非常識らしさの発想(1)

“ここ”に居るのは君と僕(2018年11月9日)


藤中隆久藤中隆久(ふじなか・たかひさ)
1961年 京都市伏見区生まれ 格闘家として育つ
考えなおして1990年 京都教育大学大学院教育学研究科修了(教育学修士)
九州に渡り1996年 九州大学大学院教育学研究科博士後期課程修了
南下して1999年から熊本大学教育学部 2015年から教授
推定5.8フィート 154ポンド


 最近の大学入学試験は複雑で、いろんなタイプの試験が、年間に何度もある。僕も、試験監督やら、面接やら、会場警備やらを、訳もわからず言われるがままにやっている状態だ。それにしても、何でもやればいいってもんじゃないだろうと思う。適材適所という考えが大事だろう。僕が面接官をやることは「適材」を「適所」に配置しているとはいいがたい、と我ながら自信をもって断言できる。これが会場の警備ならば、僕もその適材性をいかんなく発揮して見せる自信はある。しかし、数々の自信はほとんど考慮されることもなく、毎年毎年、不適材な僕が、入試の面接という不適所な仕事を割り当てられているのだ。



「面接官に向いていない」という自信があるが、その自信はどこから来るのかといえば、僕は面接でいつも退屈するところにある。時には不快な気分にもなるからだ。受験生からすれば、面接官を退屈させようとか不快にさせようとかは、まったく思ってないはずだ。にもかかわらず僕は退屈になり不快感を感じているわけだから、面接官としての適性はないということだろう。

 ほとんどの受験生は、僕の質問に対して、待ってました! とばかりに、まるでお芝居の台詞をしゃべるように、スラスラとよどみなく答える。しかし、こんな絵に描いた餅のような答えをよどみなくスラスラと返された日には、まるで、僕との対話を全身全霊で拒否されているような気分になる。こんなやりとりを、何十人もの、ほほを染めた三つ編みの高校生と繰り返さなければならないわけだから、退屈になるのは当たり前ではないだろうか。

 この受験生たちは僕のことを「人格をもったひとりの人間」という風に想像してみたこともないのだろう。面接官が僕であれ、同僚Bであれ、同僚Cであれ、お芝居のように台詞をスラスラと答えるのだろう。どの試験官にでもお芝居のようにスラスラと同じ台詞を言うのなら、その場にいるのが僕である必然性はまったくない。いっそのこと、その場にボイスレコーダーでも置いて、それに向かって質問の答えを吹き込むよう指示してもいいのではないか、と思ってしまう。つまり、面接という場で僕は受験生から、人格をもったひとりの人間とはみられてはいなくて、ボイスレコーダーのような物とみられているのだ。人間を人間扱いせずに機械のように扱っている相手に対して、僕が不快を感じるのは、当たり前ではないだろうか。たとえ、相手が、ほほを染めた三つ編みの少女だったとしても。



 僕は面接の場で人間同士の会話をして、もっと受験生とわかりあいたいのだ。ふたりのあいだで会話を弾ませ、会話のクオリティを高めたいと願っているのだ。会話が弾んだ結果として、思わず受験生の肩をたたきながら《もう、君、合格!》という失言をする覚悟さえも、僕にはあるのだ。そんな失言をしてしまっても、きっと同僚Bが《いまのは冗談だからね》ととりなしてくれるはずだから大丈夫だろう、と高をくくってもいる。そんな面接ならば、退屈したり不快になったりはしないだろうと思う。

 お芝居のようによどみなくスラスラと答える面接戦略は、きっと、受験生が自分で考えてやっているわけではないだろう。受験生は高校や予備校で指導を受けて、訳もわからないままにやっているだけなのだろう。高校では面接のための想定問答集をつくり、想定問答どおりを面接の場でよどみなく演じるための訓練に余念がないのだろう。しかしながら、面接用の想定問答や訓練なんか、しないほうがいいと僕は思う。想定問答をつくったり訓練したりという戦略には、「真剣さが足らない」と感じられる。面接とは常に真剣勝負。だから、まったく準備などをせずに、想定問答もつくらずに、ぶっつけ本番で挑むべきなのだ。

 受験生からすれば、「ぶっつけ本番で面接を受けたりすると、落とされるんじゃないか」との心配があるのかもしれない。「ぶっつけ本番で面接を受けると、言葉に詰まったり沈黙してしまったりしてしまうんじゃないか」という不安があるのかもしれない、あるいは「間違ったことや言ってはいけないことを言ってしまう」という不安があるのかもしれない。しかし、詰まったり、沈黙したりするということは、つまり、いまここで一生懸命考えて、自分のなかにある“まだ言葉になっていない思い”と必死に格闘しながら、それを言葉にする努力をいまここでやっている、ということなのだ。“いまを真剣に生きる姿”を受験生が目の前で見せているわけだから、僕などは、詰まるたびに、沈黙するたびに、いまを真剣に生きている三つ編み少女の面接点を5点アップしてあげるつもりだ。

~次回に続く~

木立のカフェ OPEN!

煎りたて 挽きたて 淹れたての一杯(2018年9月3日)


talking with 村井俊哉氏(京都大学大学院医学研究科精神医学教室 教授)
cafe @ GROVING BASE(京都市下京区新町通松原下ル)

村井俊哉氏

村井俊哉
村井さん

《木立の文庫》サイト立ち上げにあたっての“カフェ”のオープンですね。《木立の文庫》全体もそうなんでしょうけど、このコーナーでも、半分バーチャルな「語り場」のようなコンセプトで、ゆったりした感じはするんだけど専門的な話もして、というようなレベルで皆さんと交われるといいですね。

常連さん
常連さん

その昔“カフェ”という場にはそんな時間が流れていましたね。どうということのない世間話もするんだけども、一杯のコーヒーで四時間粘って、日替わりの談義に花を咲かせて……という。

無目的で無計画に発想が交わる

村井俊哉
村井さん

今はそういう場がだんだん無くなってきています。なぜそうなってきたかというと、私のような精神科医療に携わる者も含めて「ひとのこころ」をあつかう分野で働く人、たとえば心理系の人が忙しくなってきて、漫然と語り合うなんていう暇がなくなったこと。それと、国の政策とかもあるんですけど、研究費を取ってミーティングをしてその報告書を書くというような「型にはまった」セッティングを守る必要が非常に大きくなってきたこと。

常連さん
常連さん

考えたりしゃべったりというのは、そういう「お膳立てされた」場所でやる。

村井俊哉
村井さん

そういう場所で、しかも最初に研究計画を出して、それを着々とやれというような……。要は、国の税金を使ってやっているので、そういう形になってきているのです。「単にしゃべる」ということがほとんどなくなっているんです。

常連さん
常連さん

そうなんですよね……いまの社会は。ただ話す、無目的で計画もなく、という場に餓えているような気がするのです。それもネット空間ではなくて……。

村井俊哉氏

村井俊哉
村井さん

昔はよくやっていたんですよね。僕が研修医に入った30年近く前の頃は、だいたいそんな感じで“カフェ”談義がありました。当時、有名な木村敏(きむら・びん)教授がいらっしゃって、先生を囲む読書会とかがあって、読書会自体でもフリーなディスカッションをするんですけど、その後に、木村先生もいらっしゃったと思いますし、若手だけだったこともあるのですが、すぐに居酒屋に飲みに行くということはなくて、コーヒーを飲みに行きました。僕もお酒を飲むのはすごく好きなんですけど、考えてみたら“カフェ”もすごく必要かな、と。そういう時間が今はなくなっていると思います。

常連さん
常連さん

飲み会には飲み会の役割がありますけど。

村井俊哉
村井さん

飲み会での話というのは、議論を深めるためというよりは、基本的には親睦を深めることが目的ですね。たとえば共同研究のネゴシエーションをしたり、仲良くなって次につなげるとかの目的であって、そこでもう一歩発想が湧くというようなことではない。

常連さん
常連さん

ゆるやかな勉強会といった場もありますが……。

村井俊哉
村井さん

勉強会とか研究会でも、だんだん時間が短くなると、フォーマットができちゃうんですよね。シンポジウムだと、一人20分話して最後に総合討論を20分とるとか、それではほとんど話はできないですよね。なので、そもそも総合討論で何を話すかについて、前もってお約束ができていたりということがあるんです。

村井俊哉氏

村井俊哉
村井さん

こういう場があったらいいかなと、ずっと思っていました。皆さんに体験してもらうのは《木立の文庫》Web Baseだけど、僕たちは実際にカフェに来て話をするというのがいいと思います。

常連さん
常連さん

そうですね。ウェブサイト用に書いてバーチャルにカフェっぽく演出するという手もありかもしれないですけど、そうではなく、現実のカフェという時間・空間でリアルに話す。

村井俊哉
村井さん

そういうコンセプトで、僕がしゃべらせてもらったり、あるいは別の方に来てもらったり、一緒に話したり、いろんな形がとれますよね。三、四人で話すこともできる。

常連さん
常連さん

いいですね。ところ変わればテーマも変わる。

村井俊哉
村井さん

今日は「カフェ」そのものがテーマですけど、何とでもできる。たぶん呼ぶ人によって自然に出てくると思うんですね。テーマなんて、話しているうちに多少動いてもいい。それがやっぱり“カフェ”の良さだと思うので……。

現場と学問のあいだからの発信

村井俊哉
村井さん

こうしたコンセプトの“カフェ”があったらいいかな、と思っていたのには二つの理由があります。ひとつは、僕らのやっている分野では、普通の医者とか心理臨床家とかが、現場で頑張って仕事しているんですけど、本格的な学問というよりは、やや素人的な学問をしている、という点です。

常連さん
常連さん

ん? 素人的……?

村井俊哉氏

村井俊哉
村井さん

歴史学とか哲学とかでは、本格的に文献をきっちり押さえて決まった作法でものを言う、決して単なる個人のオピニオンではない本来の学問です。そういうものはカフェで話すよりもむしろ研究室で考えたほうがいい。それと較べると、われわれの学問というのは、素人ではないけれども半分素人みたいなところがあるんです。われわれの業界にも非常に人気のある中井久夫(なかい・ひさお)先生のようなカリスマ的な人たちがおられます。こうした人たちの書いたものに、私も皆さんも非常に感銘を受けるかもしれませんが、それらが学問のフォーマットを完全に整えた学術論文かというと、そうではない。でも、それがやはり必要で、現場と学問の中間ぐらいのところからの発信は非常に大事なんです。それを容れていくようなフォーマットとして、“カフェ”というセッティングは非常にいいのではないかと思います。

常連さん
常連さん

そうか。そういう発想・発信には、パソコンに向かう部屋ではなく、“カフェ”での語りあいのシーンがお似合いということですね。

村井俊哉
村井さん

そういう意味で、このスタイルがいいのではないかと思ったんです。もうひとついいなと思うのは、いま僕らがいる場所です。京都人は京都をほめ過ぎるから鬱陶しがられるんですけど、やはり今日だってこの〈GROVING BASE〉という空間がいいので、発想が湧いてくる。これが仮に京都以外の場所からの発信だとしたら、ネットでのバーチャルな意見交換でもいいかもしれないですね。せっかく京都から発信するので、ここに限らずいろんなリアルな“カフェ”から発信したほうがいいのかなと。

常連さん
常連さん

そのほうが等身大で体温のある話を交わせそうな……。

木立のカフェ1

常連さん
常連さん

このたび《木立の文庫》発足にあたっての“カフェ”開店ということですが、そもそも《木立の文庫》そのものにもそういうイメージを抱いています。いろんな植生があって動物がいるなか、いろんなものたちが集まってくる。おのおのの「多様な個」が立っているなかで、それぞれが影響しあって、たえず変化しながら場がつくられていく。そこには小川も流れているかもしれないし、虫が飛んでくるかもしれない……そういうリアルな「場」感覚というのが、“カフェ”にとてもマッチしているような気がします。

村井俊哉
村井さん

確かにそうですね、木立と個立ち。それと、もうひとつの“カフェ”の良さとしては、合宿しているわけではないので自由に出入りが許される、というところがありますね。徹底討論となるとちょっとしんどいですが、変化が許される“カフェ”では、今おっしゃったように個が立って……。

常連さん
常連さん

一人抜けてもいいし。

村井俊哉
村井さん

また、別の場所に帰って仕事をするわけで……。

常連さん
常連さん

そうですね。いっとき集まっては帰っていく。

“木立のカフェ” 次回は11月
(案内ご希望は当サイト【お問い合わせ】まで…!)


■協力 カフェ:GROVING BASE/取材:伊藤洋子・小林依里子/編集:Office Hi