まちかど学問のすゝめ 其の八(後編)

《木立のカフェ》はヴァーチャルでリアルな喫茶店。マスターの村井俊哉さんが京都市内の喫茶店をぶらっと訪れて、お客さまと「こころとからだ」「文化・社会」について語り合います。

そうは言っても…やはり教養は必要?

● 村井俊哉:1966年生まれ、京都大学医学研究科精神医学教室教授
● 深尾憲二朗:1966年生まれ、帝塚山学院大学人間科学部心理学科教授
● 常連さん:1967年生まれ、勤務編集者を経て、出版プランナー

常連さん
常連さん

木立のカフェは今回もオンライン・トークです。この動画は”まちかど学問のすヽめ 其の八(前編)「教養って…本当に必要?」”の続きです。
〇大きな革命を起こした「三つの思想」
〇「ふたつの反知性主義」を見すえて

などなど、前半に引き続き議論が深まっていきます。 前編と同様、お客さまに深尾憲二朗さんをお招きしています。 さて、どんなカフェタイムを皆様とご一緒できますでしょうか…!


マスター:村井俊哉(むらい・としや)


お客さま:深尾憲二朗(ふかお・けんじろう)

1966年生まれ、京都大学大学院医学研究科講師を経て、帝塚山学院大学人間科学部心理学科教授 専門は、臨床精神医学、臨床てんかん学、精神病理学 著書に『思春期:少年・少女の不思議のこころ』(ミネルヴァ書房 2018年)、『精神病理学の基本問題』(日本評論社 2017年)のほか、村井俊哉・野間俊一との共編著に『精神医学へのいざない:脳・こころ・社会のインターフェイス』(創元社 2012年)、『精神医学の広がり:拡張するフィールド』(創元社 2013年)、『精神医学のおくゆき:深化するパラダイム』(創元社 2015年)がある


■編集協力:越川陽介(こしかわ・ようすけ) 関西医科大学精神神経科学教室研究員、臨床心理士・医学博士( “木立の文庫”企画広報フェロー)

まちかど学問のすゝめ 其の八(前編)

《木立のカフェ》はヴァーチャルでリアルな喫茶店。マスターの村井俊哉さんが京都市内の喫茶店をぶらっと訪れて、お客さまと「こころとからだ」「文化・社会」について語り合います。

教養って…本当に必要?

● 村井俊哉:1966年生まれ、京都大学医学研究科精神医学教室教授
● 深尾憲二朗:1966年生まれ、帝塚山学院大学人間科学部心理学科教授
● 常連さん:1967年生まれ、勤務編集者を経て、出版プランナー

常連さん
常連さん

まだまだ息の詰まる日々が続きますが、皆様はどんなところに「しゃべり場」をお見つけでしょうか? 木立のカフェは、今回もオンラインで「おしゃべり」しました。
前回の“教養”をめぐるトークのあと、マスターの村井俊哉さんから次のような話題提供がありました。

村井俊哉
村井さん

精神医学では古くから《身体論 vs 精神論》論争がありますが、実は、その論点よりもさらに本丸のところにある論点が、《反知性主義 vs 教養主義》というようにも思えてきました。
反知性主義は「教養主義 = elitism と権力の結びつき」を批判しますが、精神医学における権力のサイドが精神論者側から身体論者へと移行した歴史のなかで、精神論者の言説のトーンは「教養主義から反知性主義へと転じた」のではないか?
一方で、身体論者の言説には、その逆のことが起こったのではないか、とかいったことを考えました。

常連さん
常連さん

頭のゆったり出来ているカフェ常連としては「歯ごたえたっぷり」そうな話題に不安はありましたが、身体論/精神論には興味もあってワクワクと臨みました。
前回と同様、お客さまに深尾憲二朗さんをお招きしています。さてさて、どんなカフェタイムを皆様とご一緒できますでしょうか……!


マスター:村井俊哉(むらい・としや)


お客さま:深尾憲二朗(ふかお・けんじろう)

1966年生まれ、京都大学大学院医学研究科講師を経て、帝塚山学院大学人間科学部心理学科教授
専門は、臨床精神医学、臨床てんかん学、精神病理学
著書に『思春期:少年・少女の不思議のこころ』(ミネルヴァ書房 2018年)、『精神病理学の基本問題』(日本評論社 2017年)のほか、村井俊哉・野間俊一との共編著に『精神医学へのいざない:脳・こころ・社会のインターフェイス』(創元社 2012年)、『精神医学の広がり:拡張するフィールド』(創元社 2013年)、『精神医学のおくゆき:深化するパラダイム』(創元社 2015年)がある


■編集協力:越川陽介(こしかわ・ようすけ)
関西医科大学精神神経科学教室研究員、臨床心理士・医学博士( “木立の文庫”企画広報フェロー)

まちかど学問のすゝめ 其の七(前編)

《木立のカフェ》はヴァーチャルでリアルな喫茶店。マスターの村井俊哉さんが京都市内の喫茶店をぶらっと訪れて、お客さまと「こころとからだ」「文化・社会」について語り合います。

精神科医と教養

● 村井俊哉:1966年生まれ、京都大学医学研究科精神医学教室教授
● 深尾憲二朗:1966年生まれ、帝塚山学院大学人間科学部心理学科教授
● 常連さん:1967年生まれ、勤務編集者を経て、出版プランナー

常連さん
常連さん

コロナで始まりコロナで終わる2020年の年末となりました。
今回の“まちかど学問”はオンライン・カフェトークとなります。秋の昼さがりのzoom映像を前編/後編2回にわたってお届けします。前編は約40分。ゆったり談義にどうぞお付き合いください。
お客様は深尾憲二朗さんです。さてさて、どんなカフェタイムとなったのでしょうか。

〜後編もお楽しみに〜


マスター:村井俊哉(むらい・としや)


お客さま:深尾憲二朗(ふかお・けんじろう)

1966年生まれ、京都大学大学院医学研究科講師を経て、帝塚山学院大学人間科学部心理学科教授
専門は、臨床精神医学、臨床てんかん学、精神病理学
著書に『思春期 −少年・少女の不思議のこころ−』(ミネルヴァ書房 2018年)、『精神病理学の基本問題』(日本評論社 2017年)のほか、村井俊哉・野間俊一との共編著に『精神医学へのいざない 脳・こころ・社会のインターフェイス』(創元社 2012年)、『精神医学の広がり 拡張するフィールド』(創元社 2013年)、『精神医学のおくゆき 深化するパラダイム』(創元社 2015年)がある


■編集協力:越川陽介(こしかわ・ようすけ)
関西医科大学精神神経科学教室研究員、臨床心理士・医学博士( “木立の文庫”編集広報フェロー)

まちかど学問のすゝめ 其の七

《木立のカフェ》はヴァーチャルでリアルな喫茶店。マスターの村井俊哉さんが京都市内の喫茶店をぶらっと訪れて、お客さまと「こころとからだ」「文化・社会」について語り合います。

精神科医と教養(前)

● 常連さん:1967年生まれ、勤務編集者を経て、出版プランナー
● 村井俊哉:1966年生まれ、京都大学医学研究科精神医学教室教授
● 深尾憲二郎:1966年生まれ、帝塚山学院大学人間科学部心理学科 教授、医学博士、日本精神神経学会認定精神科専門医、専門は、臨床精神医学、臨床てんかん学、精神病理学

著書に『思春期 −少年・少女の不思議のこころ−』(ミネルヴァ書房 2018年)『精神病理学の基本問題』(日本評論社 2017年)など、村井俊哉氏との共著『精神医学へのいざない 脳・こころ・社会のインターフェイス』(創元社 2012年)

常連さん
常連さん

コロナ禍の2020年の年末となりました。今回の木立のカフェは、マスター村井さんの提案で初のリモートでの開催となりました。そこでリモート当日の映像を前後編2回にわたってお届けします。お客様は深尾憲二郎さんです。さてさて、どんなお茶の時間となったのでしょうか。
前編の映像は約40分。少し時間がかかりますが、何卒ご容赦の程を。

第八話 身体との接点に浮かび上がるこころ

[齋藤清二]


前回の投稿からずいぶん時間が経ってしまいました。その間の大きなできごとと言えば、もちろん昨年末に中国で始まり、一瞬のうちに全世界を巻き込んだCOVID-19(新型コロナウイルス肺炎)のパンデミックです。この新型感染症が私たちにとって、いったい何であったのかをある程度の距離感をもって語ることができるようになるには、今しばらく時間がかかるものと思われます。
そうはいっても、今回のCOVID-19が私たちにもたらしている影響は、このリレーエッセイのテーマである《こころとからだの交差点》にも、無関係であるとは言えません。今回の私のエッセイでは、不十分ではありますが、一部はこの問題にも触れながら考えていきたいと思います。


こころは身体との接点に浮かび上がる
何ものかである?

少し前に話題を戻すことになるのですが、第6回のエッセイにおいて、磯野先生は以下のように述べておられます。

かたや医師である齋藤さんは、心身医学会が自らを刺し殺すような「心身症」の定義を作り出してしまったことを嘆きながら、心と身体についてのエッセイを提示してくださった。明らかなのは、ここでの齋藤さんの心のスタンスは、あくまでも「身体との接点にあらわれる重要な何か」として “心” を捉えていることである。

これを読んだ時の正直な感想は、「え、え、オレって『身体との接点にあらわれる重要な何か』として “こころ” をとらえていたのか? ちっとも知らなかったぞ!」というものでした。
なるほど、対話というものはすごいものです。自分のライフワークといってもよいくらい長い時間、“こころとからだ” について考えたり論じたりしてきたのに、「他者の視点」が欠如していると、大事なことは何も見えないものなのですね。そうか、そうだったのか。自分が見ようとしている限り、見ようとしている自分は見えないのですね。それが見えるのは他者からだけ。しかし、自分が「見ようとしていることは何か」を表現して、他者に受け取ってもらえない限りない、それは「見られる」チャンスをもたないということになります。うーん、リレーエッセイ、やってみるもんだ。
つまり、私が “こころとからだ” の問題に惹きつけられるのは、私が “身体” をある程度、明確に意識しているからなのでしょう。“身体”を意識しなければ、身体でないものは生じてきません。おそらくこの「非身体」にいろいろと名前をつけようとするなかから、“こころ” という正体不明のものをめぐる「幻想」が生じてくるのかも知れません。なるほど磯野先生が、

というより、お二人のお話を聞いた結果、ますます“心”がわからなくなった。心って何?

とおっしゃっているのもむべなるかな、ということになります。

 

精神分析家と医師は違うのか?

ところで、磯野先生が「精神分析家としての岡田さん」と「医師としての齋藤さん」と、言葉をはっきりと分けているのは、私にとっては非常に興味深かったです。リレーエッセイとは言え、このような「現在進行形で関係をもっている相手との関係性に言及すること」は、(私の感覚では)とても勇気のいることです。うーん、このようなことが学べる以上、このリレーエッセイをやめるわけにはいきませんね。
実を言うと、岡田先生の第7回目のエッセイがこの上もなく精密かつ包括的であり、第5回の私のエッセイ、第6回の磯野先生のエッセイで提起された問題にほぼ全て回答してくださっていたので、正直のところ、「これはもう私がこれ以上、言葉を付け加える余地はないな」と思っていました。また、磯野先生の「ここには生徒も学生もいないのに、先生だけがいるのはおかしい」という指摘(これは、まさに「関係」についての言及なのですが)にいろいろ考えさせられるものがありました。しかし、このリレーエッセイという仮想の場には、間違いなく「学ぶ者」がいます。学ぶ者からみればそこには「教師」が存在する必要があります。よって、私は今後も磯野先生、岡田先生という呼称を使い続けることにします。
第6回目で磯野先生は二つの問いかけをして下さっています(適切な問いかけをして生徒に「自分の頭で」考えさせることは、「教師」の重要な役割であり必須の技術です。ただし、その質問は単なる評価のための質問であってはならず、生徒とともに教師も探求しつづけなくてはなりません。それが教育ということです)。その第一はこれです。

精神分析家は、これを十把一絡げに「呪術」と言われるのは納得がいかないだろう。おそらくこの問いに対しては、すでにいろいろな答えがなされているとは確信するが、お二人の先生は、精神分析と呪術を分かつものを何だと考えているのだろう? 私からの小さな問いである。

この問いに対して岡田先生は、前回のエッセイにおいて「精神分析家」の立場から明瞭に答えておられます。そうすると私は「医師」の立場から答えるべきなのでしょうか。しかし、これをそのまましようとするとおかしなことになります。岡田先生は「医師」であり「精神分析家」でもあります。私の理解では精神分析家は全て医師でなければならないということに今でもなっていると思います(岡田先生、もし私の理解が間違っていればご指摘ください)。このことに対してはいろいろな批判もあるだろうと思いますが、フロイトもユングも「医師」であったということは事実です。

 

医師が身体をあつかうということは
当たり前のことなのか?

しかし、磯野先生が話題に出してくださったユング心理学(分析心理学)では、分析家は医師でなければならないという条件はありません。私は医師ですが、人生のある時期にユング心理学の教育と個人的な訓練を受けたとはいえ、特に資格をもっているわけでもなく、専門家でもありません。なお、私が訓練を受けた三名の分析家は全て非医師でした。
私は日本のユング心理学のコミュニティにおいても「身体症状に苦しむクライエント」や「しばしば心身症と呼ばれる人たち」に焦点をあてて論じることが多かったのですが、思い返してみると、この苦しむ人たちは、身体医学の世界において「名前を与えられてこなかった」方々なのです。
多くのユング心理学の専門家は、このテーマについて肯定的な関心を示してくれました。しかし一方で、私自身の《心身》へのこだわりと彼らの興味関心には若干のずれがある、とも感じてきました。おそらくそれは、医師から出発してユング心理学の世界に入っていた私にとっては、「医師にとって身体を扱うことは当たり前のことであるが、実はそれがどういうことであるかは、自分ではわかっていない」ためだったのだろうと、今では思っています。

というわけで、上記の磯野先生の問いに対しては、私は医師として答えるということになります。
ここで磯野先生が「分析心理学=ユング心理学」のど真ん中とでも言うべき、〈アクテイブ・イマジネーション(能動的想像)〉を話題に取り上げてくださったことは、私にとっては僥倖でした。岡田先生も磯野先生も、〈能動的想像〉は専門家に指導してもらわなければ危険であるとの慎重な見解を述べておられます。しかし、(これを明言することにはかなり勇気のいることなのですが)私は実はそうは思っていません。
私の見解は、「私たちは誰でも能動的想像を日常的におこなっているし、それは多くの人にとって極めてありふれたことである。ただほとんどの人はそれに気づいていない」ということです。危険が生じるのは、能動的想像を「危険な目的」のために用いようとする時であり、かつ本人や指導者がその危険性に気づいていない時であると思われます。
もちろん、私は呪術の専門家ではなく、呪術については紙の上での知識しかもっていません。しかし、「呪術的なもの」という意味であれば、現代の私たちの生きている世界の少なく見積もっても半分くらいは、「呪術的な世界」であると言ってよいのではないでしょうか。特に今回のCOVID-19の問題のように、全く未知の恐怖に私たちのおそらく全員が晒されているような状況では、私たちは実に多くの「呪術的活動」を知ってか知らずかにかかわらずおこないますし、それを求めさえするように思われます。なにしろ「感染呪術」なんて言葉があるくらいですからね。しかし、この問題は論じると長くなりますので、機会があればあらためて述べたいと思います。

 

能動的想像と夢

さて、話を戻しますが、“こころとからだ”と〈能動的想像〉との関連について少し別の側面から述べたいと思います。
ご存知のとおり、深層心理学派は「意識と無意識の交流」という概念や実践を大切なものと考えます。〈能動的想像〉もそのひとつの特殊形態です。一方で、深層心理学派はクライエントの〈夢〉を大切なものとして扱います。〈夢〉が睡眠中の体験であることは、誰もが認めることと思いますが、その人が睡眠中にどのような体験をしたかについては、覚醒後に本人から聴くか、本人が記述したものを読むしかないので、その経験を他者が直接知る方法はありません。
精神分析は、近年ではどちらかと言えば、分析家と被分析者の関係性(特に転移-逆転移関係)を重要視し、夢分析(夢の解釈)を治療技法としてはあまり重要視していないように見えます。それに対してユング派は技法の中核に夢分析を置きます。夢を治療のなかでどのように扱うかは治療者によって異なりますが、ユング派の治療者は教育分析で自分自身の夢分析を徹底的に経験していますので、基本姿勢はおそらく一緒です。
〈夢〉は睡眠中の知覚体験であり、本質的に「対象無き知覚」ですが、〈能動的想像〉は覚醒中の体験です。〈能動的想像〉とは、一言で言えば、覚醒中に無意識のイメージが自律的に活動することを許す程度まで意識水準を低下させて、そこで生じる体験を詳細に記述していくことです。

このプロセス自体は、実は創作などの活動においては普通におこなわれていることで、例えば小説家は、作品の登場人物が作家のコントロールを離れて自由に行動したり発話したりすることを許します。
このようなことは何もプロの作家に限られたことではなく、近年の若者たちの間で頻繁におこなわれている二次創作などの同人誌活動なども、そのひとつだと思われます。夢小説と呼ばれるジャンルがサブカルチャーの世界に浸透していることも、このような現象を裏づけるのではないかと思います。
このような創作活動をしている時の、作家自身の身体はどう体験されているのでしょうか? 典型的な場合には、作者は自分の身体ごとその作品のイメージの世界に入り込んでいきます。この時の身体は、客観的に観察される身体ではなく、内側から体験される「生きている身体」の性質を帯びます。典型的な場合はこの両者は区別できないくらいに混じり合い、現実の身体にも大きな影響を与えるアクチュアルな体験が生じていると想像されます。
それでは〈夢〉の場合はどうかというと、私たちは〈夢〉において〈能動的想像〉と非常に類似した「意識と無意識の交流」を体験しています。しかし多くの場合、睡眠中は意識の力が覚醒中より低下しているために、その体験の意味を知り現実の生活に活かすためには、専門家の援けを必要とするとされています。しかし、ある種の例外的な夢においては、夢においても能動的想像と非常に類似した体験をすることが可能です。

「見る側が見られている」のを見る
「見る側が見られている」のを見る

 

オスラーの夢

ここで、現代臨床医学教育の父と呼ばれているウイリアム・オスラー(1849-1919)の話題に少しだけ触れたいと思います。
オスラーは「医学は科学に基礎をおくアートである」という言葉を遺したことで、現在も医師であれば誰でもが知っている存在で、おそらく、一人の医師が医学全てを網羅する知識と技術をもつことができた最後の時代の偉大な内科医でした。
オスラーがその晩年の約8年間にわたって、自身の夢の詳細な記録を遺していたことはあまり知られていません。オスラーはジークムント・フロイト(1856-1939)とほぼ同時代の人で、ごくわずかですがフロイトとの接点がありました。しかしオスラーの記録は、夢体験における状況・空間・感情などについての精密で詳細な記述の形式をとっており、フロイト理論による夢解釈の痕跡は全く見出すことができません。

そのシリーズのなかの夢のひとつとして、オスラーは「私自身の解剖」と題されたとても印象的な夢を記載しています。
この夢のなかではオスラーは、強い狭心症発作で前の晩に死亡しており、翌日、主治医であるギブソン医師による解剖がおこなわれ、オスラーは自分自身の遺体が解剖される場面に立ち会います。しかもオスラーは、幽霊としてその場にいるのではなく、身体をもった存在としてその場におり、同僚の医師たちもその状況に疑念をもっていません。
自分自身の身体が切り開かれ、全身の臓器がくまなく精査され、同僚の医師との間で冷静かつ詳細な議論が、夢のなかでなされます。その結果、オスラーの死因は若いころ知らずに感染した梅毒による大動脈病変が直接のきっかけとなった狭心症であったことが判明します。オスラーを含む医師たちが、大動脈の病変に病原体(スピロヘータ)がいるかどうかの顕微鏡検査をしようとするところで夢は終わります。
オスラーはこの睡眠中の体験をまるで実際の解剖に立ち会ったかのように詳細に描写し、記述していますが、そこには日時と時刻(4:30 a.m.)が記載されており、目覚めて直ちに書かれたまるでカルテのような記録であることは確実です。
この夢が深層心理学的にどのような意味をもつのかについては、複数の解釈が可能ですが、シンプルに考えると、この夢のなかでのオスラーの「ドッペルゲンガー」的な体験には、オスラーが到達した、身体に対する範例的な医師としての態度が表現されていると理解することができるかもしれません。
医師の関心は「何がこの身体の保有者の人生を終わらせたのか、その生理や病理はどのようなものであるのか、その歴史は何であったのか」といったことを、身体を精密に吟味し、描写し、それを記録に残すことを通じて探求することです。しかし、この夢のなかでの遺体としての自分も、それを観察・記録する自分も、ともに身体として体験されているにもかかわらず、それらの身体は実体ではありません。それは“こころ”の現われとしか言いようがないのです。
なお、オスラーはこの夢の記載の約2年後に、当時、欧州を襲っていたスペイン風邪に罹患し、併発した肺炎からの膿胸で死去しました。その遺体は、夢でおこなわれたと同じように主治医ギブソン医師によって解剖されました。梅毒性の病変は見いだされなかったと報告されています。

 

Long Covidの問題

最後に、磯野先生が提起された、「原因不明の身体の不調」が往々にして心因性と診断される時に生じる問題について、COVID-19と絡めて私からも問題提起したいと思います。
COVID-19は、高齢者や合併症をもった人における致死率は高いのですが、そうでない人の多くは無症候あるいは軽症で回復するので、社会にとってそれほどの脅威ではない、という言説がかなり広まっています。
しかし一方で、COVID-19に感染した人のうち、ウイルス学的検査では感染はもはや存在しないとされている人のうち少なくない割合の人が、3週間を超えて遷延する症状を呈することが明らかになってきました。この現象はLong Covidと呼ばれており、今後、COVID-19の医療上のケアにおいて大きな問題となる可能性があります。
Long Covidの約半数の人には、肺の線維化や中枢神経の器質的な異常などの、身体的異常が証明できます。しかし残りの半分の人には、明確な身体的な異常が証明できないにもかかわらず、呼吸困難感、全身倦怠感、不眠などの症状が継続し、QOLが長期的に障害されるようです。
これらの状態は「慢性疲労症候群」と類似しているという指摘がみられ、いわゆるコロナ鬱との関連も示唆されています。今後、Long Covidを訴える患者さんを身体的なものと心理的なものとに分けてラベルしようとすることは、絶対に避ける必要があると思います。これらの病態は連続しており、そもそも“こころとからだ”とは本来分けられないものであり、それを医師が無理にわけようとすることから問題が生じるということは、十分に考慮しておく必要があると思います。


齋藤清二齋藤清二(さいとう・せいじ)

立命館大学総合心理学部教授
1951年生まれ、新潟大学医学部卒業、医学博士
富山大学保健管理センター長・教授、富山大学名誉教授を経て現職
こころの分野は、消化器内科学・心身医学・臨床心理学
からだの種目は、卓球

まちかど学問のすゝめ 其の六

《木立のカフェ》はヴァーチャルでリアルな喫茶店。マスターの村井俊哉さんが京都市内の喫茶店をぶらっと訪れて、お客さまと「こころとからだ」「文化・社会」について語り合います。

広大で肥沃なマージナル領野


● 村井俊哉:1966年生まれ、京都大学医学研究科精神医学教室教授
● 東畑開人:1983年生まれ、十文字学園女子大学准教授

常連さん
常連さん

今回は、伏見区の龍谷大学深草キャンパスに「にわかカフェ」が急設されました。お客さまは、『居るのはつらいよ』などの著書で人気を博す東畑開人さんです。わたしは十数年まえ彼としょっちゅう「おでん屋さん」談義をしていましたが、カフェ談義は初めてです。素面の開人ップに興味津々です。――それから今日は……木立の文庫さんのインターン・スタッフの姿も。この談義のあとに、とっておきのパフォーマンスを見せてくれるそうです!

東畑開人
▲「文化と心理療法」を考える、その前に
村井俊哉
村井さん

はじめまして。

東畑開人
東畑さん

はい。はじめまして、ですね……。お話しできて光栄です。

村井俊哉
村井さん

今回は私が大会長をつとめます第26回「多文化間精神医学会」学術総会で東畑さんが「文化と心理療法」という教育講演をしてくださるということで、その前の時間をカフェ・ブレイクに設定させてもらいました。

東畑開人
東畑さん

ありがとうございます。じつはこの学会には沖縄にいた頃から所属しておりまして、刺激を受けてきました。

村井先生
▲オルタナティブのスライディング・スケール

どこに立って「もうひとつの声」を聴く?

村井俊哉
村井さん

東畑さんの本、読ませてもらいましたよ。社会のなかでの”ケア”ということを改めて考えてみるきっかけになりました。「真ん中と周縁」「既存のオフィシャルなものとそれに替わるオルタナティヴなもの」という視点が参照項になりますね。

東畑開人
東畑さん

“心をいかに見るか”をめぐっての、真ん中と周縁ですね。精神医学って、かなり早い段階から、オルタナティヴなものと戦ってきたと思うんです。いかにオルタナティヴなものを制圧して、公的なものを確立するかが大事なテーマでした。これに対して、臨床心理学というのは、河合隼雄先生がそうですけれども、オルタナティヴなものを引き受けようとしてきました。

村井俊哉
村井さん

そうですね、そうですね。

東畑開人
東畑さん

そういう大きな流れがある。ただしこの十年は臨床心理学も、オルタナティヴなものではなくて、オフィシャルなものとしてやっていくことを引き受けようとしてきました。公認心理師法の成立はその象徴ですね。
だけど、心を扱おうとするときには、どうしてもオフィシャルなものの見方だけでは限界があるように思います。というのも、心の問題を抱えている人のなかには、オフィシャルな生き方に傷ついたり、ついていけなくなって、オルタナティヴな生き方を必要とすることがあるからです。
あるいは、こうも言えるかもしれません。心理学とは心のなかのオフィシャルな声だけではなく、オルタナティヴな声に耳を傾け、その二つを調整する仕事でもあります。どうしても、周縁の世界へと開かれている必要がある仕事だと思うんですね。

村井俊哉
村井さん

精神医学にもそうした側面はあって、精神科は八割ぐらいがおそらく本流で、二割ぐらいがオルタナティヴなのではないでしょうか。つまり、精神医学にも、いくつかの新しい手法というかオルタナティヴなスタンスが採り入れられているのですが、それは東畑さんが言われる「ケア」ですよね?
それはそれで、精神医学のなかにしっかりあるべきだと思っています。ただ、そうしたオルタナティヴな側面を、本流としての医療のなかに無理矢理に位置づける、というのではなく……。

東畑開人
東畑さん

なるほど。

村井俊哉
村井さん

せっかくオルタナティヴの良さがあるのに、大規模臨床試験で薬物療法とその効果を比較してみたり、脳画像でその証拠らしきものを見せてみたり、無理矢理にサイエンスのフォーマットに乗せようとすることはないように思うんですよね。そういう意味では、臨床心理学にもやっぱり同じような構図があるのかな?と思うんです。本流とオルタナティヴという……。

東畑開人
東畑さん

確かに。

村井俊哉
村井さん

ただ、その割合が、オルタナティヴのほうが多いんじゃないかな。「主たる活動の場は外にある」という位置づけはどうですか?

東畑開人
東畑さん

精神医学にせよ心理学にせよ、つまりニコラス・ローズのいう‘Psy’の学問は、オルタナティヴなものがオフィシャルなものになろうと、闘争し運動するカルチャ―だと思うんですね。それは歴史上繰り返されてきたことです。というのも、僕らの仕事は半分は科学と面を接していて、もう半分は宗教と接しているからです。脳と霊の間に、心があると言ってもいいかもしれません。
ただ、その中間というのは、居心地が悪いものだと思うんです。そして、そこに居直ってしまうと、カルトのように閉じられたものになりがちだという事情もあります。中間性というのはクリエイティヴであるということでもあるはずですけど、それを維持するためには絶えず闘争しなきゃいけないということかもしれませんね。

村井俊哉
村井さん

ただ、そのカルトとかの「真のオルタナティヴ」の人は、正統「に対する」オルタナティヴという自覚がないのではないんじゃないですか? 自分たちの「正統に対する位置づけ」を自覚したオルタナティヴというのは、そんな不健全にはならないような気はするんですけど。

東畑開人
東畑さん

本当はそうだと思います。だけど、「オルタナティヴです」というアイデンティティにはなかなか安定性がないのかもしれないですね。代替療法とかはどうなんでしょう?

村井俊哉
村井さん

その代替療法もそうです。主流にとって代わろうとすると、それは医療制度のなかで活動することになるので、規制も罰則もとても厳しい。オルタナティヴというのは規制がもっと緩くて、もっと自由にやれるものでいいのではないでしょうか? 緩やかで広い基準でやっている人が、無理に厳しい基準に自分を合わせようとすると、非常に窮屈で、時にはとても滑稽なことになる。
もちろん、オルタナティヴといっても、何の基準も無いということではなくて、そこには普通の意味での「常識」とか、そういう広い基準がありますよね?

東畑開人
東畑さん

はい、コモンセンスがあって……。

村井俊哉
村井さん

良心とか……。逆に言うと、そういうちょっと広めの基準を想定すれば、デイケアでのケアなどの定義や概念もできそうな気がします。

東畑開人
東畑さん

オフィシャルなものの管理には服さないけれども、社会性を失わない良識はある。多分、それを支えるのが、広い意味での人文社会科学の感性なのだと思うんですね。コモンセンスと批判精神を宿した自己技術みたいなものとしての「学問」が、人間の生き方の多様性を包摂するために必要なのではないかということですね。

村井俊哉
村井さん

基準の狭い/広い、厳しい/緩いには、スライディング・スケールみたいなところがありますよね。たとえば医学という枠組のなかでも、精神科医が精神療法とか薬物療法を行う場合よりも、もって侵襲的な外科治療のほうがより厳しいですよね。そういうふうなスケールがあって、その裾野のもう少し緩いところに、おそらく、広い意味での心理療法とか、そういうものもある。ただし「何でもありではない」というように位置づけられないでしょうか。

東畑開人
東畑さん

なるほど。

村井俊哉
村井さん

そういう心理療法へのニーズって、非常に大きいように思います。そこに「エビデンス」ということを無理に持ち出して、スライディング・スケールの狭いほうを目指さなくてもよいような気がするのですが……。

東畑先生
▲「はみ出る」部分は社会的な文脈によって……。

怪しげなものと 常識的なもの

東畑開人
東畑さん

そうした「枠組」間の移動めぐる話は、精神科医療にもありそうですね。

村井俊哉
村井さん

そうですね。たとえばアメリカでは、いわゆるサイカイアトリー(psychiatry)と、ビヘイヴィアル・ヘルス(behavioral health)というのは、基本的には分かれてきています。よい睡眠を確保して健康的な食事を摂って運動をすればいい、という常識的な意味での「心の健康」と精神医学は、分けておかないと、話がごちゃごちゃになります。ビヘイヴィアル・ヘルスにはものすごく広がりがありますから。
たぶん同じことが、臨床心理の専門家が患者さんに接するときに、起こっているのではないですか? 本当に強い専門性を要する、つまり医療と重なり合うような面と、そうではなくて、非常に広い意味での「心のビヘイヴィアル・ヘルス」を扱う面が、あるのではないかと思うんですね。

東畑開人
東畑さん

はいはい、はいはい、はいはい。

村井俊哉
村井さん

日本の精神医学ではこのあたりがまだ十分に分けられていないところがあって、ついつい拡大路線をとってしまい、ビヘイヴィアル路線にどんどん踏み込んでしまう。例えば、ゲーム依存症が「病気」になり、そして、うつ病も、その裾野がどんどん広がっていきます。……こうした拡大路線の背後には、自分の業界の拡大したい、という無意識的なポリティカルな側面もあるのかもしれません。

東畑開人
東畑さん

確かに。

村井俊哉
村井さん

だけど、こうしたことは、概念的にはやはりどこかおかしいのではと思っているわけです。

東畑開人
東畑さん

心の治療におけるオフィシャルとオルタナティヴの分別にはどうしてもポリティカルな側面があります。わかりやすいのが中国です。最近、Li Zhangの“Anxious China”という本を読んでいたんですが、心理療法は文化大革命のときには危険思想でしたが、経済開放が進んでいくと、オフィシャルなものとして認められ広がっていきます。社会がどうあるかが、心をめぐる言説を深く規定しています。
もっと複雑なことに、オフィシャルとオルタナティヴの線引きは、臨床現場によっても異なります。たとえば、医療領域における価値は「健康」にありますが、教育領域では「成長」という価値が入ってきますね。心をめぐる知の“はみ出る”部分は、マクロにもミクロにも社会的な文脈によって変わってくる……。

村井俊哉
村井さん

かつては精神医学の心の治療の中心から外れて“はみ出る”ものには、それこそカルトとか、若干怪しげなイメージがあったんだと思います。ところが最近では、ど真ん中の精神医学から外れるものの大半は、ビヘイヴィアル・ヘルスのみたいなことになってきていて、なんと、これは怪しげなところはまったくなくて、きわめて普通のことですよね? 逆に普通過ぎて、専門性を発揮できない可能性がある、という問題が残りそうですね。

東畑開人
東畑さん

ああ、そういうことですよね。うんうん、うん。

村井俊哉
村井さん

そう考えると、真ん中の精神医学はふたつの極と接しているように見えてきます。ひとつは「怪しげ」な極、もうひとつは「あまりにも常識的過ぎて専門家が必要でない」ような極。

東畑開人
東畑さん

ふたつ目の極というのはつまり“人生”というものと接しているようなところですよね。みんな人生を持っているわけだから、専門家の言っていることが「みんな言っていること」と変わらなくなっちゃう、という問題があります。この問題について、村井先生は「リカバリー1,2,3」というように書いておられます。

村井俊哉
村井さん

リカバリー1というのは医学的なものなので、そこでは完全に専門性が要求されます。その外側に書いたリカバリー2と3は、ほぼ一体化していて、数量化とかが難しいようなものを扱っているというふうに分けたんです。
その周縁部にはものすごく平凡なものが登場してくるのか? そうではなくて、非常識な楽しげなものがたくさん出てくるのか? 
どちらが出てくるかは、当時者の価値観によってくると思うんです。例えば、治療が難しい癌が見つかったときに登場してくるものは、「静かに人生の最期を考えつつ、いい人生を生きてきたという振り返り」であるかもしれませんし、一方で、「怪しげな代替療法に行く」ことになるかもしれません。そこの世界って、実は非常に広いですよね。

東畑開人
東畑さん

開業臨床をやっていると、取り扱っているメインの問題って、家族とうまくいかないとか、この仕事でいいんだろうかとか、ある意味で人生の問題です。
これって、医学的なリカバリーの課題ではないんだけれども、僕が仕事をしているときに、医学的な知識を使っていないかというとそうではなくて、精神病理を理解しようと努めています。ですから、調子を崩してきたら、医師にオファーもするわけですね。そこには重なりがあり、中間の領域があります。
ただ、難しいのは、オフィシャルとオルタナティヴの分別が公的資金を使うか否かと密接に結びついていることですね。本当はそこはあいまいなのだけど、お金が絡むことで、どうしても線を引かなきゃいけなくなります。

村井俊哉
村井さん

オルタナティヴというと、つい「奇妙な人たち」というようなイメージを持ってしまうんですけれども、オルタナティヴには、常識的すぎて面白くもなんともないものも含まれてきます。
でも、世の人の大半はそうした常識的な人たちなので、医療という枠組では、基本的には、まずは病気の治療ということを中心に考え、それにプラスして「常識的オルタナティヴ」にもそれなりの気配りをしていく。しかし医療と離れた営みでは、医療以上に、オルタナティヴの「広がり」にも対応できるという、そういう感じでしょうか。

東畑開人
東畑さん

そうなんですよね。人生や生き方は多様です。みんながど真ん中だけを生きているわけではない。というか、それぞれが個別にそれぞれの人生を生きるということが可能になったのが近代であり、それが心理学というものの前提条件です。
人々が共同性にのみ生きていた頃には、宗教がその役割を果たしていました。だから、オルタナティヴを扱うというのは、僕らの仕事の根底のところにある構えだと思うんですね。

村井俊哉
村井さん

医療の場合は、オルタナティヴなことを何も考えなくてよくて、基本的には、その病気を治せばいい。そんな中心軸の周辺に、人生の問題、というオルタナティヴの傘が広がっている、そんな感じでしょうか。

東畑開人
東畑さん

ああ、なるほど。

村井俊哉
村井さん

この傘の中心から少し外れたあたりに乗っかっているのが、常識的価値観で、そこでは「ハッピーでいたい」「元気でいたい」「Quality of Lifeを高めたい」という常識的リカバリーという話になる。
ところが、その外側にもいろいろなものがあって、たとえば「自分の人生、艱難辛苦の繰り返しで幸せなことなどほとんど記憶にないが、でもこれが最良の人生だったのだ」というような振り返りも含め、傘の外のほうが広がっている、そんなイメージですね。

東畑開人
東畑さん

はいはい、いや、そう思いますね。

村井先生
▲開いた傘にはゆるやかな曲線があらわれる

傘の突端と 縁(フチ)の間で……

村井俊哉
村井さん

こうした傘の外まわりのほうで、対人援助を行っていくには、知識や人生経験、さらに柔軟性が必要で、なかなか大変でしょうね?

東畑開人
東畑さん

たぶん、人文科学とか文学なんかも、この傘のところの話なんでしょうね。

村井俊哉
村井さん

ええ、ええ、そうですよね。傘の軸のところの医療や、その周辺でも、平凡で常識的なところをやっていたら、人文科学者や小説家にはなれない。そういう力がないなら、医学をやりなさいと。

東畑開人
東畑さん

なるほど。

村井俊哉
村井さん

オフィシャルな心理の資格をもちながら精神分析をするというのも、「傘」の譬え(たとえ)からみると、それはそれで自然なことになりますかね。

東畑開人
東畑さん

うんうん、非常に見晴らしが良くなりました。傘で頑張ろうと思いました(笑)。

村井俊哉
村井さん

傘で(笑)。

東畑開人
東畑さん

「傘型」人材なんですよ、なぜそうなってしまったのかわからないのですけど……(笑)

村井俊哉
村井さん

でも、大変ですよね、この傘ってね。大概。

東畑開人
東畑さん

先生がおっしゃっていましたけれども、やっぱり自由である分、権力性に乏しいということだと思うんですね。アジールは制度に対して距離をとる分、常に不安定です。そこを引き受けないといけない。

村井俊哉
村井さん

ええ、自由にやろうと思うとね。

東畑開人
東畑さん

そうですよね。いや、まあ社会ってそういうものですよね。

村井俊哉
村井さん

ええ、ええ。
この“まちかど学問”というカフェ企画を津田さんとしているのにも、そういう問題意識があるんです。精神医学にしても臨床心理にしても、非常に窮屈になってきているので、「傘の周り」あたりで語っていくような場をつくりたい。それで、オフィシャルではない場=カフェをこうして続けています。

東畑開人
東畑さん

なるほど、確かに。

村井俊哉
村井さん

素人として語ることが大事かな、なんて思うんですよね。

東畑開人
東畑さん

それは遊びの領域ですよね。遊びの必要がある……。

村井俊哉
村井さん

「必要がある」とまで言っちゃうと遊びではなくなるので。

東畑開人
東畑さん

(笑)

遊ぶ「余裕がある」という感じですね。

村井俊哉
村井さん

ええ、そうですね。どんどん遊びの余裕が減ってきているのは確かです。

東畑先生
▲生真面目と不真面目のはざまで
東畑開人
東畑さん

そういえば心理学は、ここ最近ものすごく真面目になってしまいました。

村井俊哉
村井さん

我々もそうです。かつて精神科には、医師免許を取ってみたものの、いろいろな意味ではぐれ者のような人が入局したものですが、最近はえらく生真面目なことになってしまって……。けれども、「遊び」が大事だからと真面目さを解体することもできませんし……、というか解体しないほうがいいと思うので……。

東畑開人
東畑さん

はい、危ないですよね(笑)。

村井俊哉
村井さん

不真面目なところを残すというか、ちゃんと育むみたいになったらいいなと思っています。

東畑開人
東畑さん

いやいや、本当に……。


マスター:村井俊哉(むらい・としや)


お客さま:東畑開人(とうはた・かいと)

1983年生まれ、十文字学園女子大学准教授。白金高輪カウンセリングルーム主宰。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程修了、博士(教育学)。精神科クリニック勤務を経て、現職。著書に『美と深層心理学』『野の医者は笑う』『日本のありふれた心理療法』など、『居るのはつらいよ』〔2019年〕で大佛次郎論壇賞を受賞。


常連さん
常連さん

いやいや、本当に……! いやいや、学会さんの場を借りたこともあってか……存外に生真面目ぽい談義になりましたねぇ。さて、凝縮したエネルギーを解放させて頂ければと思いまして、今日の収録を手伝ってくれた木立のホープさんに「ヨーヨー世界四位」の技をチラッと見せてもらいましょう!(常連の友だち家族から京都に預かった金の卵です)

木立のホープ:橋本向陽(はしもと・こうよう)

2000年生まれ、小学校5年生の時に流行していたヨーヨーを始める。
2018年、2019年には糸とヨーヨーが離れる4A(オフストリング)部門で世界大会4位になる。現在は、世界大会での優勝を目指しながら、競技ヨーヨーの普及のために、一般の人に向けてのパフォーマンスやティーチングもおこなっている。


突然の「みんなのひきこもり時代」到来?

世界的な英語辞典にも収められた ‘Hikikomori’
九州大学病院精神科神経科の加藤隆弘先生は国際共同研究をつうじて
“ひきこもり”の病態解明と新しい治療法開発をすすめています。
その専門家が「生物/心理/社会」諸面から踏み込んで
2019年9月26日にオンライン連載をスタートした《みんなのひきこもり》では
人にとっての“個”という課題について、みんなで考えましょう。

――コロナ社会の“巣ごもり”に光が当てられている今、待望の第2話。


こんにちは 再び

[加藤隆弘]

 2019年秋に《みんなのひきこもり》という連載を始めました。
イントロダクションを書き上げて、さあ、次の原稿を書こう書こうと思いつつ、なかなか筆が進まない時期を過ごしておりました。私のこうした“先延ばし”心性は、ひきこもりの方が「明日は学校に行こう!」「明日はハローワークに行こう!」と思いつつ、なかなか外の社会への扉を開くことができない心性と変わりないものでしょう。

 そんななか、昨年12月に中国の武漢において未知の急性呼吸器疾患が集団発生し、その原因が新型のコロナウイルス(COVID-19)であることがニュースで報じられました。当時、対岸の火事としか思えなかった新型コロナウイルス感染症は、武漢から中国全土、そして、世界中へ拡がり、世界保健機構(WHO)はパンデミックを宣言しました。悲劇的なことに、世界中で多くの方々が感染し、何十万人もの人々がお亡くなりになりました。亡くなった方々に哀悼の意を表します。
 我が国でも日に日に感染者数は増加し、4月下旬には全国に緊急事態宣言が発令される事態に陥っています。新型コロナウイルス感染症の拡大を防ぐべく、いま、世界中で ‘Stay at Home(家にいなさい!)’ がスローガンとして叫ばれ、我が国でも「不要不急の外出を控えること」が私たち国民に課されています。

 連載をはじめた昨年秋の時点で、私の脳裏には「2050年の未来にはインターネット社会の拡大とともに大気汚染など外出しづらい状況が生じて、ひきこもり的な状況は社会的に受け入れられる、あるいは、受け入らざるをえない時代になるかもしれない」といった漠然とした思いがありました。ところが、期せずして、私たちは、いま、この2020年の春に、ひきこもりのような生活をせざるをえない状況に置かれることになってしまったのです。
 もちろん、みなさんがご存じのいわゆる“ひきこもり”と、現在私たちが不要不急のスローガンや感染恐怖の元で強いられている「巣ごもり」状況とが全く同じわけではありません。しかし私は、新型コロナウイルス感染症による外出や直接的な対人交流の機会が減少し続けることは私たちに想像以上の心身への負の影響を及ぼしかねないと、一精神科医として、そしてひきこもり臨床の専門家として危惧しています。いまだ、新型コロナウイルス感染症の治療薬は開発されておらず、「自分も移ってしまうのではないか」あるいは「知らず知らずのうちに自分が誰かに移してしまうのではないか」という不安や恐怖で戦々恐々としながら、怯えながらひきこもっている人も少なくないはずです。

 これまでの“ひきこもり”臨床で明らかになったことがあります。
 「ひきこもり者」は、ひきこもり始めの少なくとも数ヵ月は、ひきこもる前よりも精神的に安定する傾向があるということです。日々の辛い人間関係から逃れることができてホッとする方が少なくないのです。しかし、こうしたひきこもり状況が数ヵ月、数年と続くなかで、生活リズムが乱れたり、独りぼっちの感覚が強まったり、他方では家庭内での軋轢が強まったりして、家庭内不和や心身の不調を来たしやすくなるのです。
 もし、コロナ自粛がこれから数ヵ月、数年と続くとしたら、「ひきこもり者」に見受けられたような心身の不調や家庭内での問題が世界中いたるところで発生しかねません。特に学生のみなさん、大丈夫でしょうか? 
――《みんなのひきこもり》というネーミングに半年前であれば違和感を思えていた読者のみなさんも、いまは他人事ではなく感じておられるのではないでしょうか。いま、私たちはまさに「みんなのひきこもり時代」に突入しようとしているのかもしれません。

 この連載では、従来の“ひきこもり”に関する理解やその対処法を中心にとりあげつつ、私たちが余儀なくされている「コロナ自粛」のなかで心身の健康を保つコツに関しても、適宜ふれてゆきたいと思います。“ひきこもり”への理解を深めて、未曾有の「みんなのひきこもり時代」を生き延びるための術を身につけてゆきましょう!
 私の好きな精神分析家に英国で小児科臨床も実践していたドナルド・ウィニコットという人物がいます。そのウィニコットは ‘capacity to be alone’ という言葉を後世に残しました。日本語では「ひとりでいられる能力」と訳されることが多いのですが、ここでは敢えて「ひきこもる能力」と訳してみましょう。ウィニコットはこの「ひきこもる能力」を得ることこそが、未来を創造的に生きるためには不可欠であると提唱しています。コロナ自粛による ‘stay at home’ の先に明るい未来が訪れることを信じて、いまこそ「ひきこもる能力」を得られる大事な時期と捉えて、この難局を乗り切りたいものです。


加藤隆弘加藤隆弘(かとう・ たかひろ)

九州大学病院 精神科神経科 講師
日本精神神経学会専門医・指導医、精神保健指定医
共著『北山理論の発見』(創元社 2015年)など

第七話 心身医学における諸問題

[岡田暁宜]


 第七話ということで、徐々にリレーらしくなってきたように思う。
 第六話で磯野先生は、敬称を「先生」から「さん」へと変えておられる。私は、以前に経験した力動的集団精神療法のことを思い出した。私が参加した力動的集団精神療法には、老若男女のほかに他職種のメンバーが参加し、そのなかでは、互いに「さん」で呼び合っていた。本リレーエッセイにおいても、さまざまな集団力動が起きているのかも知れない。医師には、互いに相手を「先生」と呼び合う文化があり、私にはかなり馴染みがあるが、それ自体が防衛的な意味をもつこともある。
 大先輩である「斎藤先生」を「斎藤さん」と呼ぶことに若干の抵抗感はあるが、今回の磯野先生の変化に私も合流するのが自然であると思う。よって、第七話から、私もお二人の呼称を「さん」とさせていただくことにする。


心身医療における「覆い」と「捻れ」

 第五話において斎藤さんは「『心身』という言葉に違和感はあまりなかったが『心身症』という言葉には違和感がかなりあった」と述べている。私は今でも「心身」という言葉にも「心身症」という言葉にもあまり違和感はない。
 斎藤さんは“心身症”という言葉に対する違和感についての説明において「心身症という概念がほぼ消滅している」と述べている。そこで1991年の日本心身医学会による心身症の定義に言及し、この定義は1996年に設立した日本心療内科学会の心療内科の在り方を決定づけることになったという。さらに1991年の日本心身医学会の「心身医学の新しい診療指針」における心身症の定義について、ふたつの問題を示している。ひとつは「本定義では、心身症を身体疾患に限定し、神経症やうつ病に伴う身体症状を除外した」ことであり、もうひとつは「本定義における心身症の患者が心療内科を訪れることはほとんどない」ということである。斎藤さんは、心療内科を訪れる身体症状を訴える患者の大半は、器質的な異常を伴わない機能性身体症候群 functional somatic syndromeであり、そのほとんどは臓器別診療科や総合診療科でケアされているという。
 以上の斉藤さんの見解について、私はまったく同感で、まったく異論はない。
 さらに斎藤さんは「精神疾患としての心身症」の節で、「今日、心療内科を訪れる患者の大半は、DSM-IVでいう〈身体表現性障害〉、DSM-5でいう〈身体症状症 somatic symptom disorder〉であり、心療内科では『身体の病気がないのに身体症状を呈する精神疾患』を診ている」というように述べている。
 これらの見解についても私はまったく同感である。私が勤務している診療所は、精神科の他に心療内科も標榜しているが、初診の患者のなかには、心療内科だと思って受診する者も少なくない。今日の臨床現場において精神科医が「心療内科」という診療科を積極的に標榜する理由として「神経科」や「心療科」と同様に「精神科」への敷居を下げるためだけでなく、「精神科」という診療科を覆い隠すこともあるように思われるが、それは、おそらく患者のニーズを汲み取ったものであろう。
 実状を見る限り、心療内科は、身体医学的に説明できない症状 medically unexplained symptomsを呈する患者のなかで精神科やこころの問題に抵抗のある患者の受け皿になっているといえるだろう。

 この点については、私は日本における心身医学運動の理念に立ち戻り、1970年の日本精神身体医学会〔現: 日本心身医学会〕の「心身症の治療指針」にまで遡る必要があると考えている。1970年の心身症の治療指針では《身体症状を主とするが、その診断や治療に、心理的因子についての配慮が特に重要な意味を持つ病態》と心身症を定義している。そこでは《身体的原因によって発生した疾患でも、その経過に心理的な因子が重要な役割を演じている症例や、一般に神経症とされているものであっても、身体症状を主とする症例は広義の心身症として取り扱ったほうが好都合のこともある》と記述されている。1970年の心身症の定義は、1991年のような心身症を精神疾患と区別する診断的視点からの定義ではなく、治療的視点からの定義といえるだろう。心身医療の理念は、1970年の心身症の治療指針にあると私は考えている。心身医療の視点に立てば、1970年の心身症の定義に回帰する必要があるのではないだろうか。

 斎藤さんは、第五話で「それでは誰が心身症を弔うのか?」という問いを投げかけている。
 私は“心身症”臨床の現状について、次のように考えている。“心身症”の概念は多義性であり、1991年の定義でいう狭義の心身症を実際に診ているのは、臓器別診療科のいわゆる身体科といえるだろう。1970年の定義でいう広義の心身症を診るのは、本来であれば、精神科であるが、心の問題や精神科への抵抗を示す患者の受け皿として心療内科が一定の役割を果たしているであろう。
 そのうえで、次のような現象が起きていると考えている。それは、私が「心身医療と心療内科の捻れ現象」と呼ぶ現象である。それに向けて、まず私の立場をあらためて明確にする必要があるだろう。私は1991年に医師になり、同年に日本心身医学会に入会し、1970年の日本精神身体医学会〔現: 日本心身医学会〕の“心身症”の定義に賛同し、心身医学運動として心身医療の実践を始めた。1996年に日本心身医学会の認定医試験を受けて、認定医となり、その後、専門医となった。1996年は、アレルギー科、リウマチ科、リハビリテーション科などとともに《心療内科》が新たに標榜診療科として認可された年であり、日本心療内科学会が設立した年でもあった。しかし私は次のような理由で、日本心療内科学会に入会していない。
 その理由は「心身医療と心療内科の捻れ現象」という理解に至った私が心身医学運動として心身医療をおこなううえで《心療内科》という診療科に臨床的な矛盾を感じためである。もうひとつの理由は、私が心身医学の源流である“精神分析”の道に進むことを決意したことがある。
 私にとって心身医学とは、すべての診療科において意味のある普遍的な医学モデルを提示する学問であり、心身医療とは、すべての診療科において、実践できる/実践すべき医療であった。少なくとも当時の私には、日本心身医学会の内科医のみが中心となった日本心療科学会 Japanese Society of Psychosomatic Internal Medicineは、他の診療科の医師や他の職種が排除されているように見えていたし、心療内科の理念と心身医療の理念が捻れているように見えたのである。

 その一方で、日本心療内科学会の設立の背景についても考える必要があるだろう。
 1977年にG・エンゲルが提唱した「生物的心理的社会的」医学モデルの後、日本における心身医学運動において心身医療が社会的に認知されるために、心身医学は、医療のなかに居場所を確保することが必要であったように私は思う。そして既存の社会的な枠組である、大学医学部における講座や医局、あるいは病院や診療所における標榜診療科に心身医学の居場所を求めたのだろう。そのような背景のなかで誕生した心療内科医を束ねる学会が日本心療内科学会であるように私は思う。それは心身医学運動の歴史のなかで、ある意味でやむを得ない戦略や過程といえるかも知れない。
 しかし、心身医学を実践する本来の心身医療は、縦割的に並存する従来の診療科に対して横断的に跨がる概念であったはずであるが、《心療内科》を標榜することによって、縦割的に並存する従来の診療科のなかに組み込まれてしまったのではないだろうか。それが「心身医療と心療内科の捻れ現象」と私が呼ぶ現象である。
 さらに《心療内科》誕生の背景には、心身医学を実践する心身医療に携わる専門家たちの臨床的アイデンティティの問題があったように、私は思う。心身医学や心身医療に携わる専門家のアイデンティティの問題と“心身症”で苦しむ患者のアイデンティティの問題は力動的な共通点があるように私は思う。

 心療内科にとって重要な年となった1996年頃、私は実は次のようなことを考えていた。すべての診療科において、心身医学を視野に入れた心身医療が適切におこなわれるならば、すべての診療科は、象徴としての《心療内科》と言えるのかもしれない。さらに、すべての診療科が従来の縦割りから脱却し、患者中心に連携して、狭義から広義の心身症を医療全体で抱えることが可能になり、さらに社会-文化的なレベルで人間のなかにある“心”の問題や精神科への抵抗が軽減してゆけば、《心療内科》という診療科は不要になるのではないだろうか。このような考えは、当時の私が抱いていた《心療内科》をめぐる幻想であるが、当時の私自身の治療者としての葛藤と無関係ではないだろう。
 これに関連して、医師の専門性をめぐる最近のトピックに、日本専門医機構による専門医とそのサブスペシャリティ領域をめぐる議論がある。日本心身医学会と日本心療内科学会は、基本領域を内科とするサブスペシャルティ領域の専門医制度を新たに発足した。専門医の名称は、心療内科専門医である。しかし内科専門医のサブスペシャリティを目指す心療内科専門医は、1970年の定義にある心身医療の基本理念を保持できるのかどうか、今後の行方を見守る必要があるだろう。じつはサブスペシャリティをめぐる問題は、精神分析が精神科専門医のサブスペシャリティとして認められるかどうかという問題とも密接に関連している。

高い建物から交差点を望む
覆いと捻じれに目をむける立ち位置

 

異文化へと開かれること

 第六話で磯野さんは、文化人類学者の立場から“心”に向けてさらに考えを広げている。そこには、文化人類学からみた精神分析への問いが含まれている。
 「精神分析家はたとえ爆弾が落ちてくるような状況であっても分析をしている」というのは、精神分析家の分析的態度に対するひとつの比喩といえるだろう。しかし実際に爆弾が落ちてくる戦地では、“心”に向けた精神分析をおこなうよりも、まずは身体の安全を確保することが、心身の両面において大切であると思う。実際に精神分析では、内的環境のみならず、外的環境も重視しているように思う。精神分析は、精神分析という理念に基づく精神分析学といえるかも知れないが、一方で、精神医学とは異なる独自の世界観を有しているといえるだろう。
 身体と世界の接点に“心”を見ようとする磯野さんは、「身体とはそれ自体が心ではないか」と思うことがあったようである。文化人類学は、身体が心そのものを表す力動的な状況を捉えているのかもしれない。文化人類学に独自の学問文化があるように、精神分析にも独自の文化がある。異文化間交流では、自分の言葉と相手の言葉の違いを知ることが大切である。その意味で、磯野さんが言われるように、同じ言葉を同じ理解のうえで用いるのではなく、互いの立場を明確にする自分の言葉を使用した方がよいのかもしれない。いずれにしても、「異文化交流」自体にこのリレーエッセイのエッセンスがあるので、異なる領域や専門性と交流し、馴染みのない現象や素材をみずからの言葉で理解して、相手に伝えることが大切なのかもしれない。
 興味深いことに、精神分析と哲学は、人類学と関係の深い領域であり、一度踏み込んだら出てこられなくなる可能性について、磯野さんは示唆している。ある領域で何かを極めるということと、別の領域と交わって何かを発見するということに、臨床家は葛藤を抱くかもしれない。それこそ私が以前に感じた「心の専門家」と「身体の専門家」の関係性を表しているように思う。

 磯野さんは、最近、新たに向き合った書物としてC・G・ユングの「分析心理学セミナー」を挙げて、そこに書かれている、アクティヴ・イマジネーション/能動的想像法とその例を示してくださった。ユングについては、私よりも斎藤さんの方が詳しいわけであるが、私にとっては、精神分析における自由連想法 free association methodとの類似点と相違点を考える機会になった。アクティヴ・イマジネーション法では、例えば、ヘビという姿が心に浮かんだら、ヘビに対して受身的に身を委ねて積極的に関わり、無意識との対話を重ねるようである。ユングが重視したのが普遍的な無意識 collective unconsciousであるのに対して、精神分析が重視しているのは被分析者の個人的な無意識 personal unconsciousであるという点が、アクティヴ・イマジネーション法と自由連想法の違いといえるだろう。普遍的無意識を重視しているという点で、文化人類学はユングの分析心理学と共通点があるのだろう。
 ユングのアクティヴ・イマジネーション法に対して磯野さんが最初に連想したものが、シャーマンのおこなう呪術であるようである。磯野さんは、精神分析と呪術を分けるものは何か? と、新たな問いを私に投げかけている。この問いは、私にとってある意味で興味深い問いであった。

 この問いを受けて、私は自分が二年程前まで勤めていた大学のことを思い出した。
 当時、私は大学教員としては人文学部に所属しており、同じ学部には、人間の普遍的な本質に迫ることを目指した人類文化学科があり、そこには文化人類学を専門にする先生方がおられた。今から思えば、同じ学部でありながら、文化人類学の先生方との学術的な交流はまったくなかったことに、私はあらためて気づいたのである。当時の私の治療者としての心は、保健センターという医者の文化のなかに閉ざされていたのであろう。もちろん S・フロイトがみずからの精神分析を論じるうえで呪術やシャーマニズムにもしばしば言及していることは知っていたが、私にとっては、自分が実践している精神分析は、もはや呪術と比較するようなものではなかったのである。おそらく私は、接点がないほどに精神分析と呪術を分け隔てていたようである。
 せっかくの機会であるので、精神分析と呪術との違いについてあらためて考えてみたい。ただし、私は呪術というものを実際に見たことがないので、あくまで想像上の呪術ということになる。呪術とは、呪術師は神や精霊などの超自然的で神秘的な存在に働きかけて、患者の願いを叶える方法といえるだろう。これに対して、精神分析家が患者の無意識のなかに潜む「神」や「悪魔」を呼び覚ますという点、さらには、患者が精神分析家を「神」や「悪魔」を呼び覚ます「魔術師」の如く、あるいは精神分析家そのものを「神」や「悪魔」のように体験するという点において、精神分析は呪術と共通点があるかも知れない。
 最早期の乳幼児の体験を比喩で言えば、母親は「神」であり「悪魔」でもあるといえるかも知れない。しかしながら、精神分析(家)は呪術(師)ではない。私が思うに、精神分析は人間による人間のための実践であり、決して「神」や「悪魔」の力を借りているわけではない。そのため精神分析には、常に限界というものがあり、精神分析家はみずからの無力さというものに耐えなければならないだろう。
 C・G・ユングのアクティヴ・イマジネーション法は、適当におこなうと危険なので、きちんと訓練された専門家とともにやるべきであるということであるが、その点は、精神分析の実践と基本的に同じである。精神分析の訓練を通じて、今日の臨床倫理の上に実践されるという点は、呪術との違いといえるかも知れない。

 磯野さんは、第六話の終わりに、最近のトッピックとして Human Papilloma virus (HPV)の副作用 * における心身問題について言及している。私は、HPVワクチン接種後の副作用とみられる方を直接診察した経験がないので、公表されている以上の知見をもっていない。
 2015年に日本医師会が発表した『HPVワクチン接種後に生じた症状に対する診療の手引き』には、「『心因』という言葉が、器質的な病態の存在を全否定し、詐病的あるいは恣意的であると誤解されやすい事から、患者・家族も認める明らかな精神的問題を認める特殊な場合を除き、『心因』という表現は用いない」と明記されている。これらの内容は、精神科医の立場からみて、妥当であると思う。おそらく磯野さんが述べるような意見が社会のなかで存在するために、上記のような文言が診療の手引きのなかに設けられたのではないだろうか。いずれにしても、身体症状で苦しむ人々に対して心因性であると診断する行為自体がいかに暴力的であるかを、磯野さんは示しているだろう。
 私は研修医の頃に経験した慢性疲労症候群 chronic fatigue syndromeという病態に対しても同様の精神力動を感じる。psychogenicつまり心因性ということと、psychosomaticつまり心身相関があるということは、異なるのである。磯野さんが述べたHPVワクチンの副作用は心因性であるというひとつの社会的な見解に見られる暴力性は、「個別性の高い個体内の問題を社会-文化的なレベルで理解することの難しさ」を表しているように私は思うのである。

 精神分析における理解は、基本的に“生きた人間”に対する関与しながらの観察に基づいているが、文化人類学における理解も基本的に同じであると私は理解している。
 そのうえで、本稿において、私は社会-文化的なレベルで人間のなかにある“心”の問題や精神科への抵抗が軽減してゆくことについて触れたが、文化人類学では、観察による理解に基づいて、社会や文化に対して、どのような介入をしていくのだろうか。これは主に個人的な無意識を対象する精神分析からの問いであり、ひとつの期待でもある。
 
 
 
 

* 2010年頃より、子宮頸がんの成因とされる Human Papilloma virus (HPV) の感染予防として子宮頸がんワクチンが10代の女性を中心に接種されるようになった。その後、HPVワクチン接種後の副作用が報告されたことで、2013年にはワクチンの積極的勧奨が中止され、現在ワクチン接種率は大きく低下している。


おかだあきよし岡田暁宜(おかだ・あきよし)

名古屋工業大学保健センター教授
1967年生まれ、名古屋市立大学大学院医学研究科修了、医学博士
愛知教育大学・准教授、南山大学・教授を経て現職
精神分析協会・正会員
2010年、精神分析学会山村賞受賞

想定外の予定調和(2)

[藤中隆久]


 カウンセリングには“医療”的な方向を向いているカウンセリングと“教育”的な方向を向いているカウンセリングがある。
 “医療的”とは「再現可能性」を志向するもので、毎回おなじ結果に到達することができる方法論の確立を目指す。この場合の目指すべき結果はおおむね自明であり、例えば不登校ならば、クライエントが「学校に行く」というような結果だ。
 “教育的”な方向だと、カウンセリングをクライエントの「一度限りの人生」を共にすることと捉えて、クライエントが現時点において納得する結論に到達することを目指す。この場合、納得する結論が何なのかは、やってみなければわからない。

 このふたつの志向は方向が反対だといってもいいけれど、たいていは、相反する方向性を自己のなかで何とか統合しながらカウンセリングをしているんじゃないかな。どちらを重視するかは、それぞれのカウンセラーの個性かもしれない。でも、一方の志向しかないカウンセラーはダメで、特に、医療志向しかないカウンセラーはダメ、と僕は思う。

 どうしてかというと、人間の「変化」というものは、人間“内”のさまざまな要因と人間“外”のさまざまな要因が複雑に絡み合った結果として起こるものだから。人間を変化させることを目的とするものがカウンセリングだとすると、その変化が「治療」的な変化であれ「成長促進」的な変化であれ、カウンセラーは、複雑系である人間“内”要因と、複雑系である人間“外”要因の複雑な相互作用のなかで、複雑に変化する人間を想定してかかるしかない。単純系の線形モデルをベースにもつ医療志向だけでは、カウンセリングにはならない。

「クライエントが苦しむ原因を心理学の専門知識を駆使して解明してゆき、原因を取り除くための治療方針を考え、それをクライエントに丁寧に教えてあげると、クライエントはその方針を受け入れて実行して、その結果、クライエントが変化してゆく」

 こんな単純系の線形モデルのカウンセリングでは、カウンセラーからクライエントへという一方通行になりがちで、クライエントは受動的になりがちで、クライエントにとってそんなのは、退屈だったり、苦痛だったり、ピンと来なかったりするものにしかならないんじゃないかな。
 そもそもカウンセリングっていうのは、正しい答えをクライエントに教えてあげる行為じゃないので、メールや紙面で相談されたことに答えてあげたりすることは、カウンセラーはできない。クライエントと“いま・ここ”のやりとりをしながら進めるかたちじゃないと、カウンセラーのカウンセリング能力は発揮されないと思う。

イルカの写真、イルカがこっちを向いている
“いま・ここ” のやりとりを言葉にしてみよう

自分の感じをモニターして「言葉」に

 カウンセリングは言葉のやりとりで進められてゆく。カウンセラーの一言一言で、クライエントの気持は変化してゆくし、クライエントの一言一言で、カウンセラーの気持も変化してゆく。“いま・ここ”でクライエントが発した言葉に“真剣に”対応しようとすればするほど、カウンセラーが最初に想定した結論に着地できなくなる。結果的にはそこに着地したとしても、プロセスは全く違っているだろうし、その都度その場で、切り拓きながら創ってゆくしかない。
 その都度プロセスを創るためには、カウンセラーはクライエントのどんな言葉に対しても、その言葉によって引き起こされた「自身の内なる感覚」をモニターし、その感覚を自分の言葉にして紡ぎ出せるようになっておくべきだろう。カウンセラーとクライエントが、常に“いま・ここ”で感じている自己の感覚を言葉にしながらやりとりして進められていくカウンセリングは、クライエントにとっては、エキサイティングであり、楽しくて退屈せず、快感となるだろう。そんな質の高い会話の末に出てきた結論は、クライエントにとって、ピンとくる納得のいくものになるだろう。そして、質の高い会話自体が、クライエントの気持を元気にもするだろう。

 そう考えると、カウンセラーには、クライエントのどんな言葉に対しても「自分が感じて考えていること」を言葉にして反応できる能力が必要ということになる。さらには、その能力以前に、自分が感じていることや考えていることの基になる知識構造がしっかりと存在している必要がある。
 何も考えがない、何も感じない人では、それを言葉にして返そうにも返しようがない。だからカウンセラーには、心理学の専門知識はもちろん、一般教養的な広い知識が必要ということになるのである。自分の考え方の基が知識として構築されていてこそ、クライエントのどんな言葉にも反応できる。ゆえに、どんな言葉に対しても、すぐに反応できる反応性と構造化された知識をもっていることがカウンセラーの要件ということになる。

寄り添って泳ぐイルカ2頭
感覚をモニターして、相手の動きに応じるには?

シナリオのない「相手の動き」

 これは、古武道における形稽古や、文楽の人形遣いの稽古に共通する考えだろう。
 古武道では、戦いを現代武道のような「試合」というものに限定していない。想定外の攻撃を仕掛けてきた相手に対して、瞬間的に最適の動きで攻撃を受け流し、次の瞬間に最適の反撃をすることを想定している。攻撃を受けた瞬間に“いま・ここ”で、自分の内部の全身の力のバランスを確認し、次の瞬間にどう動けば現在の力のバランスを活かして敵を制することが出来るかを、身体と、心と、脳で判断して、身体を判断どおりに動かせるようになるために、形稽古をおこなう。
 みずからの全身の力のバランスを瞬時にモニターする能力と、次の瞬間に最も合理的な動きが何であるかを判断する能力と、そして、そのとおりに動ける身体にしておくために、形稽古はある。事前に自分が想定したコンビネーションブローの動きができるようになるためのシャドーボクシングの練習とは、本質的に異なるのである。
“いま・ここ”でクライエントと言葉のやりとりを繰り返すカウンセリングと、古武道が想定する戦い方とは、非常によく似ている。他にも、お互いがやりとりをする真剣勝負ならば、必然的に、同じ発想の方略が有効であるということだろう。

 入試における面接も、本来、面接官と受験生とが言葉のやりとりをする真剣勝負の場であるはずで、ならば、受験生は、相手がどんな人格の面接官であろうと、どんな反応をする面接官であろうと、「一律に暗記してきた想定問答集を、一方的に、お芝居のセリフのごとく流ちょうにまくしたてる」などという戦略は、捨てたほうがよい。そのスキルを磨けば磨くほど、不合格に近づいてゆく。
 どこからどんな質問が来ても、その場ですぐに自分の頭で考えられるための知識を蓄え、その知識を構造化し、その知識に照合して出現した感覚を「言葉」に変換できる能力を高めることによって、対応したほうがよい。想定問答集を暗記するよりも、ずっとクオリティの高い応答ができる。構造化された知識と、そこにアクセスして「言葉」を紡ぎ出す能力こそが、最強の武器となる。
 陳腐な想定問答集を暗記し、それを流ちょうにしゃべる練習を重ねてきた受験生に対しては、いくら僕が人間的に優れた面接者であったとしても、多少、不機嫌にもなるというもんだ。まあ、出来るだけそうならないように努力はするけど……。
 僕の質問に対して、受験生が“いま・ここ”で、自分の言葉を一生懸命に紡ぎだそうそしているならば、純情高校生がいくら口ごもっても……、あるいは反応が遅くても……、あるいは、もしかすると純情ではなくても……、むしろそれを好ましいと受け止める評価基準や度量も、僕にはある。覚えてきたセリフをお芝居のごとくペラペラとまくしたてられるよりは、好感度は何倍もアップする。好感度だって、大事だし。

水面をジャンプする5棟のイルカたち
結果のわからないジャンプ。そのための積み重ね

着地点がわからない「からこそ」

 教育の結果がどこにたどり着くのかは、誰にもわらない。それは人生と同じだろう。最初から正解があって、その正解に向かって正しく努力を重ねれば必ず、誰もがその正解にたどり着ける、というものではない。
 「だったら、努力しても意味ないから、しないもんね」などと開き直るふざけた野郎もときどきいるみたいだが、とんでもないことだ。どこに着地するかはわからないからこそ、どこに着地してもいいように、日々努力を重ね、知識を身に着け、構造化しておくのである。どうなるかわからない人生のために、知識という最強の武器を身に着けておくのである。
 そのためには、日頃の学びがいちばん大事。毎日の学びの積み重ねによって、知識は自己内に構造化されてゆく。入試の面接でも、構造化された知識こそが最強の武器になる。想定問答集を暗記するなどという小賢しい方略で対処するんじゃなくて、常日頃から、日々の学びを一生懸命に積み重ねるという正攻法で、面接も人生も対処しなさい!と僕は言いたいの。

 日々の学びを一生懸命に積み重ねなさい! これが僕のいちばん言いたかったこと。でも、これほど普遍的で本質的な教育論もないだろう。今、僕は、世界中のどこに行っても通用するような常識に、どうやら、着地してしまった気がする。教育はやってみなければわからない、カウンセリングもやってみなければわからない。それをここまで強調してきたにもかかわらず、つれづれなるままに“いま・ここ”の感覚に従って文章を綴ってきて出てきた最後の結論が、「日々の学びが大切」という常識的も最たるものになった。
 こんな結論は、書く前からわかっていた気もする。予定調和といってもいい。文中では「世界は“想定外”に満ちているから、やってみなければ結果はわからない」って強調しながら、書いているうちにたどり着いた結論は、“予定調和”的になってしまった。矛盾している気もするが、でもまあ、そんな小さなことを気にしていたら、人としての成長がなくなるので、ここは、前向きに考えることにする。――キューバでは、歌えるか、踊れるか、たたけるかが、男らしさの基準だし……。

 わが子をジャニーズに入れたいと思って教育しても、結局はオタクになってしまったりする。私だって、教育に関しては、まあ専門家なのだが、その私をしても、ジャニーズへの方略は立てられないのである。しかし、もし、それがわかっている人がいるならば、今からでも遅くないので私に教えて欲しい。できれば、こっそりと。


藤中隆久藤中隆久(ふじなか・たかひさ)

1961年 京都市伏見区生まれ 格闘家として育つ
いろいろあって1990年 京都教育大学大学院教育学研究科修了(教育学修士)
西にシフトして1996年 九州大学大学院教育学研究科博士後期課程修了
南に下りて1999年から 熊本大学教育学部 2015年から教授
6フィート2インチ
現在200ポンド:当時170ポンド(第四話「日々これ想定外(その弐)」を参照)

まちかど学問のすゝめ 其の五-B

《木立のカフェ》はヴァーチャルでリアルな喫茶店。マスターの村井俊哉さんが京都市内の喫茶店をぶらっと訪れて、お客さまと「こころとからだ」「文化・社会」について語り合います。

暗がりでの捜し物


● 村井俊哉:1966年生まれ、京都大学医学研究科精神医学教室教授
● 齋藤清二:1951年生まれ、立命館大学総合心理学部教授

常連さん
常連さん

今回は、2019年堀川今出川にオープンした tsubara cafe(つばらカフェ)にお邪魔しました。お客さまは近くにお住まいで、当サイトにエッセイを連載中の齋藤清二さんです。1803年創業の老舗「京菓匠 鶴屋吉信」プロデュースの「はんなり」茶寮で、和菓子とともに “まちかど学問”談義は心行くままに・・・。

tsubara cafe
▲庭に面して明るい tsubara cafe の特等席で

アンチテーゼのハイジャック?

村井俊哉
村井さん

今日は齋藤清二さんとの “まちかど学問” 談義を愉しみにしています。齋藤さんは医師でありながら、医療のあり方そのものを捉え直す営みを続けてこられているので、精神医学、精神科医療にもからめて面白い話ができそうです。
まずは齋藤さんといえば「ナラティブ」ということですね。

齋藤清二
齋藤さん

「ナラティブ」という視点はいまでこそさまざまな領域に浸透してきていますが、そもそもナラティブ・ベイスト・メディスン(NBM: narrative-based medicine)というムーブメントが出てきた背景を見ておきましょう。そこには、エビデンス・ベイスト・メディスン(EBM: evidence-based medicine)が世界中に広まって、それがちょっと広がり過ぎというか、行き過ぎている感じがあって、それに対するアンチテーゼという意味あいがあったんですね。
もともとNBMを生み出したトリシャ・グリーンハル(Trisha Greenhalgh)などは、英国でいちばん売れているEBMの本を書いている人です。彼は、どうもEBMが変な方向へ行っているので、それをちょっと補償しなくてはならんということで、ナラティブを強調したというのがあります。ちなみにそのグリーンハルさんはいま、NBMも一段落したので、またEBMのほうに戻っています。

村井俊哉
村井さん

なるほど。僕もEBMが最初に出たときはすごく面白く感じました。特に精神医学は、実証的な姿勢にアンチな人が圧倒的に多かったので、EBMが登場した頃には、そういう状況に一石を投じて引っくり返してやろう! というような過激な面がありましたね。

齋藤清二
齋藤さん

そうです、そうです。

村井俊哉
村井さん

過激な人は、過激なうちは面白いんですけどね。それで定職を得たりその道の権威となったり、というふうになってくると……。

齋藤清二
齋藤さん

実は、心理の世界でそのパロディみたいなものが起こっちゃっているわけです。一時期、医学におけるエビデンス・ベイストの思想みたいなのを心理の世界へ持ち込んで、しかも、それをかなり歪めた形で政治的に利用したというのがあります。

村井俊哉
村井さん

はい。

齋藤清二
齋藤さん

エビデンスの考え方を持ち込んだこと自体が悪いわけでもないんですけど、それがあまりにもひどい。
アメリカではある程度それが修正されるのですが、日本ではぜんぜん修正されない。それを、私は「『エビデンスに基づく実践』のハイジャックとその救出」という論文を書いて、半分冗談で『こころの科学』という本に載せたら、やっぱり一部の方が「我が意を得たり」ということで、「よく書いてくれました」というような反応がありました。
でも、その人たちの考え方も僕とは違う。要するに僕は、エビデンスが気に食わないわけでは全然ない。そこは非常に複雑な思いなんですね。

村井俊哉
村井さん

今みたいなことを言っていると、EBMに反対派の人が応援してくれることもありますが、そういうことではないと、そうした意見にもまた反論したくなってしまいますね(笑)。

齋藤清二
齋藤さん

どちらかというと極端な人が多いので、その人がバーンと場を読まない発言をすると、炎上したりとか……。実際にTwitterを見ていると、今でも、そういう案件はとても多いです。僕から見ていると、どちらもべつに間違ったことを言っているわけではないんだけれども、完璧にボタンの掛け違いになっちゃって、議論は噛み合わない。

村井俊哉
村井さん

冷静な議論にならないんですね。

齋藤清二
齋藤さん

臨床心理学なんかでは、それなりのバランスをとって、多少いろいろ言う人はいても、それぞれの言い分を、できるだけ誰をも圧迫せずに出してもらって、「じゃ、この目の前のクライエントにどうするか」というあたりで落としどころをつかんでいくということは、ある程度できそうな気はしているんですよね。そこに、議論をする場と信頼関係のある安全な場がないとだめなんですけれども、具体的に「この人に対してどうするか」という議論については、大体それなりのところに行くんですね。

村井俊哉
村井さん

なるほど。

齋藤清二(立命館大学総合心理学部教授)
▲「信頼関係のある安全な議論の場があれば…」と齋藤先生(左)

ひろがる暗い海と灯台

齋藤清二
齋藤さん

例えば「多元主義」という視点を村井さんは紹介されていますね。論理的な議論をしていると相容れないんだけれども、それは認めたうえで、どうやって実際にやることを調整していくか、みたいなところは大事なのではないでしょうか。

村井俊哉
村井さん

適材適所で最も優れた方法を使うべき、という「多元主義」は、実用的で優れた考えた方で私は共感しています。ただ、多元主義には一つ弱点があります。どういった時にどの方法が適材かを判断する際には、なんらかの基準が必要なわけですから、そうだとすると、多元的ではなくて、結局は一元的、ということになってしまうのです。だから多元「主義」というのは論理矛盾である、という見方もあるのです。
ただ、齋藤さんがおっしゃったようなプラクティカルという意味では、つまり、相容れない考え方もとりあえず両方置いておくというという意味では、多元主義はぴったりです。実は、先ほど言った論理矛盾のように見える点も私からすると矛盾ではない、と思っているんですけど。
ただ、それを理屈っぽく説明しちゃうと、聞いている人はしんどくなるので、とりあえず多元主義とは、「異なるものを仲良く同居させておいたらいいんだ」という考えです、と説明するようにしています。

齋藤清二
齋藤さん

普通「見解の相違」としてしか認識されないので、意見が一致しなくても、相矛盾していてもいいんだというように合意に持ち込むというのは、ひとつの有効な方法だと思うんですね。そうでないと、そこの議論だけで疲れ果ててしまう。

村井俊哉
村井さん

人間の心について私たちが手にしている知識は極めてわずかなことで、いってみれば「暗黒の海」のようなものです。先ほどのEBMですが、こうした暗黒の海のところどころにある灯台みたいなものだ。そういうイメージで考えればどうでしょうか。

齋藤清二
齋藤さん

はいはいはい。

村井俊哉
村井さん

その暗黒の海を、俺はこういうふうな航海術で行くとか、俺はこれで行くとか言って、まあどっちも、間違いか合っているかわからないけれども、やっているうちに、「ああ、こっちが正しかった」とわかる。そういうふうに考えれば、何の不思議もない。
ところが、サイエンスとはもっとプレサイス(precise)に物事を予測できるもの、たとえば物理学モデルのようなものだと私たちがイメージしてしまうと、異なる航海術をとる人の間で船出する前から喧嘩になってしまう。たとえば、「〇〇精神療法」と「△△精神療法」のどちらが科学的に優れているか、などと堅苦しい言葉で言っていても、どういうふうに言葉かけをしたら相手の人はちょっと元気になってくれるだろうか、といった、そういうことですものね。

齋藤清二
齋藤さん

うんうん。

村井俊哉
村井さん

そんなふうに試行錯誤でやっているわけです。そのときに、傾聴中心で行くのか、多少踏み込んでこちらも意見を述べるのか、どっちがいいんだと。こうしたことについてエビデンスをもとめて大規模な臨床試験に落としたところで、まあ出たとしても、「こういう研究の枠組みではこういう結果が出ましたよ」というだけのことですね。いまわれわれが航海しているか泳いでいる暗黒の「知識の海」みたいなイメージが、こうした結果を解釈する際のベースにあればと思います。

齋藤清二
齋藤さん

哲学というよりは、「一神教なのか多神論なのか」というような宗教的なメタファーのほうが近いような感じですね。ひとつの原理ですべてが終わっているのが一神教のイメージなんですけれども、いまの「知識の海」には、多神教的なイメージのほうが近いですよね。

村井俊哉
村井さん

多神教って、何か神さんがそこらじゅうにいるみたいですが、われわれが泳いでいる海というか、イメージというのは、その神様に滅多に出会えなくて……。たまに、お地蔵さんとかが助けてくれますが……またしばらくは、もう闇のなかで行かないとしゃあない。

齋藤清二
齋藤さん

だから臨床実践は、これはおそらく精神科でも身体科でも僕はあまり違わないように思うんです。「からだのことってスッキリわかっているけれども、こころは見えないからわからないんだ」という比喩を、心理の人はよく使われるんです。
けれども、僕は全然そう思っていなくて、「からだ」だってぜんぜんわかっていない。不確実で、複雑で、ぐじゃぐじゃしていて、予測してもそれは当たるかどうかもわからない。海の中を泳いでいるときに、まあちょっと確からしいぞというのが、こうポッと……灯台のように……。

村井俊哉
村井さん

確実に治る病気もときどきありますけど、本当にときどきであって。

齋藤清二
齋藤さん

はいはい。しかも、それは、どっちかというと、確実に治る病気って、ある意味、自然経過といいますか、待っていれば治るというほうが多いですよね。ある経過を邪魔しないでいれば。ところが、そのときに何か複雑なことがたぶん起こっている。例えば炎症なんかそうですよね。最初にばーっと浸出液が出て、好中球が走ってきて、そのあとフィブリンが出てくる。実は複雑なことなんだけれども、怪我をしたところが、二日目には腫れるけれども、それがだんだん引いていって、一週間で治るというストーリーとして予測できるから、みんなびっくりしない。

村井俊哉
村井さん

そこで起こっているメカニズムを全部明らかにしようとすると、ものすごく大変なことなんだけれども、大雑把に言えば、ひとつの定型的なストーリーを利用しているからわれわれは医者をやっていけるので、それをしなかったら、もうドツボにはまるわけですよね。

齋藤清二
齋藤さん

そうです(笑)。

村井俊哉
村井さん

だから、すべて明らかにしないと医学はだめなんだとか、ちょっとでも不確実なことがあったらそれはだめなんだみたいなほうに行っちゃうと、むしろ、普通にやっていれば何とか泳ぎ着けるものが泳ぎ着けられなくなっちゃう。

齋藤清二
齋藤さん

そうですよね(笑)。

齋藤清二(立命館大学総合心理学部教授)
▲こころだけでなくからだも不確実…「自然経過」そのものが複雑

 

航海術のまえに

齋藤清二
齋藤さん

心理療法でもそうだと思います。冷静に見て行くと、だいたいどんな心理療法も、優秀なセラピストが丁寧にやっていれば、半分ぐらいの人は確実に良くなる。確実というか、半分ぐらいは良くなると。でも、そのうちの三割ぐらいは実は、何もしなくても良くなるという人で(笑)、誰がどうやっても良くならない人というのがやっぱり二、三割いる。そういうところはコンセンサスで、あとは、その時その時に、どのぐらい状況に合わせた何かができるかみたいなことです。
暗い海を泳いでいる感覚で臨むと、こういうことが全体として見えるわけですよね。にもかかわらず、「認知行動療法以外は心理療法ではない」と言う人もいれば、「認知行動療法は、あんなのわざわざ人間がやることではない」みたいなことを言う人もいます。これは、どう考えても不毛でしょう。その辺はもう少し全体像を、あまり先鋭的にではなく、「こんなものなんだよ」というのを示してあげないと、いちばん困るのは、これから学ぼうとしている学生さんだろうと思うんですよね。

村井俊哉
村井さん

下手をすると、全人的に見るというのと、科学でやるというのが対立しちゃって、せっかく全人的にといっても、またそれと何かが対立するみたいなことで、きりがないんですね。なので、最初から「多元的なんですよ」というのはひとつの方便かもしれません。結構「しょせん暗い海だから」みたいな見方がしっくりくるんじゃないかなという思いがあります。

齋藤清二
齋藤さん

海のたとえで行くと、共通部分というのは、どの流派の「航海術」を使うとしても、「船というもの」はこうやらんと動かんよ、ということですよね。

村井俊哉
村井さん

(笑)そうそうそう。そう。

齋藤清二
齋藤さん

でも、ときどき、船ってこうやらんと進まんよねというのと「逆」のことをやっている人が、たまに、いはりますよね。

村井俊哉
村井さん

たまに、いはりますね。たぶんその「航海術」の流派の違いというものは、ある種の気象条件のときはある航海術でうまく乗り切れて、別の条件のときは別の流派の航海術が危機を乗り越える。でも、どの条件のときにどっちの流派で対応するかというところまでは正確にわかっていないので、たまたま今日の天候はこうだったので、日本流のチームがヨットのレースで勝ったけれども、今回の条件を日本の航海のあれにはもうちょっと合っていなかったかなというのはよく言うような感じなんですかね? それで、ところどころに目印になるような灯台みたいなものがあったりとかする。でも、そうは言っても、何遍やっても圧倒的な差があってオーストラリアチームが勝つ。その航海術が世の中を席巻する。そういうことが医療でもあります。

齋藤清二
齋藤さん

これもメタファーですけれども、ソリの競技でワックスを間違えると、全然だめ、ものすごく実力のあるところでも、ワックスを塗り間違えると全然だめになっちゃうみたいなことってありますよね? たかがワックスなわけですね。だけど、やっぱりそういう小さいディテールが非常に結果を左右することはある。
けれども、そこばっかりに注目してしまえば、それでは、じゃあ、ソリの競技はワックスだけで成り立っているのかという話になっちゃうわけです(笑)。精神療法の技法ってそれみたいなものですよね。「確かに、それはそれで大事なんですが、まずそもそもやっぱりその基本技術があるか、という……」(笑)。ソリになってさえいないようなものに、いくらワックスを投じたってだめなので。

村井俊哉
村井さん

ちょっと研究の話に戻るんですけれども、その根本になっているところって、実証的なデザインがつくりにくいんですよね。基本になっているところが共通だからこそ、細かいところの実証デザインができるので。
ただ、どうしても医学全体の問題として「疾患があって、それを診断して、治療という介入を課す」というパラダイムがある。ところが、実際には、何かよくわからないけれども、「一緒にいたら治る」ということがあったりするわけですね。それって、非常に「デザイン」にしにくいですね。
なのにどうしても、やりやすいところのことが目立つし、評価される。いわゆる「夜の駐車場で落とし物をしたときに、街灯のあるところだけを捜す」ということですよね。

齋藤清二
齋藤さん

ああ、そうです。わかりやすい。

村井俊哉
村井さん

明るいところだけを捜しているということをやっているということは、自分ではわからないから、なんで暗いところを捜さないの? という話なんだけれども、しかし……明かりがないから捜せないんですね。
齋藤さんたちのされている分野もそうですし、僕らのところでもそうですけれども、精神医学は重症でない精神疾患といわれている気分障害とかはもう、「医療モデル」以外のモデルで社会が扱ったほうがトータルとしていいかもしれない、という考えさえ可能なわけです。
僕自身は医学の側の人間なので、医学モデルで扱うことを当然というふうに普段は語っているわけですが、そうした考え方に問題があるかないかということは、医学モデルのなかでやっている研究デザインのなかでは出てこないわけです。

齋藤清二
齋藤さん

はい、そのとおりなんです。ただ、自分にとっては耳の痛い話なので、あえてそういう発想をするためには、どうしても、ちょっと荒療治といいますか、外からの、あるいは、人類学的な視点とか、そういうものがないと、やっぱりそういう発想ってそもそも出てこないんですね。

村井俊哉
村井さん

ええ、うん。

村井先生
▲「夜の駐車場で落とし物をしたときに、街灯のあるところだけを捜す」になってしまいがちだと村井先生

 

耳が痛いほうに耳を傾ける

齋藤清二
齋藤さん

「だから、「医療がむしろ病気をつくっているんじゃないか」という発想は、反精神医学とかいうことではなくて、常に考えていなければいけないことだと思っています。

村井俊哉
村井さん

僕は今でもすごく残念なのですが、反精神医学って、今日非常に評判が悪いんですね。昔は評判が良かったんですけど……。そういう時代に正統な精神医学の側にいて苦労した人たちは、反精神医学のことを黒歴史として全否定するわけです。

齋藤清二
齋藤さん

なるほど、なるほど。

村井俊哉
村井さん

ただ、そういう時代に苦労した先輩が反精神医学のことをそのように言うのを、下の世代の人が、単純に受け売りで、けなしている場面をみることがあるんです。やっぱり自分で一度ちゃんと考えたほうがいいですね。自分でそれなりに考えると、そう簡単に論破できない話って、結構あるんです。

齋藤清二
齋藤さん

はい、はい、はい、はい。

村井俊哉
村井さん

鵜呑みにしてやっているのはリスキーです。そういう、人の話を鵜呑みにしてずっとやってきた人って、人生のあるときに、たとえばプロモーションがうまくいかなかったとか、家庭で辛いことがあったとか、何か自分の人生の危機に遭ったとき、突然、反医学とか、反精神医学とか、あるいはスピリチュアルやオカルトに唐突に向かうんですよ。
反精神医学やスピリチュアルが悪いということではなくて、唐突に大きくぶれてしまうことが何かおかしいと思うわけです。若いときに、ちゃんと自分自身で両方考えて、「こういうよい面もあるいけれどもこういう問題もある」といったことを考えた経験のある人は、のちに人生の危機にあったとしても、唐突に大きくぶれることはありません。

齋藤清二
齋藤さん

メタで考えている限りはぶれないですよね。なるほど、やっぱり免許を持っている者がそういうことを言い出すと、周りに対する害が大きいですね。
私が今所属している学部ですと、人類学とか社会学との教員を採用していますし、そこである意味「反-心理学」風の話も、学生は聴く機会があります。教えている方々が「反-心理学」なわけではないのですが、考え方としては、いわゆる批判理論みたいなものがしっかり学べるので、まあある意味、そういうのはいいと思うんですね。

村井俊哉
村井さん

いいですね。耳が痛いものを排除しちゃうと、あとが逆に危ない。

齋藤清二
齋藤さん

純粋培養では、しっぺ返しが怖いですものね。

村井先生と齋藤先生
▲本来は複雑な臨床の現場をいかに若い臨床者たちに伝えていくか……熱く語り合う

マスター:村井俊哉(むらい・としや)

1966年生まれ、京都大学医学研究科精神医学教室教授
最新著書『統合失調症』(岩波文庫 2019年)
●京都大学医学部附属病院 精神科神経科 公式サイト
https://www.kuhp.kyoto-u.ac.jp/~psychiat/


お客さま:齋藤清二(さいとう・せいじ)

1951年生まれ、立命館大学総合心理学部教授
新潟大学医学部医学科卒。英国セントメリー病院医科大学研究員、富山医科薬科大学第3内科助教授、富山大学保健管理センター長・教授などを経て、2015年より現職
最新共訳書『ナラティブ・メディスンの原理と実践』(北大路書房 2019年)
●当サイトにて、リレーエッセイ《こころとからだの交差点》連載中!
第二話 こころとからだの関係
第五話 誰が《心身症》をコロしたのか?

(2020年3月10日掲載)


■協力 カフェ:tsubara cafe(つばらカフェ) /取材:木立の文庫 編集部