まちかど学問のすゝめ 其の八(後編)

《木立のカフェ》はヴァーチャルでリアルな喫茶店。マスターの村井俊哉さんが京都市内の喫茶店をぶらっと訪れて、お客さまと「こころとからだ」「文化・社会」について語り合います。

そうは言っても…やはり教養は必要?

● 村井俊哉:1966年生まれ、京都大学医学研究科精神医学教室教授
● 深尾憲二朗:1966年生まれ、帝塚山学院大学人間科学部心理学科教授
● 常連さん:1967年生まれ、勤務編集者を経て、出版プランナー

常連さん
常連さん

木立のカフェは今回もオンライン・トークです。この動画は”まちかど学問のすヽめ 其の八(前編)「教養って…本当に必要?」”の続きです。
〇大きな革命を起こした「三つの思想」
〇「ふたつの反知性主義」を見すえて

などなど、前半に引き続き議論が深まっていきます。 前編と同様、お客さまに深尾憲二朗さんをお招きしています。 さて、どんなカフェタイムを皆様とご一緒できますでしょうか…!


マスター:村井俊哉(むらい・としや)


お客さま:深尾憲二朗(ふかお・けんじろう)

1966年生まれ、京都大学大学院医学研究科講師を経て、帝塚山学院大学人間科学部心理学科教授 専門は、臨床精神医学、臨床てんかん学、精神病理学 著書に『思春期:少年・少女の不思議のこころ』(ミネルヴァ書房 2018年)、『精神病理学の基本問題』(日本評論社 2017年)のほか、村井俊哉・野間俊一との共編著に『精神医学へのいざない:脳・こころ・社会のインターフェイス』(創元社 2012年)、『精神医学の広がり:拡張するフィールド』(創元社 2013年)、『精神医学のおくゆき:深化するパラダイム』(創元社 2015年)がある


■編集協力:越川陽介(こしかわ・ようすけ) 関西医科大学精神神経科学教室研究員、臨床心理士・医学博士( “木立の文庫”企画広報フェロー)

まちかど学問のすゝめ 其の八(前編)

《木立のカフェ》はヴァーチャルでリアルな喫茶店。マスターの村井俊哉さんが京都市内の喫茶店をぶらっと訪れて、お客さまと「こころとからだ」「文化・社会」について語り合います。

教養って…本当に必要?

● 村井俊哉:1966年生まれ、京都大学医学研究科精神医学教室教授
● 深尾憲二朗:1966年生まれ、帝塚山学院大学人間科学部心理学科教授
● 常連さん:1967年生まれ、勤務編集者を経て、出版プランナー

常連さん
常連さん

まだまだ息の詰まる日々が続きますが、皆様はどんなところに「しゃべり場」をお見つけでしょうか? 木立のカフェは、今回もオンラインで「おしゃべり」しました。
前回の“教養”をめぐるトークのあと、マスターの村井俊哉さんから次のような話題提供がありました。

村井俊哉
村井さん

精神医学では古くから《身体論 vs 精神論》論争がありますが、実は、その論点よりもさらに本丸のところにある論点が、《反知性主義 vs 教養主義》というようにも思えてきました。
反知性主義は「教養主義 = elitism と権力の結びつき」を批判しますが、精神医学における権力のサイドが精神論者側から身体論者へと移行した歴史のなかで、精神論者の言説のトーンは「教養主義から反知性主義へと転じた」のではないか?
一方で、身体論者の言説には、その逆のことが起こったのではないか、とかいったことを考えました。

常連さん
常連さん

頭のゆったり出来ているカフェ常連としては「歯ごたえたっぷり」そうな話題に不安はありましたが、身体論/精神論には興味もあってワクワクと臨みました。
前回と同様、お客さまに深尾憲二朗さんをお招きしています。さてさて、どんなカフェタイムを皆様とご一緒できますでしょうか……!


マスター:村井俊哉(むらい・としや)


お客さま:深尾憲二朗(ふかお・けんじろう)

1966年生まれ、京都大学大学院医学研究科講師を経て、帝塚山学院大学人間科学部心理学科教授
専門は、臨床精神医学、臨床てんかん学、精神病理学
著書に『思春期:少年・少女の不思議のこころ』(ミネルヴァ書房 2018年)、『精神病理学の基本問題』(日本評論社 2017年)のほか、村井俊哉・野間俊一との共編著に『精神医学へのいざない:脳・こころ・社会のインターフェイス』(創元社 2012年)、『精神医学の広がり:拡張するフィールド』(創元社 2013年)、『精神医学のおくゆき:深化するパラダイム』(創元社 2015年)がある


■編集協力:越川陽介(こしかわ・ようすけ)
関西医科大学精神神経科学教室研究員、臨床心理士・医学博士( “木立の文庫”企画広報フェロー)

まちかど学問のすゝめ 其の七(前編)

《木立のカフェ》はヴァーチャルでリアルな喫茶店。マスターの村井俊哉さんが京都市内の喫茶店をぶらっと訪れて、お客さまと「こころとからだ」「文化・社会」について語り合います。

精神科医と教養

● 村井俊哉:1966年生まれ、京都大学医学研究科精神医学教室教授
● 深尾憲二朗:1966年生まれ、帝塚山学院大学人間科学部心理学科教授
● 常連さん:1967年生まれ、勤務編集者を経て、出版プランナー

常連さん
常連さん

コロナで始まりコロナで終わる2020年の年末となりました。
今回の“まちかど学問”はオンライン・カフェトークとなります。秋の昼さがりのzoom映像を前編/後編2回にわたってお届けします。前編は約40分。ゆったり談義にどうぞお付き合いください。
お客様は深尾憲二朗さんです。さてさて、どんなカフェタイムとなったのでしょうか。

〜後編もお楽しみに〜


マスター:村井俊哉(むらい・としや)


お客さま:深尾憲二朗(ふかお・けんじろう)

1966年生まれ、京都大学大学院医学研究科講師を経て、帝塚山学院大学人間科学部心理学科教授
専門は、臨床精神医学、臨床てんかん学、精神病理学
著書に『思春期 −少年・少女の不思議のこころ−』(ミネルヴァ書房 2018年)、『精神病理学の基本問題』(日本評論社 2017年)のほか、村井俊哉・野間俊一との共編著に『精神医学へのいざない 脳・こころ・社会のインターフェイス』(創元社 2012年)、『精神医学の広がり 拡張するフィールド』(創元社 2013年)、『精神医学のおくゆき 深化するパラダイム』(創元社 2015年)がある


■編集協力:越川陽介(こしかわ・ようすけ)
関西医科大学精神神経科学教室研究員、臨床心理士・医学博士( “木立の文庫”編集広報フェロー)

まちかど学問のすゝめ 其の七

《木立のカフェ》はヴァーチャルでリアルな喫茶店。マスターの村井俊哉さんが京都市内の喫茶店をぶらっと訪れて、お客さまと「こころとからだ」「文化・社会」について語り合います。

精神科医と教養(前)

● 常連さん:1967年生まれ、勤務編集者を経て、出版プランナー
● 村井俊哉:1966年生まれ、京都大学医学研究科精神医学教室教授
● 深尾憲二郎:1966年生まれ、帝塚山学院大学人間科学部心理学科 教授、医学博士、日本精神神経学会認定精神科専門医、専門は、臨床精神医学、臨床てんかん学、精神病理学

著書に『思春期 −少年・少女の不思議のこころ−』(ミネルヴァ書房 2018年)『精神病理学の基本問題』(日本評論社 2017年)など、村井俊哉氏との共著『精神医学へのいざない 脳・こころ・社会のインターフェイス』(創元社 2012年)

常連さん
常連さん

コロナ禍の2020年の年末となりました。今回の木立のカフェは、マスター村井さんの提案で初のリモートでの開催となりました。そこでリモート当日の映像を前後編2回にわたってお届けします。お客様は深尾憲二郎さんです。さてさて、どんなお茶の時間となったのでしょうか。
前編の映像は約40分。少し時間がかかりますが、何卒ご容赦の程を。

まちかど学問のすゝめ 其の六

《木立のカフェ》はヴァーチャルでリアルな喫茶店。マスターの村井俊哉さんが京都市内の喫茶店をぶらっと訪れて、お客さまと「こころとからだ」「文化・社会」について語り合います。

広大で肥沃なマージナル領野


● 村井俊哉:1966年生まれ、京都大学医学研究科精神医学教室教授
● 東畑開人:1983年生まれ、十文字学園女子大学准教授

常連さん
常連さん

今回は、伏見区の龍谷大学深草キャンパスに「にわかカフェ」が急設されました。お客さまは、『居るのはつらいよ』などの著書で人気を博す東畑開人さんです。わたしは十数年まえ彼としょっちゅう「おでん屋さん」談義をしていましたが、カフェ談義は初めてです。素面の開人ップに興味津々です。――それから今日は……木立の文庫さんのインターン・スタッフの姿も。この談義のあとに、とっておきのパフォーマンスを見せてくれるそうです!

東畑開人
▲「文化と心理療法」を考える、その前に
村井俊哉
村井さん

はじめまして。

東畑開人
東畑さん

はい。はじめまして、ですね……。お話しできて光栄です。

村井俊哉
村井さん

今回は私が大会長をつとめます第26回「多文化間精神医学会」学術総会で東畑さんが「文化と心理療法」という教育講演をしてくださるということで、その前の時間をカフェ・ブレイクに設定させてもらいました。

東畑開人
東畑さん

ありがとうございます。じつはこの学会には沖縄にいた頃から所属しておりまして、刺激を受けてきました。

村井先生
▲オルタナティブのスライディング・スケール

どこに立って「もうひとつの声」を聴く?

村井俊哉
村井さん

東畑さんの本、読ませてもらいましたよ。社会のなかでの”ケア”ということを改めて考えてみるきっかけになりました。「真ん中と周縁」「既存のオフィシャルなものとそれに替わるオルタナティヴなもの」という視点が参照項になりますね。

東畑開人
東畑さん

“心をいかに見るか”をめぐっての、真ん中と周縁ですね。精神医学って、かなり早い段階から、オルタナティヴなものと戦ってきたと思うんです。いかにオルタナティヴなものを制圧して、公的なものを確立するかが大事なテーマでした。これに対して、臨床心理学というのは、河合隼雄先生がそうですけれども、オルタナティヴなものを引き受けようとしてきました。

村井俊哉
村井さん

そうですね、そうですね。

東畑開人
東畑さん

そういう大きな流れがある。ただしこの十年は臨床心理学も、オルタナティヴなものではなくて、オフィシャルなものとしてやっていくことを引き受けようとしてきました。公認心理師法の成立はその象徴ですね。
だけど、心を扱おうとするときには、どうしてもオフィシャルなものの見方だけでは限界があるように思います。というのも、心の問題を抱えている人のなかには、オフィシャルな生き方に傷ついたり、ついていけなくなって、オルタナティヴな生き方を必要とすることがあるからです。
あるいは、こうも言えるかもしれません。心理学とは心のなかのオフィシャルな声だけではなく、オルタナティヴな声に耳を傾け、その二つを調整する仕事でもあります。どうしても、周縁の世界へと開かれている必要がある仕事だと思うんですね。

村井俊哉
村井さん

精神医学にもそうした側面はあって、精神科は八割ぐらいがおそらく本流で、二割ぐらいがオルタナティヴなのではないでしょうか。つまり、精神医学にも、いくつかの新しい手法というかオルタナティヴなスタンスが採り入れられているのですが、それは東畑さんが言われる「ケア」ですよね?
それはそれで、精神医学のなかにしっかりあるべきだと思っています。ただ、そうしたオルタナティヴな側面を、本流としての医療のなかに無理矢理に位置づける、というのではなく……。

東畑開人
東畑さん

なるほど。

村井俊哉
村井さん

せっかくオルタナティヴの良さがあるのに、大規模臨床試験で薬物療法とその効果を比較してみたり、脳画像でその証拠らしきものを見せてみたり、無理矢理にサイエンスのフォーマットに乗せようとすることはないように思うんですよね。そういう意味では、臨床心理学にもやっぱり同じような構図があるのかな?と思うんです。本流とオルタナティヴという……。

東畑開人
東畑さん

確かに。

村井俊哉
村井さん

ただ、その割合が、オルタナティヴのほうが多いんじゃないかな。「主たる活動の場は外にある」という位置づけはどうですか?

東畑開人
東畑さん

精神医学にせよ心理学にせよ、つまりニコラス・ローズのいう‘Psy’の学問は、オルタナティヴなものがオフィシャルなものになろうと、闘争し運動するカルチャ―だと思うんですね。それは歴史上繰り返されてきたことです。というのも、僕らの仕事は半分は科学と面を接していて、もう半分は宗教と接しているからです。脳と霊の間に、心があると言ってもいいかもしれません。
ただ、その中間というのは、居心地が悪いものだと思うんです。そして、そこに居直ってしまうと、カルトのように閉じられたものになりがちだという事情もあります。中間性というのはクリエイティヴであるということでもあるはずですけど、それを維持するためには絶えず闘争しなきゃいけないということかもしれませんね。

村井俊哉
村井さん

ただ、そのカルトとかの「真のオルタナティヴ」の人は、正統「に対する」オルタナティヴという自覚がないのではないんじゃないですか? 自分たちの「正統に対する位置づけ」を自覚したオルタナティヴというのは、そんな不健全にはならないような気はするんですけど。

東畑開人
東畑さん

本当はそうだと思います。だけど、「オルタナティヴです」というアイデンティティにはなかなか安定性がないのかもしれないですね。代替療法とかはどうなんでしょう?

村井俊哉
村井さん

その代替療法もそうです。主流にとって代わろうとすると、それは医療制度のなかで活動することになるので、規制も罰則もとても厳しい。オルタナティヴというのは規制がもっと緩くて、もっと自由にやれるものでいいのではないでしょうか? 緩やかで広い基準でやっている人が、無理に厳しい基準に自分を合わせようとすると、非常に窮屈で、時にはとても滑稽なことになる。
もちろん、オルタナティヴといっても、何の基準も無いということではなくて、そこには普通の意味での「常識」とか、そういう広い基準がありますよね?

東畑開人
東畑さん

はい、コモンセンスがあって……。

村井俊哉
村井さん

良心とか……。逆に言うと、そういうちょっと広めの基準を想定すれば、デイケアでのケアなどの定義や概念もできそうな気がします。

東畑開人
東畑さん

オフィシャルなものの管理には服さないけれども、社会性を失わない良識はある。多分、それを支えるのが、広い意味での人文社会科学の感性なのだと思うんですね。コモンセンスと批判精神を宿した自己技術みたいなものとしての「学問」が、人間の生き方の多様性を包摂するために必要なのではないかということですね。

村井俊哉
村井さん

基準の狭い/広い、厳しい/緩いには、スライディング・スケールみたいなところがありますよね。たとえば医学という枠組のなかでも、精神科医が精神療法とか薬物療法を行う場合よりも、もって侵襲的な外科治療のほうがより厳しいですよね。そういうふうなスケールがあって、その裾野のもう少し緩いところに、おそらく、広い意味での心理療法とか、そういうものもある。ただし「何でもありではない」というように位置づけられないでしょうか。

東畑開人
東畑さん

なるほど。

村井俊哉
村井さん

そういう心理療法へのニーズって、非常に大きいように思います。そこに「エビデンス」ということを無理に持ち出して、スライディング・スケールの狭いほうを目指さなくてもよいような気がするのですが……。

東畑先生
▲「はみ出る」部分は社会的な文脈によって……。

怪しげなものと 常識的なもの

東畑開人
東畑さん

そうした「枠組」間の移動めぐる話は、精神科医療にもありそうですね。

村井俊哉
村井さん

そうですね。たとえばアメリカでは、いわゆるサイカイアトリー(psychiatry)と、ビヘイヴィアル・ヘルス(behavioral health)というのは、基本的には分かれてきています。よい睡眠を確保して健康的な食事を摂って運動をすればいい、という常識的な意味での「心の健康」と精神医学は、分けておかないと、話がごちゃごちゃになります。ビヘイヴィアル・ヘルスにはものすごく広がりがありますから。
たぶん同じことが、臨床心理の専門家が患者さんに接するときに、起こっているのではないですか? 本当に強い専門性を要する、つまり医療と重なり合うような面と、そうではなくて、非常に広い意味での「心のビヘイヴィアル・ヘルス」を扱う面が、あるのではないかと思うんですね。

東畑開人
東畑さん

はいはい、はいはい、はいはい。

村井俊哉
村井さん

日本の精神医学ではこのあたりがまだ十分に分けられていないところがあって、ついつい拡大路線をとってしまい、ビヘイヴィアル路線にどんどん踏み込んでしまう。例えば、ゲーム依存症が「病気」になり、そして、うつ病も、その裾野がどんどん広がっていきます。……こうした拡大路線の背後には、自分の業界の拡大したい、という無意識的なポリティカルな側面もあるのかもしれません。

東畑開人
東畑さん

確かに。

村井俊哉
村井さん

だけど、こうしたことは、概念的にはやはりどこかおかしいのではと思っているわけです。

東畑開人
東畑さん

心の治療におけるオフィシャルとオルタナティヴの分別にはどうしてもポリティカルな側面があります。わかりやすいのが中国です。最近、Li Zhangの“Anxious China”という本を読んでいたんですが、心理療法は文化大革命のときには危険思想でしたが、経済開放が進んでいくと、オフィシャルなものとして認められ広がっていきます。社会がどうあるかが、心をめぐる言説を深く規定しています。
もっと複雑なことに、オフィシャルとオルタナティヴの線引きは、臨床現場によっても異なります。たとえば、医療領域における価値は「健康」にありますが、教育領域では「成長」という価値が入ってきますね。心をめぐる知の“はみ出る”部分は、マクロにもミクロにも社会的な文脈によって変わってくる……。

村井俊哉
村井さん

かつては精神医学の心の治療の中心から外れて“はみ出る”ものには、それこそカルトとか、若干怪しげなイメージがあったんだと思います。ところが最近では、ど真ん中の精神医学から外れるものの大半は、ビヘイヴィアル・ヘルスのみたいなことになってきていて、なんと、これは怪しげなところはまったくなくて、きわめて普通のことですよね? 逆に普通過ぎて、専門性を発揮できない可能性がある、という問題が残りそうですね。

東畑開人
東畑さん

ああ、そういうことですよね。うんうん、うん。

村井俊哉
村井さん

そう考えると、真ん中の精神医学はふたつの極と接しているように見えてきます。ひとつは「怪しげ」な極、もうひとつは「あまりにも常識的過ぎて専門家が必要でない」ような極。

東畑開人
東畑さん

ふたつ目の極というのはつまり“人生”というものと接しているようなところですよね。みんな人生を持っているわけだから、専門家の言っていることが「みんな言っていること」と変わらなくなっちゃう、という問題があります。この問題について、村井先生は「リカバリー1,2,3」というように書いておられます。

村井俊哉
村井さん

リカバリー1というのは医学的なものなので、そこでは完全に専門性が要求されます。その外側に書いたリカバリー2と3は、ほぼ一体化していて、数量化とかが難しいようなものを扱っているというふうに分けたんです。
その周縁部にはものすごく平凡なものが登場してくるのか? そうではなくて、非常識な楽しげなものがたくさん出てくるのか? 
どちらが出てくるかは、当時者の価値観によってくると思うんです。例えば、治療が難しい癌が見つかったときに登場してくるものは、「静かに人生の最期を考えつつ、いい人生を生きてきたという振り返り」であるかもしれませんし、一方で、「怪しげな代替療法に行く」ことになるかもしれません。そこの世界って、実は非常に広いですよね。

東畑開人
東畑さん

開業臨床をやっていると、取り扱っているメインの問題って、家族とうまくいかないとか、この仕事でいいんだろうかとか、ある意味で人生の問題です。
これって、医学的なリカバリーの課題ではないんだけれども、僕が仕事をしているときに、医学的な知識を使っていないかというとそうではなくて、精神病理を理解しようと努めています。ですから、調子を崩してきたら、医師にオファーもするわけですね。そこには重なりがあり、中間の領域があります。
ただ、難しいのは、オフィシャルとオルタナティヴの分別が公的資金を使うか否かと密接に結びついていることですね。本当はそこはあいまいなのだけど、お金が絡むことで、どうしても線を引かなきゃいけなくなります。

村井俊哉
村井さん

オルタナティヴというと、つい「奇妙な人たち」というようなイメージを持ってしまうんですけれども、オルタナティヴには、常識的すぎて面白くもなんともないものも含まれてきます。
でも、世の人の大半はそうした常識的な人たちなので、医療という枠組では、基本的には、まずは病気の治療ということを中心に考え、それにプラスして「常識的オルタナティヴ」にもそれなりの気配りをしていく。しかし医療と離れた営みでは、医療以上に、オルタナティヴの「広がり」にも対応できるという、そういう感じでしょうか。

東畑開人
東畑さん

そうなんですよね。人生や生き方は多様です。みんながど真ん中だけを生きているわけではない。というか、それぞれが個別にそれぞれの人生を生きるということが可能になったのが近代であり、それが心理学というものの前提条件です。
人々が共同性にのみ生きていた頃には、宗教がその役割を果たしていました。だから、オルタナティヴを扱うというのは、僕らの仕事の根底のところにある構えだと思うんですね。

村井俊哉
村井さん

医療の場合は、オルタナティヴなことを何も考えなくてよくて、基本的には、その病気を治せばいい。そんな中心軸の周辺に、人生の問題、というオルタナティヴの傘が広がっている、そんな感じでしょうか。

東畑開人
東畑さん

ああ、なるほど。

村井俊哉
村井さん

この傘の中心から少し外れたあたりに乗っかっているのが、常識的価値観で、そこでは「ハッピーでいたい」「元気でいたい」「Quality of Lifeを高めたい」という常識的リカバリーという話になる。
ところが、その外側にもいろいろなものがあって、たとえば「自分の人生、艱難辛苦の繰り返しで幸せなことなどほとんど記憶にないが、でもこれが最良の人生だったのだ」というような振り返りも含め、傘の外のほうが広がっている、そんなイメージですね。

東畑開人
東畑さん

はいはい、いや、そう思いますね。

村井先生
▲開いた傘にはゆるやかな曲線があらわれる

傘の突端と 縁(フチ)の間で……

村井俊哉
村井さん

こうした傘の外まわりのほうで、対人援助を行っていくには、知識や人生経験、さらに柔軟性が必要で、なかなか大変でしょうね?

東畑開人
東畑さん

たぶん、人文科学とか文学なんかも、この傘のところの話なんでしょうね。

村井俊哉
村井さん

ええ、ええ、そうですよね。傘の軸のところの医療や、その周辺でも、平凡で常識的なところをやっていたら、人文科学者や小説家にはなれない。そういう力がないなら、医学をやりなさいと。

東畑開人
東畑さん

なるほど。

村井俊哉
村井さん

オフィシャルな心理の資格をもちながら精神分析をするというのも、「傘」の譬え(たとえ)からみると、それはそれで自然なことになりますかね。

東畑開人
東畑さん

うんうん、非常に見晴らしが良くなりました。傘で頑張ろうと思いました(笑)。

村井俊哉
村井さん

傘で(笑)。

東畑開人
東畑さん

「傘型」人材なんですよ、なぜそうなってしまったのかわからないのですけど……(笑)

村井俊哉
村井さん

でも、大変ですよね、この傘ってね。大概。

東畑開人
東畑さん

先生がおっしゃっていましたけれども、やっぱり自由である分、権力性に乏しいということだと思うんですね。アジールは制度に対して距離をとる分、常に不安定です。そこを引き受けないといけない。

村井俊哉
村井さん

ええ、自由にやろうと思うとね。

東畑開人
東畑さん

そうですよね。いや、まあ社会ってそういうものですよね。

村井俊哉
村井さん

ええ、ええ。
この“まちかど学問”というカフェ企画を津田さんとしているのにも、そういう問題意識があるんです。精神医学にしても臨床心理にしても、非常に窮屈になってきているので、「傘の周り」あたりで語っていくような場をつくりたい。それで、オフィシャルではない場=カフェをこうして続けています。

東畑開人
東畑さん

なるほど、確かに。

村井俊哉
村井さん

素人として語ることが大事かな、なんて思うんですよね。

東畑開人
東畑さん

それは遊びの領域ですよね。遊びの必要がある……。

村井俊哉
村井さん

「必要がある」とまで言っちゃうと遊びではなくなるので。

東畑開人
東畑さん

(笑)

遊ぶ「余裕がある」という感じですね。

村井俊哉
村井さん

ええ、そうですね。どんどん遊びの余裕が減ってきているのは確かです。

東畑先生
▲生真面目と不真面目のはざまで
東畑開人
東畑さん

そういえば心理学は、ここ最近ものすごく真面目になってしまいました。

村井俊哉
村井さん

我々もそうです。かつて精神科には、医師免許を取ってみたものの、いろいろな意味ではぐれ者のような人が入局したものですが、最近はえらく生真面目なことになってしまって……。けれども、「遊び」が大事だからと真面目さを解体することもできませんし……、というか解体しないほうがいいと思うので……。

東畑開人
東畑さん

はい、危ないですよね(笑)。

村井俊哉
村井さん

不真面目なところを残すというか、ちゃんと育むみたいになったらいいなと思っています。

東畑開人
東畑さん

いやいや、本当に……。


マスター:村井俊哉(むらい・としや)


お客さま:東畑開人(とうはた・かいと)

1983年生まれ、十文字学園女子大学准教授。白金高輪カウンセリングルーム主宰。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程修了、博士(教育学)。精神科クリニック勤務を経て、現職。著書に『美と深層心理学』『野の医者は笑う』『日本のありふれた心理療法』など、『居るのはつらいよ』〔2019年〕で大佛次郎論壇賞を受賞。


常連さん
常連さん

いやいや、本当に……! いやいや、学会さんの場を借りたこともあってか……存外に生真面目ぽい談義になりましたねぇ。さて、凝縮したエネルギーを解放させて頂ければと思いまして、今日の収録を手伝ってくれた木立のホープさんに「ヨーヨー世界四位」の技をチラッと見せてもらいましょう!(常連の友だち家族から京都に預かった金の卵です)

木立のホープ:橋本向陽(はしもと・こうよう)

2000年生まれ、小学校5年生の時に流行していたヨーヨーを始める。
2018年、2019年には糸とヨーヨーが離れる4A(オフストリング)部門で世界大会4位になる。現在は、世界大会での優勝を目指しながら、競技ヨーヨーの普及のために、一般の人に向けてのパフォーマンスやティーチングもおこなっている。


まちかど学問のすゝめ 其の五-B

《木立のカフェ》はヴァーチャルでリアルな喫茶店。マスターの村井俊哉さんが京都市内の喫茶店をぶらっと訪れて、お客さまと「こころとからだ」「文化・社会」について語り合います。

暗がりでの捜し物


● 村井俊哉:1966年生まれ、京都大学医学研究科精神医学教室教授
● 齋藤清二:1951年生まれ、立命館大学総合心理学部教授

常連さん
常連さん

今回は、2019年堀川今出川にオープンした tsubara cafe(つばらカフェ)にお邪魔しました。お客さまは近くにお住まいで、当サイトにエッセイを連載中の齋藤清二さんです。1803年創業の老舗「京菓匠 鶴屋吉信」プロデュースの「はんなり」茶寮で、和菓子とともに “まちかど学問”談義は心行くままに・・・。

tsubara cafe
▲庭に面して明るい tsubara cafe の特等席で

アンチテーゼのハイジャック?

村井俊哉
村井さん

今日は齋藤清二さんとの “まちかど学問” 談義を愉しみにしています。齋藤さんは医師でありながら、医療のあり方そのものを捉え直す営みを続けてこられているので、精神医学、精神科医療にもからめて面白い話ができそうです。
まずは齋藤さんといえば「ナラティブ」ということですね。

齋藤清二
齋藤さん

「ナラティブ」という視点はいまでこそさまざまな領域に浸透してきていますが、そもそもナラティブ・ベイスト・メディスン(NBM: narrative-based medicine)というムーブメントが出てきた背景を見ておきましょう。そこには、エビデンス・ベイスト・メディスン(EBM: evidence-based medicine)が世界中に広まって、それがちょっと広がり過ぎというか、行き過ぎている感じがあって、それに対するアンチテーゼという意味あいがあったんですね。
もともとNBMを生み出したトリシャ・グリーンハル(Trisha Greenhalgh)などは、英国でいちばん売れているEBMの本を書いている人です。彼は、どうもEBMが変な方向へ行っているので、それをちょっと補償しなくてはならんということで、ナラティブを強調したというのがあります。ちなみにそのグリーンハルさんはいま、NBMも一段落したので、またEBMのほうに戻っています。

村井俊哉
村井さん

なるほど。僕もEBMが最初に出たときはすごく面白く感じました。特に精神医学は、実証的な姿勢にアンチな人が圧倒的に多かったので、EBMが登場した頃には、そういう状況に一石を投じて引っくり返してやろう! というような過激な面がありましたね。

齋藤清二
齋藤さん

そうです、そうです。

村井俊哉
村井さん

過激な人は、過激なうちは面白いんですけどね。それで定職を得たりその道の権威となったり、というふうになってくると……。

齋藤清二
齋藤さん

実は、心理の世界でそのパロディみたいなものが起こっちゃっているわけです。一時期、医学におけるエビデンス・ベイストの思想みたいなのを心理の世界へ持ち込んで、しかも、それをかなり歪めた形で政治的に利用したというのがあります。

村井俊哉
村井さん

はい。

齋藤清二
齋藤さん

エビデンスの考え方を持ち込んだこと自体が悪いわけでもないんですけど、それがあまりにもひどい。
アメリカではある程度それが修正されるのですが、日本ではぜんぜん修正されない。それを、私は「『エビデンスに基づく実践』のハイジャックとその救出」という論文を書いて、半分冗談で『こころの科学』という本に載せたら、やっぱり一部の方が「我が意を得たり」ということで、「よく書いてくれました」というような反応がありました。
でも、その人たちの考え方も僕とは違う。要するに僕は、エビデンスが気に食わないわけでは全然ない。そこは非常に複雑な思いなんですね。

村井俊哉
村井さん

今みたいなことを言っていると、EBMに反対派の人が応援してくれることもありますが、そういうことではないと、そうした意見にもまた反論したくなってしまいますね(笑)。

齋藤清二
齋藤さん

どちらかというと極端な人が多いので、その人がバーンと場を読まない発言をすると、炎上したりとか……。実際にTwitterを見ていると、今でも、そういう案件はとても多いです。僕から見ていると、どちらもべつに間違ったことを言っているわけではないんだけれども、完璧にボタンの掛け違いになっちゃって、議論は噛み合わない。

村井俊哉
村井さん

冷静な議論にならないんですね。

齋藤清二
齋藤さん

臨床心理学なんかでは、それなりのバランスをとって、多少いろいろ言う人はいても、それぞれの言い分を、できるだけ誰をも圧迫せずに出してもらって、「じゃ、この目の前のクライエントにどうするか」というあたりで落としどころをつかんでいくということは、ある程度できそうな気はしているんですよね。そこに、議論をする場と信頼関係のある安全な場がないとだめなんですけれども、具体的に「この人に対してどうするか」という議論については、大体それなりのところに行くんですね。

村井俊哉
村井さん

なるほど。

齋藤清二(立命館大学総合心理学部教授)
▲「信頼関係のある安全な議論の場があれば…」と齋藤先生(左)

ひろがる暗い海と灯台

齋藤清二
齋藤さん

例えば「多元主義」という視点を村井さんは紹介されていますね。論理的な議論をしていると相容れないんだけれども、それは認めたうえで、どうやって実際にやることを調整していくか、みたいなところは大事なのではないでしょうか。

村井俊哉
村井さん

適材適所で最も優れた方法を使うべき、という「多元主義」は、実用的で優れた考えた方で私は共感しています。ただ、多元主義には一つ弱点があります。どういった時にどの方法が適材かを判断する際には、なんらかの基準が必要なわけですから、そうだとすると、多元的ではなくて、結局は一元的、ということになってしまうのです。だから多元「主義」というのは論理矛盾である、という見方もあるのです。
ただ、齋藤さんがおっしゃったようなプラクティカルという意味では、つまり、相容れない考え方もとりあえず両方置いておくというという意味では、多元主義はぴったりです。実は、先ほど言った論理矛盾のように見える点も私からすると矛盾ではない、と思っているんですけど。
ただ、それを理屈っぽく説明しちゃうと、聞いている人はしんどくなるので、とりあえず多元主義とは、「異なるものを仲良く同居させておいたらいいんだ」という考えです、と説明するようにしています。

齋藤清二
齋藤さん

普通「見解の相違」としてしか認識されないので、意見が一致しなくても、相矛盾していてもいいんだというように合意に持ち込むというのは、ひとつの有効な方法だと思うんですね。そうでないと、そこの議論だけで疲れ果ててしまう。

村井俊哉
村井さん

人間の心について私たちが手にしている知識は極めてわずかなことで、いってみれば「暗黒の海」のようなものです。先ほどのEBMですが、こうした暗黒の海のところどころにある灯台みたいなものだ。そういうイメージで考えればどうでしょうか。

齋藤清二
齋藤さん

はいはいはい。

村井俊哉
村井さん

その暗黒の海を、俺はこういうふうな航海術で行くとか、俺はこれで行くとか言って、まあどっちも、間違いか合っているかわからないけれども、やっているうちに、「ああ、こっちが正しかった」とわかる。そういうふうに考えれば、何の不思議もない。
ところが、サイエンスとはもっとプレサイス(precise)に物事を予測できるもの、たとえば物理学モデルのようなものだと私たちがイメージしてしまうと、異なる航海術をとる人の間で船出する前から喧嘩になってしまう。たとえば、「〇〇精神療法」と「△△精神療法」のどちらが科学的に優れているか、などと堅苦しい言葉で言っていても、どういうふうに言葉かけをしたら相手の人はちょっと元気になってくれるだろうか、といった、そういうことですものね。

齋藤清二
齋藤さん

うんうん。

村井俊哉
村井さん

そんなふうに試行錯誤でやっているわけです。そのときに、傾聴中心で行くのか、多少踏み込んでこちらも意見を述べるのか、どっちがいいんだと。こうしたことについてエビデンスをもとめて大規模な臨床試験に落としたところで、まあ出たとしても、「こういう研究の枠組みではこういう結果が出ましたよ」というだけのことですね。いまわれわれが航海しているか泳いでいる暗黒の「知識の海」みたいなイメージが、こうした結果を解釈する際のベースにあればと思います。

齋藤清二
齋藤さん

哲学というよりは、「一神教なのか多神論なのか」というような宗教的なメタファーのほうが近いような感じですね。ひとつの原理ですべてが終わっているのが一神教のイメージなんですけれども、いまの「知識の海」には、多神教的なイメージのほうが近いですよね。

村井俊哉
村井さん

多神教って、何か神さんがそこらじゅうにいるみたいですが、われわれが泳いでいる海というか、イメージというのは、その神様に滅多に出会えなくて……。たまに、お地蔵さんとかが助けてくれますが……またしばらくは、もう闇のなかで行かないとしゃあない。

齋藤清二
齋藤さん

だから臨床実践は、これはおそらく精神科でも身体科でも僕はあまり違わないように思うんです。「からだのことってスッキリわかっているけれども、こころは見えないからわからないんだ」という比喩を、心理の人はよく使われるんです。
けれども、僕は全然そう思っていなくて、「からだ」だってぜんぜんわかっていない。不確実で、複雑で、ぐじゃぐじゃしていて、予測してもそれは当たるかどうかもわからない。海の中を泳いでいるときに、まあちょっと確からしいぞというのが、こうポッと……灯台のように……。

村井俊哉
村井さん

確実に治る病気もときどきありますけど、本当にときどきであって。

齋藤清二
齋藤さん

はいはい。しかも、それは、どっちかというと、確実に治る病気って、ある意味、自然経過といいますか、待っていれば治るというほうが多いですよね。ある経過を邪魔しないでいれば。ところが、そのときに何か複雑なことがたぶん起こっている。例えば炎症なんかそうですよね。最初にばーっと浸出液が出て、好中球が走ってきて、そのあとフィブリンが出てくる。実は複雑なことなんだけれども、怪我をしたところが、二日目には腫れるけれども、それがだんだん引いていって、一週間で治るというストーリーとして予測できるから、みんなびっくりしない。

村井俊哉
村井さん

そこで起こっているメカニズムを全部明らかにしようとすると、ものすごく大変なことなんだけれども、大雑把に言えば、ひとつの定型的なストーリーを利用しているからわれわれは医者をやっていけるので、それをしなかったら、もうドツボにはまるわけですよね。

齋藤清二
齋藤さん

そうです(笑)。

村井俊哉
村井さん

だから、すべて明らかにしないと医学はだめなんだとか、ちょっとでも不確実なことがあったらそれはだめなんだみたいなほうに行っちゃうと、むしろ、普通にやっていれば何とか泳ぎ着けるものが泳ぎ着けられなくなっちゃう。

齋藤清二
齋藤さん

そうですよね(笑)。

齋藤清二(立命館大学総合心理学部教授)
▲こころだけでなくからだも不確実…「自然経過」そのものが複雑

 

航海術のまえに

齋藤清二
齋藤さん

心理療法でもそうだと思います。冷静に見て行くと、だいたいどんな心理療法も、優秀なセラピストが丁寧にやっていれば、半分ぐらいの人は確実に良くなる。確実というか、半分ぐらいは良くなると。でも、そのうちの三割ぐらいは実は、何もしなくても良くなるという人で(笑)、誰がどうやっても良くならない人というのがやっぱり二、三割いる。そういうところはコンセンサスで、あとは、その時その時に、どのぐらい状況に合わせた何かができるかみたいなことです。
暗い海を泳いでいる感覚で臨むと、こういうことが全体として見えるわけですよね。にもかかわらず、「認知行動療法以外は心理療法ではない」と言う人もいれば、「認知行動療法は、あんなのわざわざ人間がやることではない」みたいなことを言う人もいます。これは、どう考えても不毛でしょう。その辺はもう少し全体像を、あまり先鋭的にではなく、「こんなものなんだよ」というのを示してあげないと、いちばん困るのは、これから学ぼうとしている学生さんだろうと思うんですよね。

村井俊哉
村井さん

下手をすると、全人的に見るというのと、科学でやるというのが対立しちゃって、せっかく全人的にといっても、またそれと何かが対立するみたいなことで、きりがないんですね。なので、最初から「多元的なんですよ」というのはひとつの方便かもしれません。結構「しょせん暗い海だから」みたいな見方がしっくりくるんじゃないかなという思いがあります。

齋藤清二
齋藤さん

海のたとえで行くと、共通部分というのは、どの流派の「航海術」を使うとしても、「船というもの」はこうやらんと動かんよ、ということですよね。

村井俊哉
村井さん

(笑)そうそうそう。そう。

齋藤清二
齋藤さん

でも、ときどき、船ってこうやらんと進まんよねというのと「逆」のことをやっている人が、たまに、いはりますよね。

村井俊哉
村井さん

たまに、いはりますね。たぶんその「航海術」の流派の違いというものは、ある種の気象条件のときはある航海術でうまく乗り切れて、別の条件のときは別の流派の航海術が危機を乗り越える。でも、どの条件のときにどっちの流派で対応するかというところまでは正確にわかっていないので、たまたま今日の天候はこうだったので、日本流のチームがヨットのレースで勝ったけれども、今回の条件を日本の航海のあれにはもうちょっと合っていなかったかなというのはよく言うような感じなんですかね? それで、ところどころに目印になるような灯台みたいなものがあったりとかする。でも、そうは言っても、何遍やっても圧倒的な差があってオーストラリアチームが勝つ。その航海術が世の中を席巻する。そういうことが医療でもあります。

齋藤清二
齋藤さん

これもメタファーですけれども、ソリの競技でワックスを間違えると、全然だめ、ものすごく実力のあるところでも、ワックスを塗り間違えると全然だめになっちゃうみたいなことってありますよね? たかがワックスなわけですね。だけど、やっぱりそういう小さいディテールが非常に結果を左右することはある。
けれども、そこばっかりに注目してしまえば、それでは、じゃあ、ソリの競技はワックスだけで成り立っているのかという話になっちゃうわけです(笑)。精神療法の技法ってそれみたいなものですよね。「確かに、それはそれで大事なんですが、まずそもそもやっぱりその基本技術があるか、という……」(笑)。ソリになってさえいないようなものに、いくらワックスを投じたってだめなので。

村井俊哉
村井さん

ちょっと研究の話に戻るんですけれども、その根本になっているところって、実証的なデザインがつくりにくいんですよね。基本になっているところが共通だからこそ、細かいところの実証デザインができるので。
ただ、どうしても医学全体の問題として「疾患があって、それを診断して、治療という介入を課す」というパラダイムがある。ところが、実際には、何かよくわからないけれども、「一緒にいたら治る」ということがあったりするわけですね。それって、非常に「デザイン」にしにくいですね。
なのにどうしても、やりやすいところのことが目立つし、評価される。いわゆる「夜の駐車場で落とし物をしたときに、街灯のあるところだけを捜す」ということですよね。

齋藤清二
齋藤さん

ああ、そうです。わかりやすい。

村井俊哉
村井さん

明るいところだけを捜しているということをやっているということは、自分ではわからないから、なんで暗いところを捜さないの? という話なんだけれども、しかし……明かりがないから捜せないんですね。
齋藤さんたちのされている分野もそうですし、僕らのところでもそうですけれども、精神医学は重症でない精神疾患といわれている気分障害とかはもう、「医療モデル」以外のモデルで社会が扱ったほうがトータルとしていいかもしれない、という考えさえ可能なわけです。
僕自身は医学の側の人間なので、医学モデルで扱うことを当然というふうに普段は語っているわけですが、そうした考え方に問題があるかないかということは、医学モデルのなかでやっている研究デザインのなかでは出てこないわけです。

齋藤清二
齋藤さん

はい、そのとおりなんです。ただ、自分にとっては耳の痛い話なので、あえてそういう発想をするためには、どうしても、ちょっと荒療治といいますか、外からの、あるいは、人類学的な視点とか、そういうものがないと、やっぱりそういう発想ってそもそも出てこないんですね。

村井俊哉
村井さん

ええ、うん。

村井先生
▲「夜の駐車場で落とし物をしたときに、街灯のあるところだけを捜す」になってしまいがちだと村井先生

 

耳が痛いほうに耳を傾ける

齋藤清二
齋藤さん

「だから、「医療がむしろ病気をつくっているんじゃないか」という発想は、反精神医学とかいうことではなくて、常に考えていなければいけないことだと思っています。

村井俊哉
村井さん

僕は今でもすごく残念なのですが、反精神医学って、今日非常に評判が悪いんですね。昔は評判が良かったんですけど……。そういう時代に正統な精神医学の側にいて苦労した人たちは、反精神医学のことを黒歴史として全否定するわけです。

齋藤清二
齋藤さん

なるほど、なるほど。

村井俊哉
村井さん

ただ、そういう時代に苦労した先輩が反精神医学のことをそのように言うのを、下の世代の人が、単純に受け売りで、けなしている場面をみることがあるんです。やっぱり自分で一度ちゃんと考えたほうがいいですね。自分でそれなりに考えると、そう簡単に論破できない話って、結構あるんです。

齋藤清二
齋藤さん

はい、はい、はい、はい。

村井俊哉
村井さん

鵜呑みにしてやっているのはリスキーです。そういう、人の話を鵜呑みにしてずっとやってきた人って、人生のあるときに、たとえばプロモーションがうまくいかなかったとか、家庭で辛いことがあったとか、何か自分の人生の危機に遭ったとき、突然、反医学とか、反精神医学とか、あるいはスピリチュアルやオカルトに唐突に向かうんですよ。
反精神医学やスピリチュアルが悪いということではなくて、唐突に大きくぶれてしまうことが何かおかしいと思うわけです。若いときに、ちゃんと自分自身で両方考えて、「こういうよい面もあるいけれどもこういう問題もある」といったことを考えた経験のある人は、のちに人生の危機にあったとしても、唐突に大きくぶれることはありません。

齋藤清二
齋藤さん

メタで考えている限りはぶれないですよね。なるほど、やっぱり免許を持っている者がそういうことを言い出すと、周りに対する害が大きいですね。
私が今所属している学部ですと、人類学とか社会学との教員を採用していますし、そこである意味「反-心理学」風の話も、学生は聴く機会があります。教えている方々が「反-心理学」なわけではないのですが、考え方としては、いわゆる批判理論みたいなものがしっかり学べるので、まあある意味、そういうのはいいと思うんですね。

村井俊哉
村井さん

いいですね。耳が痛いものを排除しちゃうと、あとが逆に危ない。

齋藤清二
齋藤さん

純粋培養では、しっぺ返しが怖いですものね。

村井先生と齋藤先生
▲本来は複雑な臨床の現場をいかに若い臨床者たちに伝えていくか……熱く語り合う

マスター:村井俊哉(むらい・としや)

1966年生まれ、京都大学医学研究科精神医学教室教授
最新著書『統合失調症』(岩波文庫 2019年)
●京都大学医学部附属病院 精神科神経科 公式サイト
https://www.kuhp.kyoto-u.ac.jp/~psychiat/


お客さま:齋藤清二(さいとう・せいじ)

1951年生まれ、立命館大学総合心理学部教授
新潟大学医学部医学科卒。英国セントメリー病院医科大学研究員、富山医科薬科大学第3内科助教授、富山大学保健管理センター長・教授などを経て、2015年より現職
最新共訳書『ナラティブ・メディスンの原理と実践』(北大路書房 2019年)
●当サイトにて、リレーエッセイ《こころとからだの交差点》連載中!
第二話 こころとからだの関係
第五話 誰が《心身症》をコロしたのか?

(2020年3月10日掲載)


■協力 カフェ:tsubara cafe(つばらカフェ) /取材:木立の文庫 編集部

まちかど学問のすゝめ 其の五

創業 1803 年の老舗「京菓匠鶴屋吉信」プロディ―スの茶房、tsubara café の店内
▲2019 年に堀川今出川にオープンしたオープンした「はんなり」スペースでの“まちかど学問”のはじまり~はじまり。

《木立のカフェ》はヴァーチャルでリアルな喫茶店。マスターの村井俊哉さん(京都大学精神医学教室教授)が京都市内の喫茶店をぶらっと訪れて、そこに集う人たちと「こころとからだ」「文化・社会」について語り合います。
今回は、カフェトークのお客さま、齋藤清二さんのお住まいの近く、堀川今出川tsubara café(ツバラカフェ)にお邪魔します。創業1803年の老舗「京菓匠鶴屋吉信」プロディ―スの茶房です。2019年オープン「はんなり」スペースでの“まちかど学問”となります!

 

暗がりでの捜し物


● 村井俊哉:1966年生まれ、京都大学医学研究科精神医学教室教授。最新の著書に『統合失調症』(岩波文庫, 2019年)がある
☆ 京都大学医学部附属病院 精神科神経科 公式サイト
https://www.kuhp.kyoto-u.ac.jp/~psychiat/
● 齋藤清二:1951年生まれ、新潟大学医学部医学科卒。英国セントメリー病院医科大学研究員、富山医科薬科大学第3内科助教授、富山大学保健管理センター長/教授などを経て、2015年より立命館大学総合心理学部教授。最新の共

訳書に『ナラティブ・メディスンの原理と実践』(北大路書房, 2019年)がある。
☆ 木立の文庫webサイト《こころとからだの交差点》にて「リレーエッセイ」連載中!
https://kodachino.co.jp/dialogue/intersection-of-mind-body/mind-body-2/

アンチテーゼのハイジャック?

テーブルをはさんで村井先生と齋藤先生
▲2019 年にオープンした「はんなり」スペースでの“まちかど学問”のはじまり~はじまり。
村井俊哉
村井さん

今日は齋藤清二さんとの “まちかど学問” 談義を愉しみにしています。齋藤さんは医師でありながら、医療のあり方そのものを捉え直す営みを続けてこられているので、精神医学、精神科医療にもからめて面白い話ができそうです。まずは齋藤さんといえば「ナラティブ」ということですね。

常連さん
常連さん

ナラティヴという視点はいまでこそさまざまな領域に浸透してきていますが、そもそもナラティブ・ベイスト・メディスン(NBM: narrative-based medicine)というムーブメントが出てきた背景を見ておきましょう。そこには、エビデンス・ベイスト・メディスン(EBM: evidence-based medicine)が世界中に広まって、それがちょっと広がり過ぎというか、行き過ぎている感じがあって、それに対するアンチテーゼという意味あいがあったんですね。もともとNBMを生み出したトリシャ・グリーンハル(Trisha Greenhalgh)などは、英国でいちばん売れているEBMの本を書いている人です。彼は、どうもEBMが変な方向へ行っているので、それをちょっと補正しなくてはならんということで、ナラティブを強調したというのがあります。ちなみにそのグリーンハルさんはいま、NBMも一段落したので、またEBMのほうに戻っています。

村井俊哉
村井さん

なるほど。僕もEBMが最初に出たときはすごく面白く感じました。特に精神医学は、実証的な姿勢にアンチな人が圧倒的に多かったので、EBMが登場した頃には、そういう状況に一石を投じて引っくり返してやろう! というような過激な面がありましたね。

常連さん
常連さん

そうです、そうです。

村井俊哉
村井さん

過激な人は、過激なうちは面白いんですけどね。それで定職を得たり、その道の権威となったり、というふうになってくると……。

常連さん
常連さん

実は、心理の世界でそのパロディみたいなものが起こっちゃっているわけです。一時期、医学におけるエビデンス・ベイストの思想みたいなのを心理の世界へ持ち込んで、しかも、それをかなり歪めた形で政治的に利用したというのがあります。

村井俊哉
村井さん

はい。

常連さん
常連さん

エビデンスの考え方を持ち込んだこと自体が悪いわけでもないんですけど、それがあまりにもひどい。アメリカではある程度それが修正されるのですが、日本ではぜんぜん修正されない。それを、私は「『エビデンスに基づく実践』のハイジャックとその救出」という論文を書いて、半分冗談で『こころの科学』という雑誌に載せたら、やっぱり一部の方が「我が意を得たり」ということで、「よく書いてくれました」というような反応がありました。でも、その人たちの考え方も僕とは違う。要するに僕は、エビデンスが気に食わないわけでは全然ない。そこは非常に複雑な思いなんですね。

村井俊哉
村井さん

今みたいなことを言っていると、EBMに反対派の人が応援してくれることもありますが、そういうことではないと、そうした意見にもまた反論したくなってしまいますね(笑)。

常連さん
常連さん

どちらかというと極端な人が多いので、その人がバーンと場を読まない発言をすると、炎上したりとか……。実際にTwitterを見ていると、今でも、そういう案件はとても多いです。僕から見ていると、どちらもべつに間違ったことを言っているわけではないんだけれども、完璧にボタンの掛け違いになっちゃって、議論は噛み合わない。

村井俊哉
村井さん

冷静な議論にならないんですね。

常連さん
常連さん

臨床心理学なんかでは、それなりのバランスをとって、多少いろいろ言う人はいても、それぞれの言い分を、できるだけ誰をも圧迫せずに出してもらって、「じゃ、この目の前のクライエントにどうするか」というあたりで落としどころをつかんでいくということは、ある程度できそうな気はしているんですよね。そこに、議論をする場と信頼関係のある安全な場がないとだめなんですけれども、具体的に「この人に対してどうするか」という議論については、大体それなりのところに行くんですね。

村井俊哉
村井さん

なるほど。

齋藤清二、立命館大学総合心理学部教授
▲「目の前のクライエントをどうするか」とういう現実が、ある程度の落としどころを探せると斎藤先生

ひろがる暗い海と灯台

常連さん
常連さん

例えば「多元主義」という視点を村井さんは紹介されていますね。論理的な議論をしていると相容れないんだけれども、それは認めたうえで、どうやって実際にやることを調整していくか、みたいなところは大事なのではないでしょうか。

村井俊哉
村井さん

適材適所で最も優れた方法を使うべき、という「多元主義」は、実用的で優れた考えた方で私は共感しています。ただ、多元主義には一つ弱点があります。どういった時にどの方法が適材かを判断する際には、なんらかの基準が必要なわけですから、そうだとすると、多元的ではなくて、結局は一元的、ということになってしまうのです。だから多元「主義」というのは論理矛盾である、という見方もあるのです。
ただ、齋藤さんがおっしゃったようなプラクティカルという意味では、つまり、相容れない考え方もとりあえず両方置いておくというという意味では、多元主義はぴったりです。実は、先ほど言った論理矛盾のように見える点も私からすると矛盾ではないと思っています。でも、それを理屈っぽく説明しちゃうと、聞いている人はしんどくなるので、とりあえず多元主義とは「異なるものを仲良く同居させておいたらいいんだ」という考えだと説明するようにしています。

常連さん
常連さん

普通「見解の相違」としてしか認識されないので、意見が一致しなくても、相矛盾していてもいいんだというように合意に持ち込むというのは、ひとつの有効な方法だと思うんですね。そうでないと、そこの議論だけで疲れ果ててしまう。

村井俊哉
村井さん

人間の心について私たちが手にしている知識は極めてわずかなことで、いってみれば
「暗黒の海」のようなものです。先ほどのEBMですが、こうした暗黒の海のところどころにある灯台みたいなものだ。そういうイメージで考えればどうでしょうか。

 

常連さん
常連さん

はいはいはい。いい例えですね。

村井俊哉
村井さん

その暗黒の海を、俺はこういうふうな航海術で行くとか、俺はこれで行くとか言って、まあどっちも、間違いか合っているかわからないけれども、やっているうちに、「ああ、こっちが正しかった」とわかる。そういうふうに考えれば、何の不思議もない。
ところが、サイエンスとはもっとプレサイス(precise)に物事を予測できるもの、たとえば物理学モデルのようなものだと私たちがイメージしてしまうと、異なる航海術をとる人の間で船出する前から喧嘩になってしまう。たとえば、「〇〇精神療法」と「△△精神療法」のどちらが科学的に優れているか、などと堅苦しい言葉で言っていても仕方がない。それよりも、どういうふうに言葉かけをしたら相手の人はちょっと元気になってくれるだろうか、といったことの方が大切ですもんね。

常連さん
常連さん

うん、そうですよね。

村井俊哉
村井さん

そんなふうに試行錯誤でやっているわけです。そのときに、傾聴中心で行くのか、多少踏み込んでこちらも意見を述べるのか、どっちがいいんだと。こうしたことについてエビデンスをもとめて大規模な臨床試験に落としたところで、まあ出たとしても、「こういう研究の枠組みではこういう結果が出ましたよ」というだけのことですね。いまわれわれが航海しているか泳いでいる暗黒の「知識の海」みたいなイメージが、こうした結果を解釈する際のベースにあればと思います。

常連さん
常連さん

哲学というよりは、「一神教なのか多神論なのか」というような宗教的なメタファーのほうが近いような感じですね。ひとつの原理ですべてが終わっているのが一神教のイメージなんですけれども、いまの「知識の海」には、多神教的なイメージのほうが近いですよね。

村井俊哉
村井さん

多神教って、何か神さんがそこらじゅうにいるみたいですが、われわれが泳いでいる海というか、イメージというのは、その神様に滅多に出会えなくて……。たまに、お地蔵さんとかが助けてくれますが……またしばらくは、もう闇のなかで行かないとしゃあない。

常連さん
常連さん

だから臨床実践は、これはおそらく精神科でも身体科でも僕はあまり違わないように思うんです。よく、からだのことってスッキリわかっているけれども、こころは見えないからわからないんだという比喩をよく心理の人は使われるんです。
けれども、僕は全然そう思っていなくて、「からだ」だってぜんぜんわかっていない。不確実で、複雑で、ぐじゃぐじゃしていて、予測してもそれは当たるかどうかもわからない。海の中を泳いでいるときに、まあちょっと確からしいぞというのが、こうポッと……灯台のように……。

村井俊哉
村井さん

確実に治る病気もときどきありますけど、本当にときどきであって。

常連さん
常連さん

しかもそれは、どっちかというと、確実に治る病気って、ある意味、自然経過といいますか、待っていれば治るというほうが多いですよね。ある経過を邪魔しないでいれば。
ところが、そのときに何か複雑なことがたぶん起こっている。例えば炎症なんかそうですよね。最初にばーっと浸出液が出て、好中球が走ってきて、そのあとフィブリンが出てくる。実は複雑なことなんだけれども、怪我をしたところが、二日目には腫れるけれども、それがだんだん引いていって、一週間で治るというストーリーとして予測できるから、みんなびっくりしない。

村井俊哉
村井さん

そこで起こっているメカニズムを全部明らかにしようとすると、ものすごく大変なことなんだけれども、大雑把に言えば、ひとつの定型的なストーリーを利用しているからわれわれは医者をやっていけるので、それをしなかったら、もうドツボにはまるわけですよね。

常連さん
常連さん

そうです(笑)。

村井俊哉
村井さん

だから、すべて明らかにしないと医学はだめなんだとか、ちょっとでも不確実なことがあったらそれはだめなんだみたいなほうに行っちゃうと、むしろ、普通にやっていれば何とか泳ぎ着けるものが泳ぎ着けられなくなっちゃう。

常連さん
常連さん

そうですよね(笑)。

齋藤先生
▲精神科でも身体科でも、暗い海の中を泳いでいるうちに「確からしい」という「灯台」のようなものを見つけようとする体験と姿勢が大切だと、齋藤先生

航海術のまえに

常連さん
常連さん

心理療法でもそうだと思います。冷静に見て行くと、だいたいどんな心理療法も優秀なセラピストが丁寧にやっていれば、半分ぐらいの人は確実に良くなる。確実というか、半分ぐらいは良くなると。でも、そのうちの三割ぐらいは実は、何もしなくても良くなるという人で(笑)、誰がどうやっても良くならない人というのがやっぱり二、三割いる。そういうところはコンセンサスとしてあって、あとは、その時その時に、どのぐらい状況に合わせた何かができるかみたいなことです。
暗い海を泳いでいる感覚で臨むと、こういうことが全体として見えるわけですよね。にもかかわらず、「認知行動療法以外は心理療法ではない」と言う人もいれば、「認知行動療法は、あんなのわざわざ人間がやることではない」みたいなことを言う人もいます。これは、どう考えても不毛でしょう。その辺はもう少し全体像を、あまり先鋭的にではなく、「こんなものなんだよ」というのを示してあげないと、いちばん困るのは、これから学ぼうとしている学生さんだろうと思うんですよね。

村井俊哉
村井さん

下手をすると、全人的に見るというのと、科学でやるというのが対立しちゃって、せっかく全人的にといっても、またそれと何かが対立するみたいなことで、きりがないんですね。なので、最初から「多元的なんですよ」というのはひとつの方便かもしれません。結構「しょせん暗い海だから」みたいな見方がしっくりくるんじゃないかなという思いがあります。

常連さん
常連さん

海のたとえで行くと、共通部分というのは、どの流派の「航海術」を使うとしても、「船というもの」はこうやらんと動かんよ、ということですよね。

村井俊哉
村井さん

(笑)そうそうそう。そう。

常連さん
常連さん

でも、ときどき、船ってこうやらんと進まんよねというのと「逆」のことをやっている人が、たまに、いはりますよね。

村井俊哉
村井さん

たまに、いはりますね。たぶんその「航海術」の流派の違いというものは、ある種の気象条件のときはある航海術でうまく乗り切れて、別の条件のときは別の流派の航海術が危機を乗り越える。でも、どの条件のときにどっちの流派で対応するかというところまでは正確にわかっていないので、たまたま今日の天候はこうだったので、日本流のチームがヨットのレースで勝ったけれども、今回の条件を日本の航海のあれにはもうちょっと合っていなかったかなというのはよく言うような感じなんですかね? それで、ところどころに目印になるような灯台みたいなものがあったりとかする。でも、そうは言っても、何回やっても圧倒的な差があってオーストラリアチームが勝つ。その航海術が世の中を席巻する。そういうことが医療でもあります。

常連さん
常連さん

これもメタファーですけれども、ソリの競技でワックスを間違えると、全然だめ、ものすごく実力のあるところでも、ワックスを塗り間違えると全然だめになっちゃうみたいなことってありますよね? たかがワックスなわけですね。だけど、やっぱりそういう小さいディテールが非常に結果を左右することはある。
けれども、そこばっかりに注目してしまえば、それでは、じゃあ、ソリの競技はワックスだけで成り立っているのかという話になっちゃうわけです(笑)。精神療法の技法ってそれみたいなものですよね。「確かに、それはそれで大事なんですが、まずそもそもやっぱりその基本技術があるか、という……」(笑)。ソリになってさえいないようなものに、いくらワックスを投じたってだめなので。

村井俊哉
村井さん

ちょっと研究の話に戻るんですけれども、その根本になっているところって、実証的なデザインがつくりにくいんですよね。基本になっているところが共通だからこそ、細かいところの実証デザインができるので。
ただ、どうしても医学全体の問題として「疾患があって、それを診断して、治療という介入を課す」というパラダイムがある。ところが、実際には、何かよくわからないけれども、「一緒にいたら治る」ということがあったりするわけですね。それって、非常に「デザイン」にしにくいですね。
なのにどうしても、やりやすいところのことが目立つし、評価される。いわゆる「夜の駐車場で落とし物をしたときに、街灯のあるところだけを捜す」ということですよね。

常連さん
常連さん

ああ、そうです。わかりやすい。

 

村井俊哉
村井さん

明るいところだけを捜しているということをやっているということは、自分ではわからないから、なんで暗いところを捜さないの? という話なんだけれども、しかし……明かりがないから捜せないんですね。
齋藤さんたちのされている分野もそうですし、僕らのところでもそうですけれども、精神医学は重症でない精神疾患といわれている気分障害とかはもう、「医療モデル」以外のモデルで社会が扱ったほうがトータルとしていいかもしれない、という考えさえ可能なわけです。
僕自身は医学の側の人間なので、医学モデルで扱うことを当然というふうに普段は語っているわけですが、そうした考え方に問題があるかないかということは、医学モデルのなかでやっている研究デザインのなかでは出てこないわけです。

常連さん
常連さん

はい、そのとおりなんです。ただ、自分にとっても耳に痛い話なので、あえてそういう発想をするためには、どうしても、ちょっと荒療治といいますか、外からの、あるいは、人類学的な視点とか、そういうものがないと、やっぱりそういう発想って、そもそも出てこないんですね。

村井俊哉
村井さん

ええ、そうですよね。

村井先生、手前に斎藤先生
▲「夜の駐車場で落とし物をしたときに、街灯のあるところだけを捜す」になってしまいがちだと村井先生

耳が痛いほうに耳を傾ける

常連さん
常連さん

「だから、「医療がむしろ病気をつくっているんじゃないか」という発想は、反精神医学とかいうことではなくて、常に考えていなければいけないことだと思っています。

村井俊哉
村井さん

僕は今でもすごく残念なのですが、反精神医学って、今日非常に評判が悪いんですね。昔は評判が良かったんですけど……。そういう時代に正統な精神医学の側にいて苦労した人たちは、反精神医学のことを黒歴史として全否定するわけです。

常連さん
常連さん

なるほど、なるほど。

村井俊哉
村井さん

ただ、そういう時代に苦労した先輩が反精神医学のことをそのように言うのを、下の世代の人が、単純に受け売りで、けなしている場面をみることがあるんです。やっぱり自分で一度ちゃんと考えたほうがいいですね。自分でそれなりに考えると、そう簡単に論破できない話って、結構あるんです。

常連さん
常連さん

はい、はい、はい、はい。本当に、そうですよね。

村井俊哉
村井さん

鵜呑みにしてやっているのはリスキーです。そういう、人の話を鵜呑みにしてずっとやってきた人って、人生のあるときに、例えば目論んでいたプロモーションがうまくいかなかったとか、家庭で辛いことがあったとか、何か自分の人生の危機に遭ったとき、突然、反医学とか、反精神医学とか、あるいはスピリチュアルやオカルトに唐突に向かうんですよ。
反精神医学やスピリチュアルが悪いということではなくて、唐突に大きくぶれてしまうことが何かおかしいと思うわけです。若いときに、ちゃんと自分自身で両方考えて、「こういうよい面もあるいけれどもこういう問題もある」といったことを考えた経験のある人は、のちに人生の危機にあったとしても、唐突に大きくぶれることはありません。

常連さん
常連さん

メタで考えている限りはぶれないですよね。なるほど、やっぱり免許を持っている者がそういうことを言い出すと、周りに対する害が大きいね。
私が今所属している学部ですと、人類学とか社会学との教員を採用していますし、そこである意味「反-心理学」風の話も、学生は聴く機会があります。教えている方々が「反-心理学」なわけではないのですが、考え方としては、いわゆる批判理論みたいなものがしっかり学べるので、まあある意味、そういうのはいいと思うんですね。

村井俊哉
村井さん

 いいですね。耳が痛いものを排除しちゃうと、あとが逆に危ない。

常連さん
常連さん

純粋培養では、しっぺ返しが怖いですものね。

左手に齋藤先生、右手には村井先生
▲本来は複雑な臨床の現場をいかに若い臨床者たちに伝えていくか……熱く語り合う

(2020年3月10日掲載)


■協力:tsubara café(ツバラカフェ) /取材:木立の文庫

まちかど学問のすゝめ 其の四

《木立のカフェ》はヴァーチャルでリアルな喫茶店。マスターの村井俊哉さん(京都大学精神医学教室教授)が京都市内の喫茶店をぶらっと訪れて、そこに集う人たちと「こころとからだ」「文化・社会」について語り合います。
きょうは、前回と同じく鴨川沿いのドイツ料理店: カフェ・ミュラーさんにお邪魔しています。ジャーマン・スイーツを味わいながら、常連さんと今日も “まちかど学問” 談義… 折しも11月30日から始まる「多文化間精神医学会」の話に…。私たちが人と出会うとき、そこにはどんな「文化/時代」が織り込まれているのでしょうか?

無くてもいいもの だから大切に…


● 村井俊哉:1966年生まれ、京都大学医学研究科精神医学教室教授
京都大学医学部附属病院 精神科神経科 公式サイト
https://www.kuhp.kyoto-u.ac.jp/~psychiat/
● 常連さん:1967年生まれ、勤務編集者を経て、出版プランナー

 

カフェ・ミラーの日本庭園
▲秋の夕暮れには テラスで“まちかど学問”でも…
常連さん
常連さん

前回の《木立のカフェ》は、《病跡学会》の大会をまえに「精神医学と芸術」をめぐって盛り上がりましたが、学会シーズンはまだ続くようですね?

村井俊哉
村井さん

こんどは《多文化間精神医学会》の大会長を務めます。

常連さん
常連さん

11月30日から伏見の龍谷大学での開催ですね。《多文化間精神医学会》というのは比較的あたらしい学会なのでしょう?

村井俊哉
村井さん

《社会精神医学会》の一部があるときに分かれたと聞いています。精神医学に社会的な影響があることを考えるのが社会精神医学で、そこから「多文化」という観点から分かれて創設されたということで、トランスカルチュラル(transcultural)という名称になったのだと思います。

常連さん
常連さん

「間」という意味合がcross-やinter-ではなくtrans-に込められている…。そんな精神医学では、「文化」をどんな風にとらえるのでしょう?

村井俊哉
村井さん

多くの人がイメージするのは、レヴィ=ストロース(Lévi-Strauss)のような人が「途上国」に行ってそこの文化を見て、自分たちの文明を振り返るようなスタイルでしょうか。

常連さん
常連さん

日本も文化人類学をはじめ、実際に入って行って他文化に触れるフィールド・ワークが盛んでしたね。

村井俊哉
村井さん

いまでも「多文化間」という観点では、そうした関与観察を重視する立場がひとつあって、もうひとつに、国際協力研究としてデータを持ち寄って、研究者自身は現地の人と生活を共にしたりはせずに、統計解析に乗せるスタンスがあります。

常連さん
常連さん

後者では、医学という土俵でのエビデンスが浮かんでくるわけですね。

村井俊哉
村井さん

研究スタイルとしてはかなり異なるこうしたふたつの立場が混ざっているのが《多文化間精神医学》だと思います。

村井俊哉教授
▲ 元・バックパッカーの村井さん

 

文化差が問題なのでしょうか

常連さん
常連さん

比較文化心理学のようなジャンルもありますが、精神医学固有の問題としては…?

村井俊哉
村井さん

ひとつ問題になるのは、外国人が日本に来た場合に起こる事態ですね。

常連さん
常連さん

労働問題とか?

村井俊哉
村井さん

あとは観光客の問題。旅行の途中で症状が出て受診したけど、これは精神症状なのか? それとも国の文化なのか? そこがわからないというようなこともあります。

常連さん
常連さん

アメリカなどでは常にある問題なのでしょうね。

村井俊哉
村井さん

たとえばヒスパニックの人たちの診療のときには、文化差というのを考慮して適切な医療を届けなくてはいけません。症状の評価をする場合でも、うつの表現の仕方は文化によってかなり異なりますので、文化差に鈍感など評価を誤ります。クラインマン(Kleinman)は「中国ではうつを『うつ』と言わない」と指摘しています。
うつをこころの症状ではなく、「頭が重い」など身体の症状として患者は表現し、医師もその症状を拾うので、病名としては「神経衰弱」という概念がより広く流布している、という指摘です。うつというと「こころの病い」になってしまうので、精神疾患に対する偏見が、病気を身体疾患に寄せて考える見方を後押しするのだ、といった説明がされます。

常連さん
常連さん

文化的なスティグマは根深いでしょうね。

村井俊哉
村井さん

たぶん実務上は、そういう「現場」での個別の患者さんへの対応が《多文化間精神医学》でいちばん大事なテーマでしょう。対応するこちらの側の苦労、気づき、成長などもそうした臨床場面には含まれていますので、これも広い意味で「フィールド・ワーク的」多文化間精神医学と呼んでよいのかもしれませんが。
一方で疫学・統計学的な研究、つまり研究者が事態に巻き込まれない研究については、たとえば「統合失調症の発症率は途上国のほうが低い」というような研究が有名です。
この研究は、現代社会、医療、薬物療法がむしろ病気をつくっているんだという言説を後押ししましたし、一方では、最近、この研究はデータのとり方に不備があることが指摘され、論争の的となりました。《多文化間精神医学》が精神医学全般の問題(この場合は統合失調症の原因ですが)に大きな影響を与えた研究と言えると思います。

 

常連さん
常連さん

文化差というのは、言葉の違いやコミュニケーションの違い以上に、深いところ… たとえば精神構造のようなところに出ますか?

村井俊哉
村井さん

そういう意味でいうと、これはまったく個人的感想ですが、日本からすると、ヨーロッパやアメリカはほぼ問題にならない。韓国もまず問題にならなくて、東南アジアも。中国も、日本に来ているような人たちではまず問題になりませんね。よく「韓国人と日本人の気質の違い」とか言いますけれども、そんなものは、精神科の重大な症状が出ているときは、症状の差のほうが大きいので、そこに吸収されて、文化差はほとんど問題となりません。

常連さん
常連さん

欧米もアジアも「文化差」問題がないとすると…。

村井俊哉
村井さん

私の個人的経験では、難しかったのは中東諸国の人たちでした。「宗教」の違いが大きいですが、同じ宗教でもインドネシアの人たちの診察ではそれほどの困難は感じませんので、宗教を含む広い意味での風土の違いということでしょうか。

常連さん
常連さん

この時代、アジアのなかでの心性の違いが云々されますが、中東には思いが及びませんでした。

村井俊哉
村井さん

昔、本多勝一が『カナダ=エスキモー』とか『ニューギニア高地人』とか、関与的な取材を報告していました。遠目にはまったく文化が違って見える人たちも、現地へ入っていくと、わかりあえるじゃないかと。つまり「懐に入ればわかり合える」という本を書いて、ベストセラーになりました。
ただ、もう一冊『アラビア遊牧民』という本があって、そこでは、「人類みな、わかり合える」と言い切れない壁みたいなものも感じた、ということを書いていたと思うんです。そういうことを僕らも、感じることはありますね。
もちろん、精神科医である私たちの場合には、この国の文化はわかりにくい、では済まされず、自分が責任を持つことになった患者さんに元気になってもらわなければなりませんので、そういう状況でも、何とか突破口を探る努力を続けます。

 

村井俊哉
村井さん

そういったことも含めて、《多文化間精神医学会》はとても面白いです。もともと精神科というのは色んな立ち位置の人がいるところが面白いのですが、研究をする精神科医の側の多様さが増幅された感じがして…。

常連さん
常連さん

自分たちの間にも「文化差」がある…。そういう意味でも、立ち位置の多様性を含んだ議論は、これからますます大事になってくるでしょうね。

村井俊哉
村井さん

そうした議論は、「他民族」批判が噴出した際に重要ですね。国家間の政治的軋轢などをきっかけに「韓国人はこういう民族だ」みたいな言論に私たちは陥るリスクがある。そうしたときには必ず「日本人論」が出てくる。日本人の「白黒はっきりさせないところがいいんだ」みたいな…。

常連さん
常連さん

湿潤な気候では「水に流」せて素晴らしい、みたいな…。

村井俊哉
村井さん

たぶんその同じ流れで、これからの社会では、日本文化と韓国文化の違いのような個別文化の違いよりも、「グローバリズム」のほうが重い問題になってくるでしょうね。つまり「世界全体の文化均質化の方向へ向かっている」ことへの視線です。

常連さん
常連さん

グローカルや、ダイバーシティみたいな話をからめて。

村井俊哉
村井さん

精神医学は社会学というような大きな分野ではないので、基本的に病気になった人に対して、精神疾患という病気に対して、文化的なファクターがどう影響するかという問題から考えることになるわけですが。

常連さん
常連さん

国民の「気質」分類が合っているかどうかよりも、病気としてどう捉えられるか…。

村井俊哉
村井さん

たとえば自殺率の高さというのは、気候だけでは説明できません。たしかに北の国では高くて南の国は低いけれども、イタリアの自殺率の低さを単に「暖かい国だから」というだけでは説明できない。そこには、カトリックが自殺を禁じていることなど、「文化」の要因が絡んでいるはずです。
ドイツと比べたらイタリアのほうが所得が低いし、ドイツのほうが社会保障がしっかりしているはずなのに、自殺率というアウトカム(outcome)で見ると、イタリアのほうが良い。この事実は、「気候」や「宗派」の違いだけでは説明がつきづらいのではないでしょうか。

常連さん
常連さん

遺伝子なんかが着目されたり?

村井俊哉
村井さん

もちろん、そう言う人もいます。ただ、歴史のなかでヨーロッパの民族はすごく混ざり合っているので、自殺しにくい遺伝子/しやすい遺伝子というのが淘汰を重ねるには何世代かかるかということを考えると、遺伝子だけでは説明できず、まさに「文化」と呼んでおくしかないようなことがらが影響しているのだろうと思っています。

常連さん
常連さん

統計的・疫学的な視点からは「自殺」の他になにか重要なテーマは…?

村井俊哉
村井さん

どちらかというと、イタリア人とドイツ人の国民の文化差なんていうのは、気楽な話題です。もうちょっとシリアスな問題は、世界じゅうの紛争地域での精神疾患の比率が、一般の人口と比べてどうなのか? というテーマがあります。
当たり前ではありますが、うつと、不安と、PTSDは紛争地帯では明らかに高くなります。
「この地域の人たちは戦闘民族の血を受け継いでいるので、子どもは生まれたときから銃を与えられてこそ生き生きと育つのだ」みたいな言説を耳にすることもありますが、こうした考えが基本的にはおかしい、ということをこうした疫学研究は指摘してくれます。でも、そのあたりまえのデータを出すのがけっこう大変なのです。多文化間の比較というのは、すごく難しいんですよ。

カフェ・ミラーの日本庭園の池
▲この施設じつは むかし「日独文化研究所」…

それは文化? それともシステム?

村井俊哉
村井さん

面白いですよね、文化って。自分たちがつくったものによって自分たちが縛られるというのが文化なんですよね。ある種の思い込みで「日本人はこうあらねばならない」とかいう意識が自分や周りの人の行動を決めていく。そして、自分と周りの人でつくったルールで自分たちを拘束していく、という…。

常連さん
常連さん

民族間とか人種間もあるけれども、ひとつの国のなかでも、たとえば、世代間で「文化」が違うとか…。昔は何があっても学校に行けと言われていたのが、今は、行って死ぬなら行かないほうがいい、と言われています。

村井俊哉
村井さん

そういう意味では、ぜんぜん文化と関係ないと思われているいろんな病気も、文化で説明したほうがいいかもしれないですよね。たとえば「ゲーム依存」が疾病として位置づけられましたが、若い世代の人たちにとってゲームって、文化なんですよね。

常連さん
常連さん

ネット依存もそう。

村井俊哉
村井さん

そういう「文化依存」症候群というか、その世代の人たちに特有の症状は興味深いですねぇ。世代が違っていたって人はみな何らかの“弱点”を同じように持っているはずで、たまたまそのときの環境によってある症状が出るわけじゃないですか。そのときの文化によって、症状は違った形で出るわけですね。たとえば、妄想ひとつとっても、今だと「インターネットを通じで自分の考えが盗用されている」と訴える人が多いですが、昔だと「テレパシー」が定番でした。

常連さん
常連さん

“依存”がどこに表れるか? に時代や社会が見える…。

 

村井俊哉
村井さん

表面は違うけれども根っこのところは一緒で、その精神症状が異なる現れ方をするという視点で考えると、若い世代の「ゲーム依存」にあたるものが、今の高齢者の世代では何でしょう?
よく言われるのは、団塊の世代とかをイメージして「ワーカホリック」が挙げられます。でも、僕はちょっと違うかなと思ってね…。なぜなら、一部のワーカホリックな人はどんどんワーカホリックになりますが、多くの人はそうはならないので、世代を象徴しているとはいえないでしょう。

常連さん
常連さん

世代を象徴する、「ゲーム」に当たるようなもの… うーん、なんだろ? たとえば「健康至上主義」とか…? 「アンチエイジング」とか…?

村井俊哉
村井さん

“依存”するのは、それを取り上げられたら、もう、そわそわしてしょうがない対象です。ゲームのように、周りから見たらそんなことしてるより勉強をしたほうが良いにきまってるのに、それをしたくてたまらないし、取り上げられたら激しく怒る。そんな対象が、今の高齢者にとっては何だと思いますか?

常連さん
常連さん

「健康」に夢中なるのは、傍から見てそんなに非合理ではないか…。

村井俊哉
村井さん

僕は見当をつけているものがあります。クルマ!

常連さん
常連さん

えっ? あぁ!

村井俊哉
村井さん

高齢者の一定割合に、クルマを手放せない人がいます。もちろん全員ではないですよ。また、都市部の生活者ではなく他に交通手段がなく、クルマに乗りたくなくてもそれができない人もたくさんいます。なので話は首都圏など都市部生活者に限りますが、クルマの維持費を考えたらタクシーに乗ったほうが安い人でも、手放せない。

常連さん
常連さん

人の命を奪ってしまうし。

村井俊哉
村井さん

事故が起きたらもう取り返しがつかないから、子どもの世代が『お父さん、もうクルマやめはったら?』と言う。なのに、なかなかやめてくれなくて、すごく苦労しているご家庭は多いと思うんですよね。これまではクルマは“依存”という観点では、おそらく誰も考えてこなかったんだけれども、この「手放せない」感からして、実はそうかもしれないと思っています。時代性でいうと、若い頃にはクルマというのがステータスの証しになっていて、自由を得られもする。仕事を離れて自分の時間が持てる。

常連さん
常連さん

社会の風潮や仕組もそのようにお膳立てしてきた。

村井俊哉
村井さん

ネット依存でも、スマホ依存でも、それが無いと成り立たないように社会が変わっていくなかで生じていますよね。クルマが便利な生活になると、鉄道とかバスへのニーズが減って、廃線となる。そうすると、ますますクルマが必要となって、クルマを二台もつことを前提に郊外に一戸建とかを買う。郊外だからどうしてもクルマが手離せない。
こう考えると、文化と関係する病気というのは、本人だけで起きてくるものではなくて、社会全体と本人との相関で出来てくることがわかりますよね。電車やバスの便の悪い不便な地域では、クルマに頼るしかないではないか、それを依存というのはおかしい、という意見はもちろん至極まっとうな意見ですが、そもそも社会全体が、自家用車を前提とした方向へと依存してきたので、結果として個々人としては「クルマ依存症」という状態ではない人も、クルマに依存せざるを得ない状態になっているともいえるかもしれません。

常連さん
常連さん

原発依存も連想されます。

村井俊哉
村井さん

まあ言ったら、そういう形で、若いうちからだんだんと緩やかに“依存”状態ができてきて、「はた」と気づいて、もう運転が危ない高齢になったときに、しかも仕事での必要がなくなったときに、それを手放すことができないというような…。

 

村井俊哉
村井さん

もちろん、これは半分冗談で言っているのですが…。文化と結合したこういう精神症状というか、精神疾患というのは、非常にダイナミックな社会状況のなかで、どっちかといったら本人の問題より社会の状況で、つくられていく。その社会の状況というのも、日本文化とか韓国文化という何か固定したものがあるのではなく、もっと流動的です。世代でも動いていくし、その変化によって我々がつくっている環境が変わる。その環境がまたその問題をつくっていく。こうしたものすごく複雑な側面を、精神症状・精神疾患は孕んでいます。

常連さん
常連さん

精神医学には、そこで何ができますか?

村井俊哉
村井さん

もちろん、重症な人はスタンダードな医学的治療を考えなくてはいけません。しかし、本来、その対応の仕方は、個人の病気を治しにいくという医学的対応以外にもあるのでは、という発想が重要です。

常連さん
常連さん

ゲーム依存からどことなく連想してしまうのですが、「ひきこもり」というのも、精神医学の対象とばかりも言えませんよね?

村井俊哉
村井さん

あれは「文化」の側面があるともいえます。強制的に引きこもりを許さないような社会制度だと、あるいは貧困が著しい国だと、ひきこもりは出来ないですよね。あるいは、これらは文化というより「制度」の問題かもしれません。もちろん、大人になっても家族が子どもを世話する、子どもも親の面倒をみるという、日本人のある種の美徳みたいな「文化」が影響しているとは思うんですけれども、だけどやはり、社会制度のほうがより強く影響しているのではないでしょうか。

常連さん
常連さん

たとえばどんな制度とか…?

村井俊哉
村井さん

たとえば、徴兵制というシステムがないことはが大きいと思います。あとは、保険制度とか社会福祉制度とかも関係してきますよね。こうしたことを考えると、ひきこもりとは、日本という国のよい側面の現れのひとつであるともいえるかもしれません。
一方で、日本では失業後の就労再トレーニングの制度が不十分ですよね。NEET(not in education, employment, or training)という言葉がありますが、日本では、このうちのtrainingの影が非常に薄いのです。
もう何十年も前に留学したドイツでは、産業構造の変化のために職業トレーニング中の人は大勢いましたし、そうした人たちはマインドとしては失業者というよりはeducationつまり就学中の人たちに近いものがありました。日本のひきこもりの土壌の負の側面としては、こうしたことがあるのではないでしょうか。

常連さん
常連さん

システムと文化の腑分けはむずかしそうやな。

村井俊哉教授
▲こう見えても「みうらじゅん」ファンの村井さん

いらないところに「はまる」

村井俊哉
村井さん

サブカルチャーも本当は「文化」なので、見逃せませんね。

常連さん
常連さん

何十万人もがつくっている文化ではなくとも…。

村井俊哉
村井さん

何人から文化をつくれるかわかりませんが、人が複数いれば文化ということで…。僕らは何々文化というものに専属しているわけではなくて、たとえば日本文化からある程度影響を受けていたけれども、政治思想としてはグローバリズムみたいなものが染みこんでいる。あるいは、趣味はこうでこう… とかいうことで、ひとりの人がいくつもの文化に所属している状態ですね。そうしてお互いが重なり合っているような状況なので、面白い。

常連さん
常連さん

ということは… 自分のひとりのなかで《多文化間~》って起こり得るわけですね。

村井俊哉
村井さん

ひとりのなかで… そのとおりです。

常連さん
常連さん

頭ではこう考えているんだけれども、体はこう動いちゃう、みたいな。

村井俊哉
村井さん

そうなんですよ。一人の人間の中でこっちの文化とこっちの文化が相容れなくなる。職場での文化と宗教的な文化が自分のなかで折り合いつかないとか…。ほかにも、大人でも社交クラブ、サークル活動みたいなのは盛んじゃないですか。ああいうものもひとつの文化ですよね。個人主義とか何とか言っていても、結局、何かクラブに帰属して安心している…。

常連さん
常連さん

宗教にも、信仰と教会がありますよね。

村井俊哉
村井さん

キリスト教でも、単に個人として神と繋がっているわけではなくて、ある教団に属して、教会に通っていつも同じ人から説教を聞いて、というなかで安心している。そのなかでボランティア活動をしたりして、同志とのつながりを深めているんですよね。人はそういうものに「帰属」しようとする傾向があって、その帰属先で縛られたり安心したりとかしながらやっている。そうしているうちに、いろんな症状が出たりすることもあるみたいな… そんな感じですかね。

常連さん
常連さん

帰属する/しないを折々に自分でコントロールできれば、いいのかなぁ?

 

村井俊哉
村井さん

依存症というのもそうかもしれませんよ。タバコ依存も…。もちろん、他人とはまったく無関係で独りで勝手に依存している人もいますけれども、多くの場合は、なんらかの文化的文脈の中で起きているのではないですかね。

常連さん
常連さん

なんとなく… 一人でやっている感じがしないですね。マリファナや違法ドラッグなんかも…。

村井俊哉
村井さん

依存症って、医学ではあまりそんなふうに考えられていなくて、単に脳の報酬系の問題として捉えられることもあるんですけれども、「文化と結合したものだ」という理解は面白いかもしれませんね。

常連さん
常連さん

さきほどの「クルマ依存」の話にも近くなるかもしれませんが、ハーレー軍団のおじさんたちも、やっぱり独りではやらないですね。

村井俊哉
村井さん

申し訳ないですが、何が楽しいのかと僕らは思っている。うるさくて迷惑だし… 事故のリスクがあって… お金もかかってるし… 真夏に革ジャン着て、「なにがええんか!」と。その仲間集団に所属していない僕らから見たらそうなんですけど…。

常連さん
常連さん

本人たちは自由と帰属を満喫している。

村井俊哉
村井さん

そういうふうに考えたら、文化自体を「依存症」と言ってもいいのかもしれません。となると逆に、依存症を「文化」に格上げしてもいいわけだよね。適度な範囲でやっているものに関しては…。

常連さん
常連さん

依存はなはだしい「学会」活動はとっくに文化を名乗っていますが…。

村井俊哉
村井さん

精神神経学会については、これを単に文化というのは言い過ぎで、あれはまあ… 無いとまずい…

常連さん
常連さん

システム。

村井俊哉
村井さん

極論ですが、少なくとも《多文化間精神医学会》とかは、無くてもいいと思うんです。そういうのは文化です。

常連さん
常連さん

帰属して依存している。

村井俊哉
村井さん

うん。帰属しているけど、無くてもいい。それがまあ、文化ですかね。

常連さん
常連さん

おもしろいなぁ。なくてもいいというのが「文化」の規定。うん、確かに… 無いほうがいい場合もあるぐらいの…。

 

村井俊哉
村井さん

無くてもいいというのは、バカにしているのではなくて、本当はそれが大事なんですわ。無くてもいいものが存在する世界は素晴らしいですね。
『中世の秋』という名著で知られるを書いたホイジンガ(Huizinga)人が「人間とは何か」を定義するときに、「ホモ・ルーデンス」という言葉を使った。「人間とは、遊ぶ動物である」と。人間とは知性のある動物(ホモ・サピエンス)と言われていたなか、遊ぶ動物と定義したわけです。「こんなに遊ぶのは人間だけだ」ということですね。

常連さん
常連さん

「遊びをせんとや生まれけむ」みたいなね。

村井俊哉
村井さん

まさにそうです。“遊び”って、凝ってしまって依存してしまうものですよね。そして、どの遊びに凝るか? 依存するか? は、人それぞれ違う。そこが“遊び”の特徴でしょうね、全員同じ遊びをやっていたら変だと思うんですよね。なんでそうなるのか不思議なんですが…。

常連さん
常連さん

それぞれ違う“遊び”を、それぞれでやっている。

村井俊哉
村井さん

ここのところがやっぱり、おもしろい。人間の人間らしいところですね。だから、精神医学というのは、よく考える必要があるでしょうね。ある種「合理的でない」もの、「無くていい」ものを悪もの呼ばわりして全部切り捨てていくと、人間を全部殺すようなことになるんです。だから、“遊び”は残しつつ、「でもやっぱり、ここの部分は…」というような限度を超えたものに対しては“病気”として見ていくというような。なにかそういう、ちょっと広めの風呂敷みたいなもので考えておく必要があるんです。

常連さん
常連さん

なるほど、なるほど。うん…。

カフェ・ミュラーのスイーツ
▲ちょっと広めのお皿で 文化は美味しい

開催のお知らせ
第26回 多文化間精神医学会 学術総会
第26回 多文化間精神医学会 学術総会
日程:2019年11月30日(土)・12月1日(日)
会場:龍谷大学 深草キャンパス


▪️会長講演
多文化の時代〜多文化概念の多様化と精神医学〜
演者(会長):村井俊哉(京都大学 精神医学教室)


ほかにも特別講演、教育講演、学会賞受賞講演、シンポジウム、ワークショップ、産業医学セッション、一般演題等
詳しくは、総会公式サイトをご覧ください。
https://jstp26.jpn.org/

(2019年10月24日掲載)


■協力:カフェ・ミュラー/取材:木立の文庫

まちかど学問のすゝめ 其の三

どうして? 科学が芸術を語るの??


●村井俊哉(木立のカフェ・マスター):1966年生まれ、京都大学医学研究科精神医学教室教授
●諏訪太朗:1972年生まれ、京都大医学病院精神科神経科助教
●植野仙経:1976年生まれ、京都大学医学研究科大学院生
●常連さん(木立のカフェ・ナビゲーター):1967年生まれ、勤務編集者を経て現在、出版プランナー

 

常連さん
常連さん

今日はいつものGROVING KITCHENを出て、京都市左京区吉田にあるカフェ・ミュラーさんにお邪魔しています。《木立のカフェ》マスター村井さんのお誘いで、すぐ近くの病院からお医者さんお二方が“おしゃべり”に来てくださいました。
ここカフェ・ミュラーさんは、ゲーテ・インスティテュート・ヴィラ鴨川(荒神橋上る)のなかにあって、河畔に憩う“ゆりかもめ”たちの喋り声も聞こえてきそうな、緑の多い素敵なカフェです。

カフェ・ミュラーの日本庭園
▲本場のドイツ料理が味わえるカフェ・ミュラーの日本庭園

 

ありきたりでないものをどう観る?

村井俊哉
村井さん

最近、まったく普通の生活人の目線での関心事、たとえば「人生」とか「子育て」とかのことを、脳科学の専門家がコメントするようになっていますね。そういうことをコメントするのは、一時は“文化人”だったこともあるかな? 芸能人化した文化人が…。
昔は精神科医も、たとえば「なぜニクソンはこうなったか」といった風に歴史上の人物についてコメントする役割を果たしていましたよね。“芸術”についてもそうです。なぜ、精神科医や脳科学者にそれが求められるんでしょうか?

植野仙経
植野さん

精神科医や脳科学者が芸術を語ることについては、僕はどちらかというと懐疑的で、芸術のことは芸術家に、芸術評論であれば評論の専門家に任せるべきだと思っています。精神科医は芸術のシロウトなんですから。
ただ、芸術の文脈では理解がむつかしい、それまでの芸術の歴史や流れから外れている、人やその作品を理解するときには、精神医学が役に立つことがあるかもしれないですね。

村井俊哉
村井さん

たしかに、それはそうだよね。歴史のなかで「浮いた」人というのは、たしかに… われわれが語るべきでしょうね。ノーマルな人の芸術に精神医学の小難しい理論を当ててもしょうがないわけです。ノーマルな人の発想と明らかに違うものが出てきたときに、それを理解する手立てとして、精神医学的な知識、例えば「自閉スペクトラム症の人たちがどういう感性を持っているか」という知識を使ってみるというのは、自然なことですよね。素手でそれを理解するよりもわかりやすい。

植野仙経
植野さん

いわゆる現代芸術は理解がむつかしいと思われがちだけれども、それまでの芸術の歴史やその作家が置かれた状況が背景にあって、その背景に照らし合わせることで、「なぜそのような表現がなされたのか」が理解しやすくなる。一方で、芸術の文脈のみでは理解がむつかしい場合には、精神医学的な知識は、理解するために役立つのかもしれませんね。

村井俊哉
村井さん

それにしても謎なのは、「精神科医が芸術を語るのは当たり前」と思われているじゃないですか。だけど、例えば耳鼻科医は芸術を語らないですよね。これはなぜなんですか?!

植野仙経
植野さん

たしかに、芸術をかたる耳鼻科医に比べると、芸術をかたる精神科医のほうが多そうですね。もしかすると、“芸術”も“精神の病い”も、どちらとも精神の所産だという前提があるからでしょうか。そういえば、精神医学の一分野に「病跡学」がありましたね。たとえばゴッホのような芸術家に関して、その人が患った疾患と創造行為との関連をあつかう学問ですが、そのおおもとには、狂気と天才ひいては創造性とになんらかのつながりを見てとる、という発想があったとか。

村井俊哉
村井さん

そうですね。そうした芸術家が生む“美”という事柄は、脳なのかどうかわからないけど「精神」の所産であって、腎臓とか肝臓の所産ではないということですね。だから、われわれ精神科医は「そういう意味で芸術をかたってるんだ」という、ちょっとした自覚くらいは要るよね。「かたっていて当たり前」みたいに思っているけど、対象としての臓器(脳)の特性として芸術と関連が深いという前提があって初めてわれわれは語る資格を与えられている、という自覚くらいは持つ必要がありますね。

植野仙経
植野さん

そういえば、“芸術”が精神医学と関連づけられる理由に、もう一つあるんじゃないでしょうか。「ある人が表現したものは、その人の精神のあり方を反映する」という前提があって、その前提のうえでバウムテストのような心理検査が精神医学の領域で用いられていた。そのために、他の診療科の医者に比べて精神科の医者が、表現物とそれを表現した人との関係を、ひいては芸術を語るという流れになったのではないでしょうか。

諏訪さんと植野さん
▲諏訪さん(左)と植野さん

 

浮いた人は浮いた人が診る?

村井俊哉
村井さん

ということを考えあわせると…往年の精神科医が盛んに“芸術”を語ったのは、芸術表現と脳や心の“ありきたりでない”あり方と関連が深いから?ということになるんでしょうかね。

諏訪太朗
諏訪さん

いやいや、ひょっとしてその頃の精神科医は、できる治療や検査が限られていて、「やることがなかったから、治療の対象でない“芸術”について語っていた」ということはないでしょうか?

村井俊哉
村井さん

わかりました。公式の答えは「腎臓ではなく脳あるいは心が芸術を生み出しているからである」。でも現実の答えは「腎臓内科よりも精神科医は暇だから」と (笑)。

植野仙経
植野さん

医者の地位はどうでしょう。昔は、「医者は教養人でもある」みたいな風潮は無かったでしょうか。そのような社会的な位置づけも影響していそうに思います。

村井俊哉
村井さん

ああ、それはありますね。昔は万能人みたいなタイプの人がいて、医者でもあるし芸術家でもあるような人がいましたからね。

諏訪太朗
諏訪さん

昔の医者には美術品のコレクターも多くいましたしね。

村井俊哉
村井さん

ということで“美”には、脳の所産であるというだけではなくて、もっと社会的な背景があることが見えてきましたね。医者の地位とか、教養人として期待される役割とか…。そうした「医者」としての社会的な特性に「精神科医」としての対象臓器の特性がからんで、精神科医が“芸術”を語ってきた、というのは確かでしょう。

 

個別への眼差をもういちど

諏訪太朗
諏訪さん

もうひとつ、芸術というものの捉え方にも違いがあったかもしれませんよ。その昔、西洋近代社会のなかではサロンや画家同士のコミュニティ、もっと固いものだと美術アカデミーによる教育などによってかたちづくられた「これが芸術」というものがある程度しっかりあったと思います。

村井俊哉
村井さん

ゲーテ、太平記、古典。そうした「教養」と呼ばれるものが、しっかりあった。いまの“病跡学”は「教養」じたいが変わって“芸術”も変わって、という抗うことのできない流れに漂う小舟みたいなものでしょうか。
先日の病跡学会で、伊藤若冲についての発表を聴いて、「若冲って、そんなふうに理解したらええんや」と腑に落ちたというのが、実は収穫でした。自閉症といった視点で見ると、彼の芸術は非常によく理解できるな、と。「自閉症という特性『の水脈』…」「〜『の傾向』がある」という巧妙な言い方だったのですが。

諏訪太朗
諏訪さん

いまどきは診察をしてもいない人について、「芸術家の誰それは何病だ」とアグレッシブに言ってしまうと、かなり批判されますよね。「この作品のこういうところは、〇〇症の徴候と考えても矛盾はないんじゃないか ?」というくらい。それがギリギリですよね。

村井俊哉
村井さん

しかしその一方で、個人情報保護法ができて現実の患者さんについてのいわゆる症例研究というのも論文にも出せなくなってきていますよね。そうすると面白いことに、ひょっとすると今、個人の細かいところ、「この方はこんな家庭環境で育って、そうなった」ということを精神科医が語るときに、意外と具体的なところを出せるのは“病跡学”の領域かも… ? ということになりませんか。昔の人についてだから、ある程度推測は入るけど。

植野仙経
植野さん

そのような「個別」を見る流れ、それも具体的な事例を詳細にみるということは、医学においてとても重要だとおもいますね。ただ個人的には、病跡学の面白さは、ゴッホのような個々のケースを詳細に検討しながら、もう一方では天才的な人物を集団的にまとめて疾患や体質ないし気質、今風にいえば遺伝的素因や性格傾向といった、いわば「一般」的なことと関連づけてゆくところにあったのではないかと思います。そして、それは当時の最先端の医学的アプローチでもあったのだろうと思うんです。それらの「個別」と「一般」を見るアプローチを現代的なものにアップデートしていくと、“病跡学”のような分野は面白くなるんじゃないかと。

村井俊哉氏
▲木立のカフェのマスターは村井俊哉氏(京都大学大学院医学研究科教授)

 

答えの求めかたを語りあおう

諏訪太朗
諏訪さん

病跡学に限らず、「芸術評論」という語りがあるかもしれないですね。読んでいてさっぱりわからなかった小説を、例えば臨床心理学の偉い人が書いた解説を読んでから読み直したらすごく面白かった、ということありません? そうした「学び方」の学びの場になるかもしれませんね。

植野仙経
植野さん

それは同感ですね。そのような解説や評論を書ける人は限られているとはおもいますが… ともあれ、そうした文章を読んでいるときには、アプローチの方法を学ぶという感じがしますよね。なにかの「答え」を学ぶというよりは、「答えの求め方」や「問いの立て方」を学ぶといいますか。

諏訪太朗
諏訪さん

それには肴があったほうがいいですね。絵とか? ケースカンファレンスのようなもので、その集団が共有している切り口から解釈の方法を探ると言いますか。上手くいくと、芸術を医者の視点から見ているところが面白いということになり、一般の方々が芸術のみならず、精神医学や脳科学を理解する糸口にもなるかもしれません。
ちなみにうまくいかないと、「専門家の言うことはよくわからん。役に立たん。」と、非専門の方からの興味をますます遠ざけることになる。昔は専門家による閉じたコミュニティを「よし」とする傾向もありましたが、現在では開かれていることがより重視されるようになってきていますよね。

植野仙経
植野さん

医学の視点からみた解釈が芸術や芸術家を理解する役にたつと思われたとしても、それは謎を解き明かした気になってもらっているというだけかもしれませんがね。ただ、芸術そのものとはまた違った視点からみることで、「これは興味深いポイントだ」といった着眼点を提供している、ともいえるかもしれません。

村井俊哉
村井さん

専門家としてのいろいろな経験とか知識とかが端々に感じられて、知的で教養に満ちていて…。それでいて、割と普通のことばでライブで話すので、脱線したりして…。こんな感じでもし仏像について語るとしたら、要するに「みうらじゅん」の世界ですね !

植野仙経
植野さん

そのような語りは、とても面白いですよね。物事の見方を知るというのは、いってみれば星々をただの「星の集まり」と見るのではなく、「星座」として見るようになることだと思うのですが、星々をみるさまざまな見方を手に入れる… それが教養ということだと思いますね。

常連さん
常連さん

なるほど… 一つひとつの星の物理的な成り立ちを考える学問もあれば、「星たちをどう観るか? 観えたものをどう束ねて眺めるか?」を考える学問もある。そんな色んな立ち位置から、脱線 OKの「ルール無用のジャングル」で語り合う、そんな場に《木立のカフェ》が成ればなって想いますねぇ。
さて、そんなで今日は、植野さん、諏訪さん、《木立のカフェ》に遊びに来てくださり、ありがとうございました!


お客さんの自己紹介

諏訪太朗
諏訪さん

諏訪太朗(すわ・たろう)
普段は統合失調症・双極性障害・うつ病など病態のうち、薬物治療が充分に効果を示さない症例の臨床を主に行っていますが、精神医学史や漫画に関する原稿を書くこともあります。

植野仙経
植野さん

植野仙経(うえの・せんけい)
精神科医として仕事をする傍ら、精神医学にかかわる概念的な問題にも関心があり、哲学的な文献を読んでみたり、いろいろと考えをめぐらせたりしています。

関連情報
第66回 日本病跡学会総会 開催のお知らせ
日時:2019年7月6(土)・7日(日)
会場:龍谷大学 深草キャンバス

「ところで、病跡学っていったい何?」(会長講演:村井俊哉)
ほかに特別講演、教育講演、シンポジウム、懇親会等
詳しくは、公式サイトで
http://www.kuhp.kyoto-u.ac.jp/~psychiat/pathog66.htm

(2019年6月30日掲載)


■協力 カフェ:カフェ・ミュラー/取材:(株)木立の文庫 編集部/編集:前回のお客さん

まちかど学問のすゝめ 其の二

真実はひとつだろうか? 後半
(2019年1月22日)


●村井俊哉
1966年大阪府生まれ、バックパッカーを経て現在、精神医学者
最新著『精神医学の概念デバイス』(創元社, 2018年)
●お客さん
1969年神奈川県生まれ、歴史学研究者を経て現在、臨床歴史家
●常連さん
1967年大阪府生まれ、勤務編集者を経て現在、出版プランナー

▲村井俊哉氏(京都大学大学院医学研究科教授)最新著『精神医学の概念デバイス』(2018年)
▲村井俊哉氏(京都大学大学院医学研究科教授)最新著『精神医学の概念デバイス』(2018年)

前回からつづく(2018年10月30日に収録されたトークの後半)

 

村井俊哉
村井さん

今日このカフェで話し始めたときは、「専門性の低さは“アクセスしやすさ”にある」と思っていたんですけど、こうして考えていくと、「専門性のない分野とは“いろんな意見があるということが当然だ”と思われているような分野だ」という見方もできるかもしれませんね。「自分にはよくわからないけど答えはひとつのはずだ」というような分野には、人はあまり口を挟まない。「それは専門家に任せておこう」と思いますよね。

常連さん
常連さん

人間に関することでも、「遺伝子」の話は専門家に任せるけれど、「気持」の話は素人のわたしでも口を挟めそう、とか。

村井俊哉
村井さん

歴史なんかは微妙で、最終的には真実はひとつのはずなんですけど、見つかっていない部分も多いので、けっきょく解釈が勝負となる。

常連さん
常連さん

文芸批評などでも客観性・専門性は成り立ちにくいですね。「あなたは批評してもいい」という暗黙の基準を満たした人が批評の専門家なんでしょうか。ネット社会もそうですよね。インフルエンサーと位置づけられた人だったら発言が尊重される、みたいな。

村井俊哉
村井さん

医師免許のような資格もないですからね。分かれ目は、ファンの多さと説得力だけですね。あとは、言っていることの全体的な「整合性」でしょうね。たとえば、作品と自分の言っていることとが整合性をもっているか?

お客さん
お客さん

毎回毎回、違うことを言っていないとか。

村井俊哉
村井さん

あと、発言者自身が何かを“クリエイト”しているかどうか。たとえば、昔の有名な哲学者は割と思い切ったことを大雑把に語ったじゃないですか。それに対して、そうした哲学者について研究をしている人は、ものすごく精確性を重視しますよね。

お客さん
お客さん

そう、「哲学学者」ですよね。でも、そこに“クリエイト”したものを乗せている人は、その人自身が「哲学者」と見なされる。

村井俊哉
村井さん

おもしろいじゃないですか。

常連さん
常連さん

精神医学にも、精神医学者と精神医学学者さんがおられたり……?

村井俊哉
村井さん

精神医学史学会とかでは、事実を丹念に調べた報告がたくさんあります。ただ、そうして調べたことが、現代の精神医学に対してどういう影響をもっているかを述べることに対して、例えば患者さんへのスティグマ克服に向けて我々は歴史から何を学ぶのかといったことへの意見表明という点で、研究者らはちょっと慎重すぎるように感じることはあります。せめて、一般読者向けにその成果を伝える場合には、調べたことだけ書かずに、思い切った意見を言ってもらいたいと思うんですよ。

お客さん
お客さん

どこかしら「意見を言ってしまうと、専門家じゃなくなっちゃうかも」っていう怖さがあるかもしれない……。

村井俊哉
村井さん

その「専門家」という言葉には、たぶんいろんな意味があるんでしょうね。いま、話しながら考えてきたのは「中立性」という言葉の意味なのですが、“わからなさ”みたいなものもやはり「専門度」の基準ですよね。素人の“アクセスしにくさ”ということで、今日、話し始めたときの最初の直感に戻ることになりますが……。

▲いろんな意見の言いやすさ、アクセスのしやすさをめぐって、村井教授
▲いろんな意見の言いやすさ、アクセスのしやすさをめぐって、村井教授

 

“中途半端”をもういちど

常連さん
常連さん

前回の《カフェ》という場面のテーマでいうと、唯一の真実かどうかわからないことが、対話のなかで思いつくままに語られていく場、そんな《カフェ》の意味が、話題になりましたね。

村井俊哉
村井さん

昔は、精神医学の専門家はけっこう“思いつくまま”に語っていたと思うんですけど、語られなくなったのは、専門性に対する疑問がよく突きつけられているからじゃないでしょうか。「いい加減なことを言ってるんじゃないのか」という疑念に対して防衛的にならざるを得ない。だから「私たちの言っていることはこんなに中立的で、私たち専門家はそうやすやすとは自分の“思いつき”を口にしないのだ」という態度をとることになる。
患者さんは医療保険で病院に来られているし、ということは精神科医も国のお金で仕事をしているわけです。そして当然ながら「専門性」とか「中立性」を持った専門家になりなさい、とこれまで養成されているので、そうした態度になるのも当然のことですよね。
それでも、精神医学が本来扱っているもの自体、つまり“こころ”とは、素人でもアクセスしやすいものですよね。それからもうひとつ、精神医学は「自分の人生はどうあるべきか」といった話にも関係してきますよね。こうしたことについては色んな意見があるのがむしろ当たり前であって、「専門性」を持ちにくいはずなのです。ところが精神科医は「専門性」という鎧でガードしなければならない立場にある。
そうしたことを考えていくと、この不均衡のなかでストレスが溜まっている精神医学の専門家のこころの“オアシス”として、こころの“バランサー”として、専門家が専門性を離れたような意見を気軽に言うような場所というのがあってもいいのかなと思っています。《カフェ》が大事というのは、そういうところですね。

常連さん
常連さん

歴史の畑でも、いろんな談義が自由に交わされるフィールドがあったりします? 学会とは別に。

お客さん
お客さん

いやぁ、どうかな。昔は、専門家と専門家でない人の“あいだ”みたいな人がたくさんいて、さっきおっしゃっていたような『歴史散歩』が書けるような中学高校の社会の先生とか、そういう層が割とたくさんいたんですけど、いまはちょっと、そういう層が失われているような気がしますね。いまも昔も、「もの知り」ということではなく直接対象を観たり集めたりしている人は強いです。
昔は理科などでも、蝶を集めているとか星を観るのが好きだとか、半分は学者みたいな中学高校の先生がいっぱいおられたと思うんですけど、いまはすごく減っています。そういう層こそが、「専門家」からすれば、最高の応援団でもあり、ある意味では逆にいちばん厄介だ、ということかもしれませんが……。

村井俊哉
村井さん

“中途半端”というのが難しくなっているのではないでしょうか。いま、言われたことは、精神医学においても、けっこう真理をついていると思います。中間的な人たちが減ってきているのを感じます。なんでもかんでも「専門家に聞け」となるのも、やはり違うなという気がするんですよねえ。

お客さん
お客さん

あの層がけっこう大事だったんじゃないかと、わたしは思います。

常連さん
常連さん

心理学の本への“中間層”のニーズが減っているのもそこかもしれませんね。ちょっと小難しい本は、本当の素人の人じゃなくて、割と本を読むのが好きな層がないと成り立たないじゃない。いまは売れるのはそういう“中途半端”な読み物ではなくて、「こうすれば治る」みたいなハウツーもの、それこそダイエット本とか、コーチングとか。自己啓発みたいなものとか、そんなふうになってきていて。

お客さん
お客さん

歴史の分野でも、「信長の経営術」とかいうほうが売れるのかな。『歴史散歩』みたいな感覚が薄れているかもしれないですね。その領域を、実際に歩くという意味だけじゃなくて「歴史の世界を遊ぶ」というような感覚が…。
歴史だけじゃなくて、理科もそうですし、文学とかでも、たぶん中学高校の先生が「星の世界」とか「文学散歩」とかいう一種の教養書のようなものを書いている文化というのがあったと思うんですが……。

常連さん
常連さん

それこそ「本屋さん散歩」もなくなってますしね。

村井俊哉
村井さん

本屋でウロウロすること自体が楽しかったんですけど…… 本を買うというよりも。

お客さん
お客さん

目当てのものをというのではなくて、「本屋にいる」という時間がありましたからね。

▲精神医学でも歴史学でも、学問には専門家とアマチュアによるアプローチがあった
▲「まちかど学問」から”中途半端”の復権を夢みる、村井教授とお客さん

 

ウロウロ“探索”のすゝめ

村井俊哉
村井さん

確固たる目的があっての研究ではなく、答えがひとつでもなく中立的でもない、“中途半端”な「ぶらぶら散歩」ということから、いま考えてみると、じつは今日のいちばん初めの「自分の足で歩く」という話題にもつながりそうなんです。

お客さん
お客さん

出張の前後に東海道8kmを2時間かけて歩く、という……!

村井俊哉
村井さん

最近どこかで読んだある哲学の考え方というか、誰でも思いつくことではあるんですけど。われわれは、時間とか空間とかでできた三次元か四次元の「箱」のようなものの中を移動しているというイメージをなんとなく持っているじゃないですか。でも実際には、こちらの経験の側から考えると、「われわれが経験したり動いたりするからこそ、変化があるからこそ、時間があるんだ」という考えがあるんです。
そう考えると今度は「時間だけなく空間も、主観から構成される」ということになりますよね。もちろん止まっていても空間はあるんですよ。自分が止まっていても、近距離に視野を合わせたり遠距離に合わせたりで空間を探索することができますからね。でも、基本的に空間は、そこに決まった三次元の地図があるというよりも、「われわれが動いて発見していく」という見方もできますよね。
精神医学では主観と客観を行き来してそういう見方をするのが得意なので、「時間」については、そういう観点からの優れた論文もいくつも出ています。客観的な時間に対して主観的な時間というものを見直そうという感じの……。このことは空間についても同じことで、移動というのはいちばん「空間」を主観で認識しやすいですよね。

お客さん
お客さん

動いて地図を作っているようなものですよね。自分で足を運んでナンボ、というか、わたしが歩いて初めて空間の大きさが決まってくる、というか。

村井俊哉
村井さん

理屈だけで言うと、googleのストリートビューを見ていても同じものが見えるはずなんですけど、自分で行ったり能動的に動く探索というものがあって、それはとても大事だと思います。歴史ある町のおもしろさというのは、そこにありますよね。過去の時間軸が加わるので、現代だけでなく昔どうだったかを想像するとか……。この探索となると、断片だけ取り出してもおもしろくないです。ある時代のあるエピソードだけ取ってきて、次はまったく別のエピソードに飛んで、などと調べていってもね。

常連さん
常連さん

いまはインターネットから情報を引っ張ってくる。移動するときも「次はあそこを左に曲がりなさい」というように誘導されて行き着くわけですが、それは探索ではなくて、ゴールへの移動。書物の役割もそんな風に変わってきているんじゃないかなぁ。この事柄についての知識を得て、次はあの事柄の情報を得る、という感じに……。昔はかなり“探索”的な読書を愉しんでいたのが、ぼく自身も懐かしいです。

村井俊哉
村井さん

たとえばこの本(『精神医学の概念デバイス』)との関係で言うと、精神医学というのは「概念」を探索しているところがあって、それがおもしろいわけです。ある概念からある概念にたどり着き、また次の抽象概念に移動して、という風に探索しているわけです。カントみたいな感じに「基本概念がまずあって、世界はこのように構築されている」というのではなくて、実際には概念についても、われわれは「概念の空間」を探索をしているわけです。精神医学のおもしろさは“探索”のおもしろさにあるのかもしれませんね。探索しているうちにだんだんその「空間」に親しくなってくるので、ますます関心が深まっていく。
最近、それがなかなか難しくなっているのは、ネット時代にあって、観光とか歴史とかに対する興味が薄れていることと同じかもしれないですね。

常連さん
常連さん

ネットでも「サーフィン」というスタイルで“サーチ”はしているんですけどね。
たしかに知識は増えていきますが、何が違うかというと……。

お客さん
お客さん

違うのは、足を使うことかな。

村井俊哉
村井さん

五感はけっこう大事で、それが制約条件になるのがよいのかもしれませんね。行かないと出来ないし、行けない所には行けないですから。いきなり日本からブラジルに飛んだりはしないので、制約条件がある。ネットの場合、その制約条件が希薄ですよね。旅行では完全に五感が頼り。あるいは……自分の五感が制約条件になって、からだに入ってくる感じでしょうか。

常連さん
常連さん

からだに入る、ねえ。

村井俊哉
村井さん

旅行に行っても、覚えていることってほとんど、道に迷ったとかいうことですよね。史跡とかを見に行ったあとも、「あそこで苦労した」とかばかり覚えていて、肝心の目的地はそれほど記憶に残らないですよね。

お客さん
お客さん

途中のアクシデントのことばっかり、からだの感覚として滲みついて残っている。

村井俊哉
村井さん

専門領域の話もやっぱりそういうもので、「これが正解」というのがポンとあって「これを読んでおいてください」と言われるよりも、ウロウロ探索しているときの堂々巡りのほうが印象に残る。

常連さん
常連さん

ただし、空回りではなく……。

村井俊哉
村井さん

酒の入った場では、酔っていない人から見たら完全に空疎な会話がでぐるぐる回ってしまいますよね。カフェぐらいがいいです。たぶん、いま《GROVING BASE》でのトークのほうが、学者が飲み会で話していることよりは意義があるんじゃないですか。

お客さん
お客さん

答えがひとつでない“散歩トーク”が、カフェの醍醐味ということ? かな。

カフェでのトークは、からだで何かをつかむ「まちかど学問」にお似合い
▲カフェでのトークは、からだで何かをつかむ「まちかど学問」にお似合い

■協力 カフェ:GROVING BASE/取材:篠田拓也・但馬玲/編集:Office Hi