精神医学では古くから《身体論 vs 精神論》論争がありますが、実は、その論点よりもさらに本丸のところにある論点が、《反知性主義 vs 教養主義》というようにも思えてきました。
反知性主義は「教養主義 = elitism と権力の結びつき」を批判しますが、精神医学における権力のサイドが精神論者側から身体論者へと移行した歴史のなかで、精神論者の言説のトーンは「教養主義から反知性主義へと転じた」のではないか?
一方で、身体論者の言説には、その逆のことが起こったのではないか、とかいったことを考えました。
この傘の中心から少し外れたあたりに乗っかっているのが、常識的価値観で、そこでは「ハッピーでいたい」「元気でいたい」「Quality of Lifeを高めたい」という常識的リカバリーという話になる。
ところが、その外側にもいろいろなものがあって、たとえば「自分の人生、艱難辛苦の繰り返しで幸せなことなどほとんど記憶にないが、でもこれが最良の人生だったのだ」というような振り返りも含め、傘の外のほうが広がっている、そんなイメージですね。
この連載では、従来の“ひきこもり”に関する理解やその対処法を中心にとりあげつつ、私たちが余儀なくされている「コロナ自粛」のなかで心身の健康を保つコツに関しても、適宜ふれてゆきたいと思います。“ひきこもり”への理解を深めて、未曾有の「みんなのひきこもり時代」を生き延びるための術を身につけてゆきましょう!
私の好きな精神分析家に英国で小児科臨床も実践していたドナルド・ウィニコットという人物がいます。そのウィニコットは ‘capacity to be alone’ という言葉を後世に残しました。日本語では「ひとりでいられる能力」と訳されることが多いのですが、ここでは敢えて「ひきこもる能力」と訳してみましょう。ウィニコットはこの「ひきこもる能力」を得ることこそが、未来を創造的に生きるためには不可欠であると提唱しています。コロナ自粛による ‘stay at home’ の先に明るい未来が訪れることを信じて、いまこそ「ひきこもる能力」を得られる大事な時期と捉えて、この難局を乗り切りたいものです。
斎藤さんは、第五話で「それでは誰が心身症を弔うのか?」という問いを投げかけている。
私は“心身症”臨床の現状について、次のように考えている。“心身症”の概念は多義性であり、1991年の定義でいう狭義の心身症を実際に診ているのは、臓器別診療科のいわゆる身体科といえるだろう。1970年の定義でいう広義の心身症を診るのは、本来であれば、精神科であるが、心の問題や精神科への抵抗を示す患者の受け皿として心療内科が一定の役割を果たしているであろう。
そのうえで、次のような現象が起きていると考えている。それは、私が「心身医療と心療内科の捻れ現象」と呼ぶ現象である。それに向けて、まず私の立場をあらためて明確にする必要があるだろう。私は1991年に医師になり、同年に日本心身医学会に入会し、1970年の日本精神身体医学会〔現: 日本心身医学会〕の“心身症”の定義に賛同し、心身医学運動として心身医療の実践を始めた。1996年に日本心身医学会の認定医試験を受けて、認定医となり、その後、専門医となった。1996年は、アレルギー科、リウマチ科、リハビリテーション科などとともに《心療内科》が新たに標榜診療科として認可された年であり、日本心療内科学会が設立した年でもあった。しかし私は次のような理由で、日本心療内科学会に入会していない。
その理由は「心身医療と心療内科の捻れ現象」という理解に至った私が心身医学運動として心身医療をおこなううえで《心療内科》という診療科に臨床的な矛盾を感じためである。もうひとつの理由は、私が心身医学の源流である“精神分析”の道に進むことを決意したことがある。
私にとって心身医学とは、すべての診療科において意味のある普遍的な医学モデルを提示する学問であり、心身医療とは、すべての診療科において、実践できる/実践すべき医療であった。少なくとも当時の私には、日本心身医学会の内科医のみが中心となった日本心療内科学会 Japanese Society of Psychosomatic Internal Medicineは、他の診療科の医師や他の職種が排除されているように見えていたし、心療内科の理念と心身医療の理念が捻れているように見えたのである。
磯野さんは、最近、新たに向き合った書物としてC・G・ユングの「分析心理学セミナー」を挙げて、そこに書かれている、アクティヴ・イマジネーション/能動的想像法とその例を示してくださった。ユングについては、私よりも斎藤さんの方が詳しいわけであるが、私にとっては、精神分析における自由連想法 free association methodとの類似点と相違点を考える機会になった。アクティヴ・イマジネーション法では、例えば、ヘビという姿が心に浮かんだら、ヘビに対して受身的に身を委ねて積極的に関わり、無意識との対話を重ねるようである。ユングが重視したのが普遍的な無意識 collective unconsciousであるのに対して、精神分析が重視しているのは被分析者の個人的な無意識 personal unconsciousであるという点が、アクティヴ・イマジネーション法と自由連想法の違いといえるだろう。普遍的無意識を重視しているという点で、文化人類学はユングの分析心理学と共通点があるのだろう。
ユングのアクティヴ・イマジネーション法に対して磯野さんが最初に連想したものが、シャーマンのおこなう呪術であるようである。磯野さんは、精神分析と呪術を分けるものは何か? と、新たな問いを私に投げかけている。この問いは、私にとってある意味で興味深い問いであった。