、私は思っていた。
 もちろんその背景には、近代から現代にかけての医学が、病気を身体疾患と精神疾患に明確に区別しようとするあまり、その両方が絡みあうなかで苦しんでいる患者をうまく扱うことができない、という実態があった。
 〈心身症〉をめぐる議論は、デカルトによる心身二元論の提唱に遡る根本的・哲学的な問題への注目をも呼び起こしてきた。こころを身体とは完全に区別されるものとして定義した「心身二元論」に対して、本来人間とはそのように分割することのできないひとつの統一体であり、病いを被った人間である患者は全人的に扱われるべきであるという「全人医療 whole-person medicine, holistic medicine」の考え方である。〈心身症〉という疾病の存在は、そのような全人医療の必要性を強く要請するものだった。

2方向を移す鏡のついたカーブミラー。真ん中に止まれの標識。
歴史的にも「興味しんしん」…

 

消滅の危機にある 心身症

 しかし現在、心身症という概念は、消滅の危機にさらされている。というより、ほぼ完全に消滅している。

日本心身医学会による定義

 1991年、日本心身医学会は、心身症を 「身体疾患の中でその発症や経過に心理・社会的因子が密接に関与し,器質的または機能的障害が認められる病態」と定義し、さらに「神経症やうつ病など他の精神障害にともなう身体症状は除外する」という文章を付記した。心身症についてのこの定義は、その後の心身症診療、あるいは心身症の治療をその専門とする標榜診療科である“心療内科”の在り方を決定的に規定するものとなった。

 第一の問題は、心身症を「身体疾患」であると定義したことによって、心療内科医が建前上扱うべき疾患と、現実に心療内科を訪れる患者群のあいだに、大きな乖離が生じたことである。さらに、心身症から「神経症やうつ病に伴う身体症状」を除外したことによって、心療内科医が診るべき患者は、理屈上は、高血圧・喘息・消化性潰瘍などの(通常の)身体疾患に限定されることになった。しかし、実際には、このような疾患を主たる問題とする患者が心療内科医を訪れることはほとんどない。なぜならば、ほとんどの場合、高血圧ならば循環器科医、喘息ならば呼吸器科医、消化性潰瘍ならば消化器科医がその患者を治療することになり、その大多数において大きな問題は生じないからである。

 第二の問題は、心療内科を訪れる「身体症状を訴える」患者の大半は、上記のような意味での心身症ではなく、身体に器質的な異常が見つからない、あるいは見つかったとしてもその症状をとうてい説明できないような患者である、という事実である。各臓器別の身体科の領域では、このような病態は「機能性身体症候群 functional somatic syndrome」として理解されるようになり、その考え方は一定の効果をあげてきた。典型的な例は、「機能性胃腸症」や「過敏性腸症候群」などの消化器領域の疾患群である。しかし、このことは必ずしも心身医学の必要性を高めたわけではなく、これらの「機能性疾患」のほとんどは臓器別診療科や総合診療科においてケアされるようになった。

精神疾患としての心身症

 一方で、このような患者を精神科医療の視点から見ると、実際に心療内科を訪れる人の大半は、DSM-IVで「身体表現性障害」という精神疾患の診断カテゴリーに該当する。このような人たちはDSM-5ではさらに単純化され、身体症状症 somatic symptom disorder としてまとめられた。この定義は「身体の病気がないのに身体症状を呈する精神疾患」である。
 このように、こころと身体の二元論的乖離への挑戦として登場した〈心身症〉概念は、再び「精神/身体」の情け容赦のない二分法のなかへと霧散解消してしまうことになった。

 現実に日々、心療内科を訪れる患者の大半は、身体症状を主としつつも、うつ気分や不安などの情緒の問題に苦しめられている患者であり、情緒的な問題や社会的な背景への適切な対応なしには支援をおこなうことはできない。しかしそれを強調すればするほど、結局のところ、その患者の病態は精神疾患のカテゴリーのなかで理解されることになり、ここでも〈心身症〉概念の必要性は薄れるばかりとなる。
 現実に、心療内科を標榜する病院診療科やクリニックの大半は精神科医によって診療がおこなわれていることが、現在では普通である。
 

それでは誰が 心身症を弔うのか?

 「それは私」と自覚をもって責任をとれる人はいるのだろうか? そもそも、もともとの出発点である「こころにもからだにも分類できない苦しみ」を抱えている膨大な数のひとたちは、どこへ追いやられてしまったのだろうか?

 縮小の一途をたどる“心身医療”界隈であるが、苦しむ患者さんが〈心身症〉概念の消滅によって救われたとはとても思えない。
しかし、希望はないわけではない。その希望は、このような苦しみを抱えた人たち自身が「他者から解釈されラベルされる」存在としてではなく、「自らの視点から自らの言葉で」その生きられた体験を語り始めたということにある。
 心身医学会みずからが定義を変えることによって〈心身症〉を消滅させるレールを敷いたとき、それでも臨床に携わっていた者たちは、自身の経験や患者さんとのかかわりについて、語ろうとし続けた。その一部は、学会報告や論文や書籍という形で公表されてきた。それがどんなに実りの少ないものであったとしても、そこには「みずからを語る声を奪われた人々の代わりに語ろうとする」実践家はいたのである。
 〈心身症〉の定義には厳密には合致しないにもかかわらず、臨床家たちは苦しむ人たちに関わり続けてきた。苦しむ人々の多くは、不登校、摂食障害、自傷行為、解離性障害などと呼ばれてきた。最近では、発達障害、虐待によるトラウマ、さらには醜形恐怖、身体改造などとしてラベルされることが多くなっているように見える。

 そしてようやく今、「治療者やケアラーが彼/彼女らを外から語る」のではなく、彼/彼女らがみずからを語りはじめている。支援者や専門家は、彼らの語りを真摯に受け止め聴くことを通じて、彼ら自身が声を発することを支援する、という役割へと転換しつつある。
 その役割を積極的に果たしてきたのは、“医療人類学者”であり“質的研究者”であった、と私は思っている。


齋藤清二
齋藤清二(さいとう・せいじ)

立命館大学総合心理学部教授
1951年生まれ、新潟大学医学部卒業、医学博士
富山大学保健管理センター長・教授、富山大学名誉教授を経て現職
こころの分野は、消化器内科学・心身医学・臨床心理学
からだの種目は、卓球

第四話 心と身体の空間

[岡田暁宜]


 リレーエッセイは、これで一巡したことになる。
 これまでは、それぞれの著者による自己紹介といえるだろう。第1回の私と第2回の齋藤先生のエッセイを受けて、第3回で磯野先生から「問い」が投げかけられた。
 ひとつのプロセスとして、今回は、磯野先生の問いから、私のなかの内的対話を進めたい。

 

「心身への違和感」から

 「《心身》という言葉に違和感はないですか?」という純粋な問いを受けて、私は、自分が今まで《心身》という言葉に違和感をもっていなかったことに気づいた。そこには、私の臨床家としての出自があるだろう。私は《心身》という考えに親和性があるようである。
 「心身」とも「身心」とも書くが、いずれにせよこれらは、こころと体が未だ分化していない乳幼児世界のような状態、あるいは、こころと体が容易に置き換わる力動性を表しているようである。見方あるいは状況によっては「心vs.身体」「心or身体」というように対立するかも知れないが、《心and身体》という一対の概念といえる。

 日々の臨床において「こころとしてのからだ」や「からだとしてのこころ」という力動を経験することがある。このようなこころとからだの関係は、「こころと脳」の関係にも当てはまるかも知れない。経験的にこころとからだが互いに協働し補完し合う関係の場合もあれば、互いに支配や攻撃し合う関係の場合もある。
 また見ようによっては《心身》という言葉には、「光影」「虚実」「陰陽」「表裏」「内外」「男女」「動静」「生死」などのような、互いに対立しながらも互いに必要とする二つの存在や関係に宿る、ある種の“うつくしさ”が感じられる。そのような美しさを私は「意識と無意識」にも感じる。少なくとも私が考える精神分析では、ただ無意識のみを扱っているわけではなく、《意識and無意識》の一対を扱っているのである。

 

こころは何処に

 磯野先生が紹介してくださった、ライル〔Ryle, G.: 1900-1976〕が『デカルト神話』のなかで心身二元論への批判として用いた「機械のなかの幽霊のドグマ」や「高校を歩き回った結果、教師は見つかったが、校風は見つからなかった」という比喩は、おもしろい。
 幽霊も校風も実体としては存在しないが、それらが恰も存在しているかのように、人間は生活している。幽霊を見るのも、校風を感じるのも、すべて人間のこころなのである。デカルトのコギトが思い出されるかも知れない。幽霊は、こころのなかの不安や恐怖の投影であり、居場所の定まらない存在を表しているだろうし、校風は、集団と歴史という学校文化のなかで育まれるものである。
 現代医学は、精巧な機械や堅牢な校舎として概ね存在しているのかも知れないが、人間が機械を使用し、校舎で生活するなかで、そこに「こころ」が宿るのであろう。それは“世界観”といえるだろう。

 齋藤先生が「胸や心臓のあたりには『胸がキュン』とする歓びや、『胸が締め付けられる』ような苦しさを感じる“こころ”があります」と述べたことは、こころは心身相関(情動身体反応)に裏づけられた心臓heart♡であることを示している。その意味で心臓はこころを象徴している。
 心臓が象徴するものは、それだけではない。脳死の判定が可能になる以前は、心停止が人間の「死」の基準であった。その意味で心臓は“生命”を象徴している。心理臨床家はこころをいのちと等価に考えているのではないだろうか。
 心臓がこころを象徴する理由は、心臓が体幹部の内部にあるからだと私は思う。「胸中」という言葉があるように、人間にとって“こころ”とは、内部・深層・中心という場所に局在するものである。「内心」という言葉があるように、人間が“こころ”に対して抱く心象は、中身のある容器のような構造を呈しているのではないだろうか。その意味で人間は心を「空間」や「場」と捉えているのではないだろうか。
 心理臨床において、患者が述べる「空虚感」という言葉は、中身がない空洞のこころを指している。「中身」という言葉があるように、こころのなかには「身体」があるようである。これは「身体感覚としてのこころ」といえるだろう。「身につく」「身になる」という言葉は、言葉の上では「身体化」であるが、ここでの「身体」は“こころ”を象徴しているのである。

 磯野先生は、世界との接合面に形を変えて現れる表現形式として“こころ”を捉えて、こころは「現れ」であると述べている。
 我々は、今まで見えなかったものが見えるようになる際に「現れる」という言葉を用いる。そこに現れる“こころ”とは、外的現実からの要請に対するために、あるいは現実に適応するために、発動する反応といえるだろう。
 一方で、こころのなかにあるものが姿を現す際には「表れる」という言葉を用いる。無意識が意識化して姿を現す過程は「表現」や「表出」と呼ばれる。これは、精神分析の基本といえるだろう。私にとっての“こころ”は、場所や空間であり、そこには現れない領域や表れない領域があり、そこに「大切なもの」や「恐ろしいもの」が存在しているのである。

 

こころの病気の名前

 磯野先生はエッセイの終わりに、近年の「こころの病気」の増加への違和感として、「病気のラベルの増加」に言及している。この議論はとても重要である。
 私は「精神医学的診断がいかに人間理解を妨げているか」という自分のなかにある考えを再認識させられた。今日の精神医学的診断が「病気のラベル」であるとすれば、それは“こころの中身”についての本質的な理解ではない。その意味において、今日の精神医学的診断は「精神医学との接合面に現れる表現形式」といえるかも知れない。磯野先生の「心の病気の増加」への違和感は「精神医学」への違和感を表しているようである。この違和感は、私も含めて、精神分析の臨床家が抱いている臨床感覚ではないだろうか。ラベルが理解を妨げる理由は、ラベルは対象物を整理するために対象物の表面に「付けるもの」あるいは「貼るもの」であり、それは、本質的に中身を覆う行為であるからである。

誰もいない交差点の写真
現れる?/現れない?  表れる?/表れない?

 

交差点に向かって

 最後に、磯野先生が初めに述べた「事故は交差点で起こる」「交差点は危ない」という言葉に触れたいと思う。いま走り出しているリレーエッセイのタイトル【こころとからだの交差点】について考えれば、交差点における事故の危険性は、確かに考慮すべき事象といえるだろう。

 そこで思い出されるのは、私の学生時代のひとつの交差点体験である。
 現在、私が勤務する大学のすぐ近くにある、信号機のない見通しの悪い交差点で、私は自動車と自動車で出会頭事故をしたことがあった。不幸中の幸いで、互いの自動車の損害は板金修理で済む程度の損害で、事故の過失は5対5であった。今でもその交差点を通ると、その時の記憶が蘇るのである。
 信号機のない見通しの悪い交差点で事故が起きる心理的理由は、その事故の可能性をドライバーが心理的に否認しているからであろう。

 道路における交差点とは、二つ以上の道路が交わる場所であるが、安全に交差点を走行する車同士は、実際には、触れることはなく、すれ違っている。比喩としての「交差点」は“出会いの場”であり、交差する過程で相互に交流する“創造の場”でもある。
 神経学者であったフロイト〔Freud. S.: 1895〕は、多くの不可解なヒステリー患者と出会い、その結果、精神分析が誕生した。そしてフロイトは、アニミズムやトーテミズムなどさまざまな民俗-文化的な論考をおこなっている〔1913〕。彼の著作は今日でも、臨床をおこなわない思想家や哲学者に幅広く愛読されている。その意味で、精神分析は“意識と無意識の交差点”の臨床であり、「異なる領域」や「異なる文化」との交差点の学問といえるだろう。
 交差点としてのリレーエッセイを通じて、齋藤先生との出会い、磯野先生との出会いから、なにかを創造できればと思う。


おかだあきよし岡田暁宜(おかだ・あきよし)

名古屋工業大学保健センター教授
1967年生まれ、名古屋市立大学大学院医学研究科修了、医学博士
愛知教育大学・准教授、南山大学・教授を経て現職
精神分析協会・正会員
2010年、精神分析学会山村賞受賞

まちかど学問のすゝめ 其の三

どうして? 科学が芸術を語るの??


●村井俊哉(木立のカフェ・マスター):1966年生まれ、京都大学医学研究科精神医学教室教授
●諏訪太朗:1972年生まれ、京都大医学病院精神科神経科助教
●植野仙経:1976年生まれ、京都大学医学研究科大学院生
●常連さん(木立のカフェ・ナビゲーター):1967年生まれ、勤務編集者を経て現在、出版プランナー

 

常連さん
常連さん

今日はいつものGROVING KITCHENを出て、京都市左京区吉田にあるカフェ・ミュラーさんにお邪魔しています。《木立のカフェ》マスター村井さんのお誘いで、すぐ近くの病院からお医者さんお二方が“おしゃべり”に来てくださいました。
ここカフェ・ミュラーさんは、ゲーテ・インスティテュート・ヴィラ鴨川(荒神橋上る)のなかにあって、河畔に憩う“ゆりかもめ”たちの喋り声も聞こえてきそうな、緑の多い素敵なカフェです。

カフェ・ミュラーの日本庭園
▲本場のドイツ料理が味わえるカフェ・ミュラーの日本庭園

 

ありきたりでないものをどう観る?

村井俊哉
村井さん

最近、まったく普通の生活人の目線での関心事、たとえば「人生」とか「子育て」とかのことを、脳科学の専門家がコメントするようになっていますね。そういうことをコメントするのは、一時は“文化人”だったこともあるかな? 芸能人化した文化人が…。
昔は精神科医も、たとえば「なぜニクソンはこうなったか」といった風に歴史上の人物についてコメントする役割を果たしていましたよね。“芸術”についてもそうです。なぜ、精神科医や脳科学者にそれが求められるんでしょうか?

植野仙経
植野さん

精神科医や脳科学者が芸術を語ることについては、僕はどちらかというと懐疑的で、芸術のことは芸術家に、芸術評論であれば評論の専門家に任せるべきだと思っています。精神科医は芸術のシロウトなんですから。
ただ、芸術の文脈では理解がむつかしい、それまでの芸術の歴史や流れから外れている、人やその作品を理解するときには、精神医学が役に立つことがあるかもしれないですね。

村井俊哉
村井さん

たしかに、それはそうだよね。歴史のなかで「浮いた」人というのは、たしかに… われわれが語るべきでしょうね。ノーマルな人の芸術に精神医学の小難しい理論を当ててもしょうがないわけです。ノーマルな人の発想と明らかに違うものが出てきたときに、それを理解する手立てとして、精神医学的な知識、例えば「自閉スペクトラム症の人たちがどういう感性を持っているか」という知識を使ってみるというのは、自然なことですよね。素手でそれを理解するよりもわかりやすい。

植野仙経
植野さん

いわゆる現代芸術は理解がむつかしいと思われがちだけれども、それまでの芸術の歴史やその作家が置かれた状況が背景にあって、その背景に照らし合わせることで、「なぜそのような表現がなされたのか」が理解しやすくなる。一方で、芸術の文脈のみでは理解がむつかしい場合には、精神医学的な知識は、理解するために役立つのかもしれませんね。

村井俊哉
村井さん

それにしても謎なのは、「精神科医が芸術を語るのは当たり前」と思われているじゃないですか。だけど、例えば耳鼻科医は芸術を語らないですよね。これはなぜなんですか?!

植野仙経
植野さん

たしかに、芸術をかたる耳鼻科医に比べると、芸術をかたる精神科医のほうが多そうですね。もしかすると、“芸術”も“精神の病い”も、どちらとも精神の所産だという前提があるからでしょうか。そういえば、精神医学の一分野に「病跡学」がありましたね。たとえばゴッホのような芸術家に関して、その人が患った疾患と創造行為との関連をあつかう学問ですが、そのおおもとには、狂気と天才ひいては創造性とになんらかのつながりを見てとる、という発想があったとか。

村井俊哉
村井さん

そうですね。そうした芸術家が生む“美”という事柄は、脳なのかどうかわからないけど「精神」の所産であって、腎臓とか肝臓の所産ではないということですね。だから、われわれ精神科医は「そういう意味で芸術をかたってるんだ」という、ちょっとした自覚くらいは要るよね。「かたっていて当たり前」みたいに思っているけど、対象としての臓器(脳)の特性として芸術と関連が深いという前提があって初めてわれわれは語る資格を与えられている、という自覚くらいは持つ必要がありますね。

植野仙経
植野さん

そういえば、“芸術”が精神医学と関連づけられる理由に、もう一つあるんじゃないでしょうか。「ある人が表現したものは、その人の精神のあり方を反映する」という前提があって、その前提のうえでバウムテストのような心理検査が精神医学の領域で用いられていた。そのために、他の診療科の医者に比べて精神科の医者が、表現物とそれを表現した人との関係を、ひいては芸術を語るという流れになったのではないでしょうか。

諏訪さんと植野さん
▲諏訪さん(左)と植野さん

 

浮いた人は浮いた人が診る?

村井俊哉
村井さん

ということを考えあわせると…往年の精神科医が盛んに“芸術”を語ったのは、芸術表現と脳や心の“ありきたりでない”あり方と関連が深いから?ということになるんでしょうかね。

諏訪太朗
諏訪さん

いやいや、ひょっとしてその頃の精神科医は、できる治療や検査が限られていて、「やることがなかったから、治療の対象でない“芸術”について語っていた」ということはないでしょうか?

村井俊哉
村井さん

わかりました。公式の答えは「腎臓ではなく脳あるいは心が芸術を生み出しているからである」。でも現実の答えは「腎臓内科よりも精神科医は暇だから」と (笑)。

植野仙経
植野さん

医者の地位はどうでしょう。昔は、「医者は教養人でもある」みたいな風潮は無かったでしょうか。そのような社会的な位置づけも影響していそうに思います。

村井俊哉
村井さん

ああ、それはありますね。昔は万能人みたいなタイプの人がいて、医者でもあるし芸術家でもあるような人がいましたからね。

諏訪太朗
諏訪さん

昔の医者には美術品のコレクターも多くいましたしね。

村井俊哉
村井さん

ということで“美”には、脳の所産であるというだけではなくて、もっと社会的な背景があることが見えてきましたね。医者の地位とか、教養人として期待される役割とか…。そうした「医者」としての社会的な特性に「精神科医」としての対象臓器の特性がからんで、精神科医が“芸術”を語ってきた、というのは確かでしょう。

 

個別への眼差をもういちど

諏訪太朗
諏訪さん

もうひとつ、芸術というものの捉え方にも違いがあったかもしれませんよ。その昔、西洋近代社会のなかではサロンや画家同士のコミュニティ、もっと固いものだと美術アカデミーによる教育などによってかたちづくられた「これが芸術」というものがある程度しっかりあったと思います。

村井俊哉
村井さん

ゲーテ、太平記、古典。そうした「教養」と呼ばれるものが、しっかりあった。いまの“病跡学”は「教養」じたいが変わって“芸術”も変わって、という抗うことのできない流れに漂う小舟みたいなものでしょうか。
先日の病跡学会で、伊藤若冲についての発表を聴いて、「若冲って、そんなふうに理解したらええんや」と腑に落ちたというのが、実は収穫でした。自閉症といった視点で見ると、彼の芸術は非常によく理解できるな、と。「自閉症という特性『の水脈』…」「〜『の傾向』がある」という巧妙な言い方だったのですが。

諏訪太朗
諏訪さん

いまどきは診察をしてもいない人について、「芸術家の誰それは何病だ」とアグレッシブに言ってしまうと、かなり批判されますよね。「この作品のこういうところは、〇〇症の徴候と考えても矛盾はないんじゃないか ?」というくらい。それがギリギリですよね。

村井俊哉
村井さん

しかしその一方で、個人情報保護法ができて現実の患者さんについてのいわゆる症例研究というのも論文にも出せなくなってきていますよね。そうすると面白いことに、ひょっとすると今、個人の細かいところ、「この方はこんな家庭環境で育って、そうなった」ということを精神科医が語るときに、意外と具体的なところを出せるのは“病跡学”の領域かも… ? ということになりませんか。昔の人についてだから、ある程度推測は入るけど。

植野仙経
植野さん

そのような「個別」を見る流れ、それも具体的な事例を詳細にみるということは、医学においてとても重要だとおもいますね。ただ個人的には、病跡学の面白さは、ゴッホのような個々のケースを詳細に検討しながら、もう一方では天才的な人物を集団的にまとめて疾患や体質ないし気質、今風にいえば遺伝的素因や性格傾向といった、いわば「一般」的なことと関連づけてゆくところにあったのではないかと思います。そして、それは当時の最先端の医学的アプローチでもあったのだろうと思うんです。それらの「個別」と「一般」を見るアプローチを現代的なものにアップデートしていくと、“病跡学”のような分野は面白くなるんじゃないかと。

村井俊哉氏
▲木立のカフェのマスターは村井俊哉氏(京都大学大学院医学研究科教授)

 

答えの求めかたを語りあおう

諏訪太朗
諏訪さん

病跡学に限らず、「芸術評論」という語りがあるかもしれないですね。読んでいてさっぱりわからなかった小説を、例えば臨床心理学の偉い人が書いた解説を読んでから読み直したらすごく面白かった、ということありません? そうした「学び方」の学びの場になるかもしれませんね。

植野仙経
植野さん

それは同感ですね。そのような解説や評論を書ける人は限られているとはおもいますが… ともあれ、そうした文章を読んでいるときには、アプローチの方法を学ぶという感じがしますよね。なにかの「答え」を学ぶというよりは、「答えの求め方」や「問いの立て方」を学ぶといいますか。

諏訪太朗
諏訪さん

それには肴があったほうがいいですね。絵とか? ケースカンファレンスのようなもので、その集団が共有している切り口から解釈の方法を探ると言いますか。上手くいくと、芸術を医者の視点から見ているところが面白いということになり、一般の方々が芸術のみならず、精神医学や脳科学を理解する糸口にもなるかもしれません。
ちなみにうまくいかないと、「専門家の言うことはよくわからん。役に立たん。」と、非専門の方からの興味をますます遠ざけることになる。昔は専門家による閉じたコミュニティを「よし」とする傾向もありましたが、現在では開かれていることがより重視されるようになってきていますよね。

植野仙経
植野さん

医学の視点からみた解釈が芸術や芸術家を理解する役にたつと思われたとしても、それは謎を解き明かした気になってもらっているというだけかもしれませんがね。ただ、芸術そのものとはまた違った視点からみることで、「これは興味深いポイントだ」といった着眼点を提供している、ともいえるかもしれません。

村井俊哉
村井さん

専門家としてのいろいろな経験とか知識とかが端々に感じられて、知的で教養に満ちていて…。それでいて、割と普通のことばでライブで話すので、脱線したりして…。こんな感じでもし仏像について語るとしたら、要するに「みうらじゅん」の世界ですね !

植野仙経
植野さん

そのような語りは、とても面白いですよね。物事の見方を知るというのは、いってみれば星々をただの「星の集まり」と見るのではなく、「星座」として見るようになることだと思うのですが、星々をみるさまざまな見方を手に入れる… それが教養ということだと思いますね。

常連さん
常連さん

なるほど… 一つひとつの星の物理的な成り立ちを考える学問もあれば、「星たちをどう観るか? 観えたものをどう束ねて眺めるか?」を考える学問もある。そんな色んな立ち位置から、脱線 OKの「ルール無用のジャングル」で語り合う、そんな場に《木立のカフェ》が成ればなって想いますねぇ。
さて、そんなで今日は、植野さん、諏訪さん、《木立のカフェ》に遊びに来てくださり、ありがとうございました!


お客さんの自己紹介

諏訪太朗
諏訪さん

諏訪太朗(すわ・たろう)
普段は統合失調症・双極性障害・うつ病など病態のうち、薬物治療が充分に効果を示さない症例の臨床を主に行っていますが、精神医学史や漫画に関する原稿を書くこともあります。

植野仙経
植野さん

植野仙経(うえの・せんけい)
精神科医として仕事をする傍ら、精神医学にかかわる概念的な問題にも関心があり、哲学的な文献を読んでみたり、いろいろと考えをめぐらせたりしています。

関連情報
第66回 日本病跡学会総会 開催のお知らせ
日時:2019年7月6(土)・7日(日)
会場:龍谷大学 深草キャンバス

「ところで、病跡学っていったい何?」(会長講演:村井俊哉)
ほかに特別講演、教育講演、シンポジウム、懇親会等
詳しくは、公式サイトで
http://www.kuhp.kyoto-u.ac.jp/~psychiat/pathog66.htm

(2019年6月30日掲載)


■協力 カフェ:カフェ・ミュラー/取材:(株)木立の文庫 編集部/編集:前回のお客さん

第三話 〈心身〉への違和感 ―交差点は危ない―

[磯野真穂]


 こんにちは。 斎藤先生からバトンを受け取った、三人目の筆者の磯野です。
 専門は文化人類学。年は両先生方より一回りほど下だろうか。岡田先生とは、まったく面識がないため、いきなりこんなことを書くのもいかがなものかとは思うが、これまでに出会った人々が、私を形容するために使った言葉を並べてみたい。

トリックスター
        ワイルドカード
               ジョーカー
                     パルプンテ

※パルプンテ: 知らない人のために説明すると、RPGゲーム「ドラゴンクエスト」の呪文の一つである。唱えた者にも何が起こるかわからないので、実戦ではほとんど使われない。

 20代のころは『変わってるね』と言われるのが嫌で仕方なく「ふつう」にあこがれていた。しかし30を迎えるに当たり、「これはきっと褒め言葉に違いない」と無理やり受容して、今に至る。
 岡田先生は百戦錬磨の臨床を積んでいる方と確信をするので、きっとこんな単語を見てもびっくりはしないと思うのですが、リレーエッセイの一人は、こんな人です。よろしくお願いします。

 

 さて、両先生はこのリレーエッセイを、医学生の頃まで立ち返りながら、「心をみることを忘れてしまった医学」に対する批判的視線を入れつつも、どこかノスタルジックな、やさしい彩でエッセイを始められている。
 だが、三番目の私は、少々危うい切り口からこのエッセイを始めてみたい。

 

事故は交差点で起こる

 交差点に信号機があるのは、それが危ない場所だからだ。 何かが交通整理をしないと、ほんとうに人が死ぬのである。
 LGBTが、時にいかがわしい存在としてみられるのは、生物的にも、社会的にも美しく分断されているはずだった性別上の秩序を乱したからである。一人の体の中に、男と女の両方の要素が入っていたり、結ばれるのは男女であるはずなのに、男男になったり、女女になったりする。
 「これはなんだか、嫌だ」――だから「異常な存在」ということにしたり、いないことにしたり、「少子化を促進させる!」とかよくわからない警告を発したりして、秩序を保ちたい一群が現れるのである(左利きのハサミが売り出さると左利きが増える、とでもいうのだろうか。私は左利きだが、左利きのハサミを売っている文具店で仲間が増えた現象は、いまのところお目にかかっていない)。このような事例は枚挙にいとまがない。

 私の実家、安曇野市には、道の各所に道祖神がある。1mほどの石に男女の神様が寄り添って掘られていることが多い(写真はそうでなく申し訳ない……)。
 今は単なる観光スポットになってしまい、観光スポットを作り上げるため道祖神をとりあえず道端に「置いてみる」人も出てきてしまったので、安曇野生まれとしては少々がっかりではあ るが、もともと道祖神は、集落と集落の境界に置かれていた。外から危ないものが入ってこないよう、守ってくれていたのである。

安曇野市の道祖神
Watch your both side!

 その意味で、道祖神と交差点の信号機は、役割を共有する。
 人間は好奇心の塊であるが、同時に異なるものを直感的に恐れる存在でもある。 古来から人は、自分とは異なる何かと出会う場としての“交差”をおそれていたのである。
 そればかりではない。交わることの危険さは、臨床現場でも見て取ることができる。
 私は、医療者ではない人間として、さまざまな診療科の陪席をさせてもらっている。すると、ここでも危険な“交差”の兆候が見える。
 いわゆる身体を専門にする医師は、「精神科医はなんでも心のせいして、身体への配慮を忘れがちだけど、重要な身体疾患が隠れていることもあるから注意をしないといけない」、とつぶやく。
 一方で、心療内科医や、精神科医は、「心をみられる医師が少ない」と嘆く。うまく住み分け、大人の対応をすることで、争いは避けられてはいるものの、交差点の火種は現代医療の現場にも存在しているのである。

 

 さて、“交差点”を冠するこのリレーエッセイはどうだろう。
  実はこのリレーエッセイの鍵は、斎藤清二先生にある、と私は考えている。なぜなら私は岡田先生とまったく面識がない。それだけでなく、我々の専門が、精神分析と文化人類学という、時に互いに刺激をしあい影響を受け、しかし完全にあい入れることのない学問である(しかも他方は、トリックスターの名を称したことのある人類学者だ。大丈夫だろうか。心配だ)。
 したがって、岡田先生と私の論が奇妙なかたちで交差すると「事故る」のである。いや、斎藤先生も精神分析をバックグラウンドにお持ちなので、もしかすると危険な交差をするのは、斎藤先生と 私かもしれない。
 だが、斎藤先生は私を知っており、このリレーエッセイの著者のひと人に私を推薦してしまった立場にあるので、何か起こった場合、“交差点”の交通整理をせねばならない立場になってしまうだろう。

ということで斎藤先生、改めてよろしくお願いいたします。

 

《心身》への違和感

 さて、「心身医学」の重要性を強調する両先生にさっそく問いを投げかけてみたい。

《心身》という言葉に違和感はないですか?

 私は《心身》に違和感が大ありである。そればかりか、《心身》という言葉が、人間についての いろいろな問題を引き起こしているのでは、と思うこともあるほどである。
 白黒、男女、質と量、いった言葉は、カテゴリーとしては同一ではあるものの二つは対立概念であることを示している。当然ながら心と身体もここに入り、だからこそ冒頭で書いたような、「心が診られる医者」「身体しか診られない医者」といった言葉が現れる。
 しかし《心身》は、心と身体を的確に捉えているのだろうか。
 《心身》という言葉により私たちは、自分の中に「心」という場所「身体」という場所があると想像する。 確かに、身体は空間を占める場所として存在する。でも、果たして心はどうだろう? どう考えても、心は場所ではない。なのになぜ、「これは身体でなく、心の問題」「これは心でなく、体の問題」といった言い回しが普通になされるのだろう。

 ここで思い出すのが、哲学者ギルバート・ライルである。というか、私の上記のふわっとした違和感に言葉を与えてくれたのがライルであった。
 ライルは著書『心の概念』〔1949年〕のなかで、デカルト以来続いた「心身二元論」を、「機械の中の幽霊のドグマ」という有名な比喩を使い痛烈に批判する。身体という機械の中に、身体という心 を操る幽霊がいる。そんな幽霊などいないのに、皆がそれに振り回されているというわけだ。
 ライルは、心身二元論の誤謬を説明するため、「高校を歩き回った結果、教師は見つかりました が、校風は見つかりませんでした」と言いながら困っている人の例を挙げる。
 この例は非常にわかりやすい。学校を歩き回っても、校風にばったり出会ったりはしない。だから、体のなかをいくら探しても心には出会えない。
 校風の話の奇妙さを、私たちは直感的に感じることができる。
 しかし私たちは、「心のなか」とか、「心の問題」という言葉には違和感を感じない。これは私たちが身体のなかに「心」という場所を想定し、それを前提に生きているからであろう。

 心理学・精神分析も、心を〈場所〉のように扱っているように、私にはどうしても見えてしまう。意識や無意識といった言葉から、心という〈場所〉のなかにさらなる小さな箱が想定されていることがうかがえる。〈場所〉としての心のイメージから心理学や精神分析は逃れていると言えるだろうか。
 私は心については、〈場所〉よりも〈現れ〉と表現する方がしっくりくる。世界との接合面に、形を変えて、現れる表現形式としての心である。したがって心は、何かと接しているときにしか現れない。校風が、見ようとしている人と学校との接合面に現れるように。
だから、心だけ取り出すことも不可能である。その人が接している人、接している環境が変化すれば、現れ方も変わるのだから。

 

 私はこのように考えるので、近年進む「心の病気」の増加に違和感を覚えている。
 この場合の「増加」とは、人数ではなくラベルの増加である。そのラベルにより助かっている人もいる。 救われた人もいる。それはもちろん認めたうえである。
 ある人間の心に「発達障害」「人格障害」「摂食障害」というラベルを貼って、「◯◯病に典型的な症状」といった言葉で、心の見方を固定してしまうこと。それぞれのラベルに対して適切な「対応の仕方」を専門家が教えること。
 そんな対応の仕方、世界の見方は、「心という世界との接合面での現れが、その人が出会う場所・人々によって、いかようにも変わりうる」こと。「心という<現れ>が流れ去り、形を変えてまた<現れ>る」こと。そんな“こころ”の面白さを減らしてしまうのではないだろうか。

 

私はこのように考えているのですが、岡田先生、斎藤先生、どう思われますか?

磯野真穂 いその・まほ

国際医療福祉大学大学院 保健医療学専攻看護学分野准教授
1999年 早稲田大学人間科学部卒業(スポーツ科学)
2010年 早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程修了
こころの分野は、文化人類学(医療人類学)
からだの分野は、ボクシング(ライセンス取得 2013年)
著書
『なぜ普通に食べられないのか』(春秋社 2015年)
『医療者が語る答えなき世界』(ちくま新書 2017年)
●磯野真穂 公式サイト
http://www.anthropology.sakura.ne.jp/