まちかど学問のすゝめ 其の五-B

《木立のカフェ》はヴァーチャルでリアルな喫茶店。マスターの村井俊哉さんが京都市内の喫茶店をぶらっと訪れて、お客さまと「こころとからだ」「文化・社会」について語り合います。

暗がりでの捜し物


● 村井俊哉:1966年生まれ、京都大学医学研究科精神医学教室教授
● 齋藤清二:1951年生まれ、立命館大学総合心理学部教授

常連さん
常連さん

今回は、2019年堀川今出川にオープンした tsubara cafe(つばらカフェ)にお邪魔しました。お客さまは近くにお住まいで、当サイトにエッセイを連載中の齋藤清二さんです。1803年創業の老舗「京菓匠 鶴屋吉信」プロデュースの「はんなり」茶寮で、和菓子とともに “まちかど学問”談義は心行くままに・・・。

tsubara cafe
▲庭に面して明るい tsubara cafe の特等席で

アンチテーゼのハイジャック?

村井俊哉
村井さん

今日は齋藤清二さんとの “まちかど学問” 談義を愉しみにしています。齋藤さんは医師でありながら、医療のあり方そのものを捉え直す営みを続けてこられているので、精神医学、精神科医療にもからめて面白い話ができそうです。
まずは齋藤さんといえば「ナラティブ」ということですね。

齋藤清二
齋藤さん

「ナラティブ」という視点はいまでこそさまざまな領域に浸透してきていますが、そもそもナラティブ・ベイスト・メディスン(NBM: narrative-based medicine)というムーブメントが出てきた背景を見ておきましょう。そこには、エビデンス・ベイスト・メディスン(EBM: evidence-based medicine)が世界中に広まって、それがちょっと広がり過ぎというか、行き過ぎている感じがあって、それに対するアンチテーゼという意味あいがあったんですね。
もともとNBMを生み出したトリシャ・グリーンハル(Trisha Greenhalgh)などは、英国でいちばん売れているEBMの本を書いている人です。彼は、どうもEBMが変な方向へ行っているので、それをちょっと補償しなくてはならんということで、ナラティブを強調したというのがあります。ちなみにそのグリーンハルさんはいま、NBMも一段落したので、またEBMのほうに戻っています。

村井俊哉
村井さん

なるほど。僕もEBMが最初に出たときはすごく面白く感じました。特に精神医学は、実証的な姿勢にアンチな人が圧倒的に多かったので、EBMが登場した頃には、そういう状況に一石を投じて引っくり返してやろう! というような過激な面がありましたね。

齋藤清二
齋藤さん

そうです、そうです。

村井俊哉
村井さん

過激な人は、過激なうちは面白いんですけどね。それで定職を得たりその道の権威となったり、というふうになってくると……。

齋藤清二
齋藤さん

実は、心理の世界でそのパロディみたいなものが起こっちゃっているわけです。一時期、医学におけるエビデンス・ベイストの思想みたいなのを心理の世界へ持ち込んで、しかも、それをかなり歪めた形で政治的に利用したというのがあります。

村井俊哉
村井さん

はい。

齋藤清二
齋藤さん

エビデンスの考え方を持ち込んだこと自体が悪いわけでもないんですけど、それがあまりにもひどい。
アメリカではある程度それが修正されるのですが、日本ではぜんぜん修正されない。それを、私は「『エビデンスに基づく実践』のハイジャックとその救出」という論文を書いて、半分冗談で『こころの科学』という本に載せたら、やっぱり一部の方が「我が意を得たり」ということで、「よく書いてくれました」というような反応がありました。
でも、その人たちの考え方も僕とは違う。要するに僕は、エビデンスが気に食わないわけでは全然ない。そこは非常に複雑な思いなんですね。

村井俊哉
村井さん

今みたいなことを言っていると、EBMに反対派の人が応援してくれることもありますが、そういうことではないと、そうした意見にもまた反論したくなってしまいますね(笑)。

齋藤清二
齋藤さん

どちらかというと極端な人が多いので、その人がバーンと場を読まない発言をすると、炎上したりとか……。実際にTwitterを見ていると、今でも、そういう案件はとても多いです。僕から見ていると、どちらもべつに間違ったことを言っているわけではないんだけれども、完璧にボタンの掛け違いになっちゃって、議論は噛み合わない。

村井俊哉
村井さん

冷静な議論にならないんですね。

齋藤清二
齋藤さん

臨床心理学なんかでは、それなりのバランスをとって、多少いろいろ言う人はいても、それぞれの言い分を、できるだけ誰をも圧迫せずに出してもらって、「じゃ、この目の前のクライエントにどうするか」というあたりで落としどころをつかんでいくということは、ある程度できそうな気はしているんですよね。そこに、議論をする場と信頼関係のある安全な場がないとだめなんですけれども、具体的に「この人に対してどうするか」という議論については、大体それなりのところに行くんですね。

村井俊哉
村井さん

なるほど。

齋藤清二(立命館大学総合心理学部教授)
▲「信頼関係のある安全な議論の場があれば…」と齋藤先生(左)

ひろがる暗い海と灯台

齋藤清二
齋藤さん

例えば「多元主義」という視点を村井さんは紹介されていますね。論理的な議論をしていると相容れないんだけれども、それは認めたうえで、どうやって実際にやることを調整していくか、みたいなところは大事なのではないでしょうか。

村井俊哉
村井さん

適材適所で最も優れた方法を使うべき、という「多元主義」は、実用的で優れた考えた方で私は共感しています。ただ、多元主義には一つ弱点があります。どういった時にどの方法が適材かを判断する際には、なんらかの基準が必要なわけですから、そうだとすると、多元的ではなくて、結局は一元的、ということになってしまうのです。だから多元「主義」というのは論理矛盾である、という見方もあるのです。
ただ、齋藤さんがおっしゃったようなプラクティカルという意味では、つまり、相容れない考え方もとりあえず両方置いておくというという意味では、多元主義はぴったりです。実は、先ほど言った論理矛盾のように見える点も私からすると矛盾ではない、と思っているんですけど。
ただ、それを理屈っぽく説明しちゃうと、聞いている人はしんどくなるので、とりあえず多元主義とは、「異なるものを仲良く同居させておいたらいいんだ」という考えです、と説明するようにしています。

齋藤清二
齋藤さん

普通「見解の相違」としてしか認識されないので、意見が一致しなくても、相矛盾していてもいいんだというように合意に持ち込むというのは、ひとつの有効な方法だと思うんですね。そうでないと、そこの議論だけで疲れ果ててしまう。

村井俊哉
村井さん

人間の心について私たちが手にしている知識は極めてわずかなことで、いってみれば「暗黒の海」のようなものです。先ほどのEBMですが、こうした暗黒の海のところどころにある灯台みたいなものだ。そういうイメージで考えればどうでしょうか。

齋藤清二
齋藤さん

はいはいはい。

村井俊哉
村井さん

その暗黒の海を、俺はこういうふうな航海術で行くとか、俺はこれで行くとか言って、まあどっちも、間違いか合っているかわからないけれども、やっているうちに、「ああ、こっちが正しかった」とわかる。そういうふうに考えれば、何の不思議もない。
ところが、サイエンスとはもっとプレサイス(precise)に物事を予測できるもの、たとえば物理学モデルのようなものだと私たちがイメージしてしまうと、異なる航海術をとる人の間で船出する前から喧嘩になってしまう。たとえば、「〇〇精神療法」と「△△精神療法」のどちらが科学的に優れているか、などと堅苦しい言葉で言っていても、どういうふうに言葉かけをしたら相手の人はちょっと元気になってくれるだろうか、といった、そういうことですものね。

齋藤清二
齋藤さん

うんうん。

村井俊哉
村井さん

そんなふうに試行錯誤でやっているわけです。そのときに、傾聴中心で行くのか、多少踏み込んでこちらも意見を述べるのか、どっちがいいんだと。こうしたことについてエビデンスをもとめて大規模な臨床試験に落としたところで、まあ出たとしても、「こういう研究の枠組みではこういう結果が出ましたよ」というだけのことですね。いまわれわれが航海しているか泳いでいる暗黒の「知識の海」みたいなイメージが、こうした結果を解釈する際のベースにあればと思います。

齋藤清二
齋藤さん

哲学というよりは、「一神教なのか多神論なのか」というような宗教的なメタファーのほうが近いような感じですね。ひとつの原理ですべてが終わっているのが一神教のイメージなんですけれども、いまの「知識の海」には、多神教的なイメージのほうが近いですよね。

村井俊哉
村井さん

多神教って、何か神さんがそこらじゅうにいるみたいですが、われわれが泳いでいる海というか、イメージというのは、その神様に滅多に出会えなくて……。たまに、お地蔵さんとかが助けてくれますが……またしばらくは、もう闇のなかで行かないとしゃあない。

齋藤清二
齋藤さん

だから臨床実践は、これはおそらく精神科でも身体科でも僕はあまり違わないように思うんです。「からだのことってスッキリわかっているけれども、こころは見えないからわからないんだ」という比喩を、心理の人はよく使われるんです。
けれども、僕は全然そう思っていなくて、「からだ」だってぜんぜんわかっていない。不確実で、複雑で、ぐじゃぐじゃしていて、予測してもそれは当たるかどうかもわからない。海の中を泳いでいるときに、まあちょっと確からしいぞというのが、こうポッと……灯台のように……。

村井俊哉
村井さん

確実に治る病気もときどきありますけど、本当にときどきであって。

齋藤清二
齋藤さん

はいはい。しかも、それは、どっちかというと、確実に治る病気って、ある意味、自然経過といいますか、待っていれば治るというほうが多いですよね。ある経過を邪魔しないでいれば。ところが、そのときに何か複雑なことがたぶん起こっている。例えば炎症なんかそうですよね。最初にばーっと浸出液が出て、好中球が走ってきて、そのあとフィブリンが出てくる。実は複雑なことなんだけれども、怪我をしたところが、二日目には腫れるけれども、それがだんだん引いていって、一週間で治るというストーリーとして予測できるから、みんなびっくりしない。

村井俊哉
村井さん

そこで起こっているメカニズムを全部明らかにしようとすると、ものすごく大変なことなんだけれども、大雑把に言えば、ひとつの定型的なストーリーを利用しているからわれわれは医者をやっていけるので、それをしなかったら、もうドツボにはまるわけですよね。

齋藤清二
齋藤さん

そうです(笑)。

村井俊哉
村井さん

だから、すべて明らかにしないと医学はだめなんだとか、ちょっとでも不確実なことがあったらそれはだめなんだみたいなほうに行っちゃうと、むしろ、普通にやっていれば何とか泳ぎ着けるものが泳ぎ着けられなくなっちゃう。

齋藤清二
齋藤さん

そうですよね(笑)。

齋藤清二(立命館大学総合心理学部教授)
▲こころだけでなくからだも不確実…「自然経過」そのものが複雑

 

航海術のまえに

齋藤清二
齋藤さん

心理療法でもそうだと思います。冷静に見て行くと、だいたいどんな心理療法も、優秀なセラピストが丁寧にやっていれば、半分ぐらいの人は確実に良くなる。確実というか、半分ぐらいは良くなると。でも、そのうちの三割ぐらいは実は、何もしなくても良くなるという人で(笑)、誰がどうやっても良くならない人というのがやっぱり二、三割いる。そういうところはコンセンサスで、あとは、その時その時に、どのぐらい状況に合わせた何かができるかみたいなことです。
暗い海を泳いでいる感覚で臨むと、こういうことが全体として見えるわけですよね。にもかかわらず、「認知行動療法以外は心理療法ではない」と言う人もいれば、「認知行動療法は、あんなのわざわざ人間がやることではない」みたいなことを言う人もいます。これは、どう考えても不毛でしょう。その辺はもう少し全体像を、あまり先鋭的にではなく、「こんなものなんだよ」というのを示してあげないと、いちばん困るのは、これから学ぼうとしている学生さんだろうと思うんですよね。

村井俊哉
村井さん

下手をすると、全人的に見るというのと、科学でやるというのが対立しちゃって、せっかく全人的にといっても、またそれと何かが対立するみたいなことで、きりがないんですね。なので、最初から「多元的なんですよ」というのはひとつの方便かもしれません。結構「しょせん暗い海だから」みたいな見方がしっくりくるんじゃないかなという思いがあります。

齋藤清二
齋藤さん

海のたとえで行くと、共通部分というのは、どの流派の「航海術」を使うとしても、「船というもの」はこうやらんと動かんよ、ということですよね。

村井俊哉
村井さん

(笑)そうそうそう。そう。

齋藤清二
齋藤さん

でも、ときどき、船ってこうやらんと進まんよねというのと「逆」のことをやっている人が、たまに、いはりますよね。

村井俊哉
村井さん

たまに、いはりますね。たぶんその「航海術」の流派の違いというものは、ある種の気象条件のときはある航海術でうまく乗り切れて、別の条件のときは別の流派の航海術が危機を乗り越える。でも、どの条件のときにどっちの流派で対応するかというところまでは正確にわかっていないので、たまたま今日の天候はこうだったので、日本流のチームがヨットのレースで勝ったけれども、今回の条件を日本の航海のあれにはもうちょっと合っていなかったかなというのはよく言うような感じなんですかね? それで、ところどころに目印になるような灯台みたいなものがあったりとかする。でも、そうは言っても、何遍やっても圧倒的な差があってオーストラリアチームが勝つ。その航海術が世の中を席巻する。そういうことが医療でもあります。

齋藤清二
齋藤さん

これもメタファーですけれども、ソリの競技でワックスを間違えると、全然だめ、ものすごく実力のあるところでも、ワックスを塗り間違えると全然だめになっちゃうみたいなことってありますよね? たかがワックスなわけですね。だけど、やっぱりそういう小さいディテールが非常に結果を左右することはある。
けれども、そこばっかりに注目してしまえば、それでは、じゃあ、ソリの競技はワックスだけで成り立っているのかという話になっちゃうわけです(笑)。精神療法の技法ってそれみたいなものですよね。「確かに、それはそれで大事なんですが、まずそもそもやっぱりその基本技術があるか、という……」(笑)。ソリになってさえいないようなものに、いくらワックスを投じたってだめなので。

村井俊哉
村井さん

ちょっと研究の話に戻るんですけれども、その根本になっているところって、実証的なデザインがつくりにくいんですよね。基本になっているところが共通だからこそ、細かいところの実証デザインができるので。
ただ、どうしても医学全体の問題として「疾患があって、それを診断して、治療という介入を課す」というパラダイムがある。ところが、実際には、何かよくわからないけれども、「一緒にいたら治る」ということがあったりするわけですね。それって、非常に「デザイン」にしにくいですね。
なのにどうしても、やりやすいところのことが目立つし、評価される。いわゆる「夜の駐車場で落とし物をしたときに、街灯のあるところだけを捜す」ということですよね。

齋藤清二
齋藤さん

ああ、そうです。わかりやすい。

村井俊哉
村井さん

明るいところだけを捜しているということをやっているということは、自分ではわからないから、なんで暗いところを捜さないの? という話なんだけれども、しかし……明かりがないから捜せないんですね。
齋藤さんたちのされている分野もそうですし、僕らのところでもそうですけれども、精神医学は重症でない精神疾患といわれている気分障害とかはもう、「医療モデル」以外のモデルで社会が扱ったほうがトータルとしていいかもしれない、という考えさえ可能なわけです。
僕自身は医学の側の人間なので、医学モデルで扱うことを当然というふうに普段は語っているわけですが、そうした考え方に問題があるかないかということは、医学モデルのなかでやっている研究デザインのなかでは出てこないわけです。

齋藤清二
齋藤さん

はい、そのとおりなんです。ただ、自分にとっては耳の痛い話なので、あえてそういう発想をするためには、どうしても、ちょっと荒療治といいますか、外からの、あるいは、人類学的な視点とか、そういうものがないと、やっぱりそういう発想ってそもそも出てこないんですね。

村井俊哉
村井さん

ええ、うん。

村井先生
▲「夜の駐車場で落とし物をしたときに、街灯のあるところだけを捜す」になってしまいがちだと村井先生

 

耳が痛いほうに耳を傾ける

齋藤清二
齋藤さん

「だから、「医療がむしろ病気をつくっているんじゃないか」という発想は、反精神医学とかいうことではなくて、常に考えていなければいけないことだと思っています。

村井俊哉
村井さん

僕は今でもすごく残念なのですが、反精神医学って、今日非常に評判が悪いんですね。昔は評判が良かったんですけど……。そういう時代に正統な精神医学の側にいて苦労した人たちは、反精神医学のことを黒歴史として全否定するわけです。

齋藤清二
齋藤さん

なるほど、なるほど。

村井俊哉
村井さん

ただ、そういう時代に苦労した先輩が反精神医学のことをそのように言うのを、下の世代の人が、単純に受け売りで、けなしている場面をみることがあるんです。やっぱり自分で一度ちゃんと考えたほうがいいですね。自分でそれなりに考えると、そう簡単に論破できない話って、結構あるんです。

齋藤清二
齋藤さん

はい、はい、はい、はい。

村井俊哉
村井さん

鵜呑みにしてやっているのはリスキーです。そういう、人の話を鵜呑みにしてずっとやってきた人って、人生のあるときに、たとえばプロモーションがうまくいかなかったとか、家庭で辛いことがあったとか、何か自分の人生の危機に遭ったとき、突然、反医学とか、反精神医学とか、あるいはスピリチュアルやオカルトに唐突に向かうんですよ。
反精神医学やスピリチュアルが悪いということではなくて、唐突に大きくぶれてしまうことが何かおかしいと思うわけです。若いときに、ちゃんと自分自身で両方考えて、「こういうよい面もあるいけれどもこういう問題もある」といったことを考えた経験のある人は、のちに人生の危機にあったとしても、唐突に大きくぶれることはありません。

齋藤清二
齋藤さん

メタで考えている限りはぶれないですよね。なるほど、やっぱり免許を持っている者がそういうことを言い出すと、周りに対する害が大きいですね。
私が今所属している学部ですと、人類学とか社会学との教員を採用していますし、そこである意味「反-心理学」風の話も、学生は聴く機会があります。教えている方々が「反-心理学」なわけではないのですが、考え方としては、いわゆる批判理論みたいなものがしっかり学べるので、まあある意味、そういうのはいいと思うんですね。

村井俊哉
村井さん

いいですね。耳が痛いものを排除しちゃうと、あとが逆に危ない。

齋藤清二
齋藤さん

純粋培養では、しっぺ返しが怖いですものね。

村井先生と齋藤先生
▲本来は複雑な臨床の現場をいかに若い臨床者たちに伝えていくか……熱く語り合う

マスター:村井俊哉(むらい・としや)

1966年生まれ、京都大学医学研究科精神医学教室教授
最新著書『統合失調症』(岩波文庫 2019年)
●京都大学医学部附属病院 精神科神経科 公式サイト
https://www.kuhp.kyoto-u.ac.jp/~psychiat/


お客さま:齋藤清二(さいとう・せいじ)

1951年生まれ、立命館大学総合心理学部教授
新潟大学医学部医学科卒。英国セントメリー病院医科大学研究員、富山医科薬科大学第3内科助教授、富山大学保健管理センター長・教授などを経て、2015年より現職
最新共訳書『ナラティブ・メディスンの原理と実践』(北大路書房 2019年)
●当サイトにて、リレーエッセイ《こころとからだの交差点》連載中!
第二話 こころとからだの関係
第五話 誰が《心身症》をコロしたのか?

(2020年3月10日掲載)


■協力 カフェ:tsubara cafe(つばらカフェ) /取材:木立の文庫 編集部

まちかど学問のすゝめ 其の五

創業 1803 年の老舗「京菓匠鶴屋吉信」プロディ―スの茶房、tsubara café の店内
▲2019 年に堀川今出川にオープンしたオープンした「はんなり」スペースでの“まちかど学問”のはじまり~はじまり。

《木立のカフェ》はヴァーチャルでリアルな喫茶店。マスターの村井俊哉さん(京都大学精神医学教室教授)が京都市内の喫茶店をぶらっと訪れて、そこに集う人たちと「こころとからだ」「文化・社会」について語り合います。
今回は、カフェトークのお客さま、齋藤清二さんのお住まいの近く、堀川今出川tsubara café(ツバラカフェ)にお邪魔します。創業1803年の老舗「京菓匠鶴屋吉信」プロディ―スの茶房です。2019年オープン「はんなり」スペースでの“まちかど学問”となります!

 

暗がりでの捜し物


● 村井俊哉:1966年生まれ、京都大学医学研究科精神医学教室教授。最新の著書に『統合失調症』(岩波文庫, 2019年)がある
☆ 京都大学医学部附属病院 精神科神経科 公式サイト
https://www.kuhp.kyoto-u.ac.jp/~psychiat/
● 齋藤清二:1951年生まれ、新潟大学医学部医学科卒。英国セントメリー病院医科大学研究員、富山医科薬科大学第3内科助教授、富山大学保健管理センター長/教授などを経て、2015年より立命館大学総合心理学部教授。最新の共

訳書に『ナラティブ・メディスンの原理と実践』(北大路書房, 2019年)がある。
☆ 木立の文庫webサイト《こころとからだの交差点》にて「リレーエッセイ」連載中!
https://kodachino.co.jp/dialogue/intersection-of-mind-body/mind-body-2/

アンチテーゼのハイジャック?

テーブルをはさんで村井先生と齋藤先生
▲2019 年にオープンした「はんなり」スペースでの“まちかど学問”のはじまり~はじまり。
村井俊哉
村井さん

今日は齋藤清二さんとの “まちかど学問” 談義を愉しみにしています。齋藤さんは医師でありながら、医療のあり方そのものを捉え直す営みを続けてこられているので、精神医学、精神科医療にもからめて面白い話ができそうです。まずは齋藤さんといえば「ナラティブ」ということですね。

常連さん
常連さん

ナラティヴという視点はいまでこそさまざまな領域に浸透してきていますが、そもそもナラティブ・ベイスト・メディスン(NBM: narrative-based medicine)というムーブメントが出てきた背景を見ておきましょう。そこには、エビデンス・ベイスト・メディスン(EBM: evidence-based medicine)が世界中に広まって、それがちょっと広がり過ぎというか、行き過ぎている感じがあって、それに対するアンチテーゼという意味あいがあったんですね。もともとNBMを生み出したトリシャ・グリーンハル(Trisha Greenhalgh)などは、英国でいちばん売れているEBMの本を書いている人です。彼は、どうもEBMが変な方向へ行っているので、それをちょっと補正しなくてはならんということで、ナラティブを強調したというのがあります。ちなみにそのグリーンハルさんはいま、NBMも一段落したので、またEBMのほうに戻っています。

村井俊哉
村井さん

なるほど。僕もEBMが最初に出たときはすごく面白く感じました。特に精神医学は、実証的な姿勢にアンチな人が圧倒的に多かったので、EBMが登場した頃には、そういう状況に一石を投じて引っくり返してやろう! というような過激な面がありましたね。

常連さん
常連さん

そうです、そうです。

村井俊哉
村井さん

過激な人は、過激なうちは面白いんですけどね。それで定職を得たり、その道の権威となったり、というふうになってくると……。

常連さん
常連さん

実は、心理の世界でそのパロディみたいなものが起こっちゃっているわけです。一時期、医学におけるエビデンス・ベイストの思想みたいなのを心理の世界へ持ち込んで、しかも、それをかなり歪めた形で政治的に利用したというのがあります。

村井俊哉
村井さん

はい。

常連さん
常連さん

エビデンスの考え方を持ち込んだこと自体が悪いわけでもないんですけど、それがあまりにもひどい。アメリカではある程度それが修正されるのですが、日本ではぜんぜん修正されない。それを、私は「『エビデンスに基づく実践』のハイジャックとその救出」という論文を書いて、半分冗談で『こころの科学』という雑誌に載せたら、やっぱり一部の方が「我が意を得たり」ということで、「よく書いてくれました」というような反応がありました。でも、その人たちの考え方も僕とは違う。要するに僕は、エビデンスが気に食わないわけでは全然ない。そこは非常に複雑な思いなんですね。

村井俊哉
村井さん

今みたいなことを言っていると、EBMに反対派の人が応援してくれることもありますが、そういうことではないと、そうした意見にもまた反論したくなってしまいますね(笑)。

常連さん
常連さん

どちらかというと極端な人が多いので、その人がバーンと場を読まない発言をすると、炎上したりとか……。実際にTwitterを見ていると、今でも、そういう案件はとても多いです。僕から見ていると、どちらもべつに間違ったことを言っているわけではないんだけれども、完璧にボタンの掛け違いになっちゃって、議論は噛み合わない。

村井俊哉
村井さん

冷静な議論にならないんですね。

常連さん
常連さん

臨床心理学なんかでは、それなりのバランスをとって、多少いろいろ言う人はいても、それぞれの言い分を、できるだけ誰をも圧迫せずに出してもらって、「じゃ、この目の前のクライエントにどうするか」というあたりで落としどころをつかんでいくということは、ある程度できそうな気はしているんですよね。そこに、議論をする場と信頼関係のある安全な場がないとだめなんですけれども、具体的に「この人に対してどうするか」という議論については、大体それなりのところに行くんですね。

村井俊哉
村井さん

なるほど。

齋藤清二、立命館大学総合心理学部教授
▲「目の前のクライエントをどうするか」とういう現実が、ある程度の落としどころを探せると斎藤先生

ひろがる暗い海と灯台

常連さん
常連さん

例えば「多元主義」という視点を村井さんは紹介されていますね。論理的な議論をしていると相容れないんだけれども、それは認めたうえで、どうやって実際にやることを調整していくか、みたいなところは大事なのではないでしょうか。

村井俊哉
村井さん

適材適所で最も優れた方法を使うべき、という「多元主義」は、実用的で優れた考えた方で私は共感しています。ただ、多元主義には一つ弱点があります。どういった時にどの方法が適材かを判断する際には、なんらかの基準が必要なわけですから、そうだとすると、多元的ではなくて、結局は一元的、ということになってしまうのです。だから多元「主義」というのは論理矛盾である、という見方もあるのです。
ただ、齋藤さんがおっしゃったようなプラクティカルという意味では、つまり、相容れない考え方もとりあえず両方置いておくというという意味では、多元主義はぴったりです。実は、先ほど言った論理矛盾のように見える点も私からすると矛盾ではないと思っています。でも、それを理屈っぽく説明しちゃうと、聞いている人はしんどくなるので、とりあえず多元主義とは「異なるものを仲良く同居させておいたらいいんだ」という考えだと説明するようにしています。

常連さん
常連さん

普通「見解の相違」としてしか認識されないので、意見が一致しなくても、相矛盾していてもいいんだというように合意に持ち込むというのは、ひとつの有効な方法だと思うんですね。そうでないと、そこの議論だけで疲れ果ててしまう。

村井俊哉
村井さん

人間の心について私たちが手にしている知識は極めてわずかなことで、いってみれば
「暗黒の海」のようなものです。先ほどのEBMですが、こうした暗黒の海のところどころにある灯台みたいなものだ。そういうイメージで考えればどうでしょうか。

 

常連さん
常連さん

はいはいはい。いい例えですね。

村井俊哉
村井さん

その暗黒の海を、俺はこういうふうな航海術で行くとか、俺はこれで行くとか言って、まあどっちも、間違いか合っているかわからないけれども、やっているうちに、「ああ、こっちが正しかった」とわかる。そういうふうに考えれば、何の不思議もない。
ところが、サイエンスとはもっとプレサイス(precise)に物事を予測できるもの、たとえば物理学モデルのようなものだと私たちがイメージしてしまうと、異なる航海術をとる人の間で船出する前から喧嘩になってしまう。たとえば、「〇〇精神療法」と「△△精神療法」のどちらが科学的に優れているか、などと堅苦しい言葉で言っていても仕方がない。それよりも、どういうふうに言葉かけをしたら相手の人はちょっと元気になってくれるだろうか、といったことの方が大切ですもんね。

常連さん
常連さん

うん、そうですよね。

村井俊哉
村井さん

そんなふうに試行錯誤でやっているわけです。そのときに、傾聴中心で行くのか、多少踏み込んでこちらも意見を述べるのか、どっちがいいんだと。こうしたことについてエビデンスをもとめて大規模な臨床試験に落としたところで、まあ出たとしても、「こういう研究の枠組みではこういう結果が出ましたよ」というだけのことですね。いまわれわれが航海しているか泳いでいる暗黒の「知識の海」みたいなイメージが、こうした結果を解釈する際のベースにあればと思います。

常連さん
常連さん

哲学というよりは、「一神教なのか多神論なのか」というような宗教的なメタファーのほうが近いような感じですね。ひとつの原理ですべてが終わっているのが一神教のイメージなんですけれども、いまの「知識の海」には、多神教的なイメージのほうが近いですよね。

村井俊哉
村井さん

多神教って、何か神さんがそこらじゅうにいるみたいですが、われわれが泳いでいる海というか、イメージというのは、その神様に滅多に出会えなくて……。たまに、お地蔵さんとかが助けてくれますが……またしばらくは、もう闇のなかで行かないとしゃあない。

常連さん
常連さん

だから臨床実践は、これはおそらく精神科でも身体科でも僕はあまり違わないように思うんです。よく、からだのことってスッキリわかっているけれども、こころは見えないからわからないんだという比喩をよく心理の人は使われるんです。
けれども、僕は全然そう思っていなくて、「からだ」だってぜんぜんわかっていない。不確実で、複雑で、ぐじゃぐじゃしていて、予測してもそれは当たるかどうかもわからない。海の中を泳いでいるときに、まあちょっと確からしいぞというのが、こうポッと……灯台のように……。

村井俊哉
村井さん

確実に治る病気もときどきありますけど、本当にときどきであって。

常連さん
常連さん

しかもそれは、どっちかというと、確実に治る病気って、ある意味、自然経過といいますか、待っていれば治るというほうが多いですよね。ある経過を邪魔しないでいれば。
ところが、そのときに何か複雑なことがたぶん起こっている。例えば炎症なんかそうですよね。最初にばーっと浸出液が出て、好中球が走ってきて、そのあとフィブリンが出てくる。実は複雑なことなんだけれども、怪我をしたところが、二日目には腫れるけれども、それがだんだん引いていって、一週間で治るというストーリーとして予測できるから、みんなびっくりしない。

村井俊哉
村井さん

そこで起こっているメカニズムを全部明らかにしようとすると、ものすごく大変なことなんだけれども、大雑把に言えば、ひとつの定型的なストーリーを利用しているからわれわれは医者をやっていけるので、それをしなかったら、もうドツボにはまるわけですよね。

常連さん
常連さん

そうです(笑)。

村井俊哉
村井さん

だから、すべて明らかにしないと医学はだめなんだとか、ちょっとでも不確実なことがあったらそれはだめなんだみたいなほうに行っちゃうと、むしろ、普通にやっていれば何とか泳ぎ着けるものが泳ぎ着けられなくなっちゃう。

常連さん
常連さん

そうですよね(笑)。

齋藤先生
▲精神科でも身体科でも、暗い海の中を泳いでいるうちに「確からしい」という「灯台」のようなものを見つけようとする体験と姿勢が大切だと、齋藤先生

航海術のまえに

常連さん
常連さん

心理療法でもそうだと思います。冷静に見て行くと、だいたいどんな心理療法も優秀なセラピストが丁寧にやっていれば、半分ぐらいの人は確実に良くなる。確実というか、半分ぐらいは良くなると。でも、そのうちの三割ぐらいは実は、何もしなくても良くなるという人で(笑)、誰がどうやっても良くならない人というのがやっぱり二、三割いる。そういうところはコンセンサスとしてあって、あとは、その時その時に、どのぐらい状況に合わせた何かができるかみたいなことです。
暗い海を泳いでいる感覚で臨むと、こういうことが全体として見えるわけですよね。にもかかわらず、「認知行動療法以外は心理療法ではない」と言う人もいれば、「認知行動療法は、あんなのわざわざ人間がやることではない」みたいなことを言う人もいます。これは、どう考えても不毛でしょう。その辺はもう少し全体像を、あまり先鋭的にではなく、「こんなものなんだよ」というのを示してあげないと、いちばん困るのは、これから学ぼうとしている学生さんだろうと思うんですよね。

村井俊哉
村井さん

下手をすると、全人的に見るというのと、科学でやるというのが対立しちゃって、せっかく全人的にといっても、またそれと何かが対立するみたいなことで、きりがないんですね。なので、最初から「多元的なんですよ」というのはひとつの方便かもしれません。結構「しょせん暗い海だから」みたいな見方がしっくりくるんじゃないかなという思いがあります。

常連さん
常連さん

海のたとえで行くと、共通部分というのは、どの流派の「航海術」を使うとしても、「船というもの」はこうやらんと動かんよ、ということですよね。

村井俊哉
村井さん

(笑)そうそうそう。そう。

常連さん
常連さん

でも、ときどき、船ってこうやらんと進まんよねというのと「逆」のことをやっている人が、たまに、いはりますよね。

村井俊哉
村井さん

たまに、いはりますね。たぶんその「航海術」の流派の違いというものは、ある種の気象条件のときはある航海術でうまく乗り切れて、別の条件のときは別の流派の航海術が危機を乗り越える。でも、どの条件のときにどっちの流派で対応するかというところまでは正確にわかっていないので、たまたま今日の天候はこうだったので、日本流のチームがヨットのレースで勝ったけれども、今回の条件を日本の航海のあれにはもうちょっと合っていなかったかなというのはよく言うような感じなんですかね? それで、ところどころに目印になるような灯台みたいなものがあったりとかする。でも、そうは言っても、何回やっても圧倒的な差があってオーストラリアチームが勝つ。その航海術が世の中を席巻する。そういうことが医療でもあります。

常連さん
常連さん

これもメタファーですけれども、ソリの競技でワックスを間違えると、全然だめ、ものすごく実力のあるところでも、ワックスを塗り間違えると全然だめになっちゃうみたいなことってありますよね? たかがワックスなわけですね。だけど、やっぱりそういう小さいディテールが非常に結果を左右することはある。
けれども、そこばっかりに注目してしまえば、それでは、じゃあ、ソリの競技はワックスだけで成り立っているのかという話になっちゃうわけです(笑)。精神療法の技法ってそれみたいなものですよね。「確かに、それはそれで大事なんですが、まずそもそもやっぱりその基本技術があるか、という……」(笑)。ソリになってさえいないようなものに、いくらワックスを投じたってだめなので。

村井俊哉
村井さん

ちょっと研究の話に戻るんですけれども、その根本になっているところって、実証的なデザインがつくりにくいんですよね。基本になっているところが共通だからこそ、細かいところの実証デザインができるので。
ただ、どうしても医学全体の問題として「疾患があって、それを診断して、治療という介入を課す」というパラダイムがある。ところが、実際には、何かよくわからないけれども、「一緒にいたら治る」ということがあったりするわけですね。それって、非常に「デザイン」にしにくいですね。
なのにどうしても、やりやすいところのことが目立つし、評価される。いわゆる「夜の駐車場で落とし物をしたときに、街灯のあるところだけを捜す」ということですよね。

常連さん
常連さん

ああ、そうです。わかりやすい。

 

村井俊哉
村井さん

明るいところだけを捜しているということをやっているということは、自分ではわからないから、なんで暗いところを捜さないの? という話なんだけれども、しかし……明かりがないから捜せないんですね。
齋藤さんたちのされている分野もそうですし、僕らのところでもそうですけれども、精神医学は重症でない精神疾患といわれている気分障害とかはもう、「医療モデル」以外のモデルで社会が扱ったほうがトータルとしていいかもしれない、という考えさえ可能なわけです。
僕自身は医学の側の人間なので、医学モデルで扱うことを当然というふうに普段は語っているわけですが、そうした考え方に問題があるかないかということは、医学モデルのなかでやっている研究デザインのなかでは出てこないわけです。

常連さん
常連さん

はい、そのとおりなんです。ただ、自分にとっても耳に痛い話なので、あえてそういう発想をするためには、どうしても、ちょっと荒療治といいますか、外からの、あるいは、人類学的な視点とか、そういうものがないと、やっぱりそういう発想って、そもそも出てこないんですね。

村井俊哉
村井さん

ええ、そうですよね。

村井先生、手前に斎藤先生
▲「夜の駐車場で落とし物をしたときに、街灯のあるところだけを捜す」になってしまいがちだと村井先生

耳が痛いほうに耳を傾ける

常連さん
常連さん

「だから、「医療がむしろ病気をつくっているんじゃないか」という発想は、反精神医学とかいうことではなくて、常に考えていなければいけないことだと思っています。

村井俊哉
村井さん

僕は今でもすごく残念なのですが、反精神医学って、今日非常に評判が悪いんですね。昔は評判が良かったんですけど……。そういう時代に正統な精神医学の側にいて苦労した人たちは、反精神医学のことを黒歴史として全否定するわけです。

常連さん
常連さん

なるほど、なるほど。

村井俊哉
村井さん

ただ、そういう時代に苦労した先輩が反精神医学のことをそのように言うのを、下の世代の人が、単純に受け売りで、けなしている場面をみることがあるんです。やっぱり自分で一度ちゃんと考えたほうがいいですね。自分でそれなりに考えると、そう簡単に論破できない話って、結構あるんです。

常連さん
常連さん

はい、はい、はい、はい。本当に、そうですよね。

村井俊哉
村井さん

鵜呑みにしてやっているのはリスキーです。そういう、人の話を鵜呑みにしてずっとやってきた人って、人生のあるときに、例えば目論んでいたプロモーションがうまくいかなかったとか、家庭で辛いことがあったとか、何か自分の人生の危機に遭ったとき、突然、反医学とか、反精神医学とか、あるいはスピリチュアルやオカルトに唐突に向かうんですよ。
反精神医学やスピリチュアルが悪いということではなくて、唐突に大きくぶれてしまうことが何かおかしいと思うわけです。若いときに、ちゃんと自分自身で両方考えて、「こういうよい面もあるいけれどもこういう問題もある」といったことを考えた経験のある人は、のちに人生の危機にあったとしても、唐突に大きくぶれることはありません。

常連さん
常連さん

メタで考えている限りはぶれないですよね。なるほど、やっぱり免許を持っている者がそういうことを言い出すと、周りに対する害が大きいね。
私が今所属している学部ですと、人類学とか社会学との教員を採用していますし、そこである意味「反-心理学」風の話も、学生は聴く機会があります。教えている方々が「反-心理学」なわけではないのですが、考え方としては、いわゆる批判理論みたいなものがしっかり学べるので、まあある意味、そういうのはいいと思うんですね。

村井俊哉
村井さん

 いいですね。耳が痛いものを排除しちゃうと、あとが逆に危ない。

常連さん
常連さん

純粋培養では、しっぺ返しが怖いですものね。

左手に齋藤先生、右手には村井先生
▲本来は複雑な臨床の現場をいかに若い臨床者たちに伝えていくか……熱く語り合う

(2020年3月10日掲載)


■協力:tsubara café(ツバラカフェ) /取材:木立の文庫

まちかど学問のすゝめ 其の四

《木立のカフェ》はヴァーチャルでリアルな喫茶店。マスターの村井俊哉さん(京都大学精神医学教室教授)が京都市内の喫茶店をぶらっと訪れて、そこに集う人たちと「こころとからだ」「文化・社会」について語り合います。
きょうは、前回と同じく鴨川沿いのドイツ料理店: カフェ・ミュラーさんにお邪魔しています。ジャーマン・スイーツを味わいながら、常連さんと今日も “まちかど学問” 談義… 折しも11月30日から始まる「多文化間精神医学会」の話に…。私たちが人と出会うとき、そこにはどんな「文化/時代」が織り込まれているのでしょうか?

無くてもいいもの だから大切に…


● 村井俊哉:1966年生まれ、京都大学医学研究科精神医学教室教授
京都大学医学部附属病院 精神科神経科 公式サイト
https://www.kuhp.kyoto-u.ac.jp/~psychiat/
● 常連さん:1967年生まれ、勤務編集者を経て、出版プランナー

 

カフェ・ミラーの日本庭園
▲秋の夕暮れには テラスで“まちかど学問”でも…
常連さん
常連さん

前回の《木立のカフェ》は、《病跡学会》の大会をまえに「精神医学と芸術」をめぐって盛り上がりましたが、学会シーズンはまだ続くようですね?

村井俊哉
村井さん

こんどは《多文化間精神医学会》の大会長を務めます。

常連さん
常連さん

11月30日から伏見の龍谷大学での開催ですね。《多文化間精神医学会》というのは比較的あたらしい学会なのでしょう?

村井俊哉
村井さん

《社会精神医学会》の一部があるときに分かれたと聞いています。精神医学に社会的な影響があることを考えるのが社会精神医学で、そこから「多文化」という観点から分かれて創設されたということで、トランスカルチュラル(transcultural)という名称になったのだと思います。

常連さん
常連さん

「間」という意味合がcross-やinter-ではなくtrans-に込められている…。そんな精神医学では、「文化」をどんな風にとらえるのでしょう?

村井俊哉
村井さん

多くの人がイメージするのは、レヴィ=ストロース(Lévi-Strauss)のような人が「途上国」に行ってそこの文化を見て、自分たちの文明を振り返るようなスタイルでしょうか。

常連さん
常連さん

日本も文化人類学をはじめ、実際に入って行って他文化に触れるフィールド・ワークが盛んでしたね。

村井俊哉
村井さん

いまでも「多文化間」という観点では、そうした関与観察を重視する立場がひとつあって、もうひとつに、国際協力研究としてデータを持ち寄って、研究者自身は現地の人と生活を共にしたりはせずに、統計解析に乗せるスタンスがあります。

常連さん
常連さん

後者では、医学という土俵でのエビデンスが浮かんでくるわけですね。

村井俊哉
村井さん

研究スタイルとしてはかなり異なるこうしたふたつの立場が混ざっているのが《多文化間精神医学》だと思います。

村井俊哉教授
▲ 元・バックパッカーの村井さん

 

文化差が問題なのでしょうか

常連さん
常連さん

比較文化心理学のようなジャンルもありますが、精神医学固有の問題としては…?

村井俊哉
村井さん

ひとつ問題になるのは、外国人が日本に来た場合に起こる事態ですね。

常連さん
常連さん

労働問題とか?

村井俊哉
村井さん

あとは観光客の問題。旅行の途中で症状が出て受診したけど、これは精神症状なのか? それとも国の文化なのか? そこがわからないというようなこともあります。

常連さん
常連さん

アメリカなどでは常にある問題なのでしょうね。

村井俊哉
村井さん

たとえばヒスパニックの人たちの診療のときには、文化差というのを考慮して適切な医療を届けなくてはいけません。症状の評価をする場合でも、うつの表現の仕方は文化によってかなり異なりますので、文化差に鈍感など評価を誤ります。クラインマン(Kleinman)は「中国ではうつを『うつ』と言わない」と指摘しています。
うつをこころの症状ではなく、「頭が重い」など身体の症状として患者は表現し、医師もその症状を拾うので、病名としては「神経衰弱」という概念がより広く流布している、という指摘です。うつというと「こころの病い」になってしまうので、精神疾患に対する偏見が、病気を身体疾患に寄せて考える見方を後押しするのだ、といった説明がされます。

常連さん
常連さん

文化的なスティグマは根深いでしょうね。

村井俊哉
村井さん

たぶん実務上は、そういう「現場」での個別の患者さんへの対応が《多文化間精神医学》でいちばん大事なテーマでしょう。対応するこちらの側の苦労、気づき、成長などもそうした臨床場面には含まれていますので、これも広い意味で「フィールド・ワーク的」多文化間精神医学と呼んでよいのかもしれませんが。
一方で疫学・統計学的な研究、つまり研究者が事態に巻き込まれない研究については、たとえば「統合失調症の発症率は途上国のほうが低い」というような研究が有名です。
この研究は、現代社会、医療、薬物療法がむしろ病気をつくっているんだという言説を後押ししましたし、一方では、最近、この研究はデータのとり方に不備があることが指摘され、論争の的となりました。《多文化間精神医学》が精神医学全般の問題(この場合は統合失調症の原因ですが)に大きな影響を与えた研究と言えると思います。

 

常連さん
常連さん

文化差というのは、言葉の違いやコミュニケーションの違い以上に、深いところ… たとえば精神構造のようなところに出ますか?

村井俊哉
村井さん

そういう意味でいうと、これはまったく個人的感想ですが、日本からすると、ヨーロッパやアメリカはほぼ問題にならない。韓国もまず問題にならなくて、東南アジアも。中国も、日本に来ているような人たちではまず問題になりませんね。よく「韓国人と日本人の気質の違い」とか言いますけれども、そんなものは、精神科の重大な症状が出ているときは、症状の差のほうが大きいので、そこに吸収されて、文化差はほとんど問題となりません。

常連さん
常連さん

欧米もアジアも「文化差」問題がないとすると…。

村井俊哉
村井さん

私の個人的経験では、難しかったのは中東諸国の人たちでした。「宗教」の違いが大きいですが、同じ宗教でもインドネシアの人たちの診察ではそれほどの困難は感じませんので、宗教を含む広い意味での風土の違いということでしょうか。

常連さん
常連さん

この時代、アジアのなかでの心性の違いが云々されますが、中東には思いが及びませんでした。

村井俊哉
村井さん

昔、本多勝一が『カナダ=エスキモー』とか『ニューギニア高地人』とか、関与的な取材を報告していました。遠目にはまったく文化が違って見える人たちも、現地へ入っていくと、わかりあえるじゃないかと。つまり「懐に入ればわかり合える」という本を書いて、ベストセラーになりました。
ただ、もう一冊『アラビア遊牧民』という本があって、そこでは、「人類みな、わかり合える」と言い切れない壁みたいなものも感じた、ということを書いていたと思うんです。そういうことを僕らも、感じることはありますね。
もちろん、精神科医である私たちの場合には、この国の文化はわかりにくい、では済まされず、自分が責任を持つことになった患者さんに元気になってもらわなければなりませんので、そういう状況でも、何とか突破口を探る努力を続けます。

 

村井俊哉
村井さん

そういったことも含めて、《多文化間精神医学会》はとても面白いです。もともと精神科というのは色んな立ち位置の人がいるところが面白いのですが、研究をする精神科医の側の多様さが増幅された感じがして…。

常連さん
常連さん

自分たちの間にも「文化差」がある…。そういう意味でも、立ち位置の多様性を含んだ議論は、これからますます大事になってくるでしょうね。

村井俊哉
村井さん

そうした議論は、「他民族」批判が噴出した際に重要ですね。国家間の政治的軋轢などをきっかけに「韓国人はこういう民族だ」みたいな言論に私たちは陥るリスクがある。そうしたときには必ず「日本人論」が出てくる。日本人の「白黒はっきりさせないところがいいんだ」みたいな…。

常連さん
常連さん

湿潤な気候では「水に流」せて素晴らしい、みたいな…。

村井俊哉
村井さん

たぶんその同じ流れで、これからの社会では、日本文化と韓国文化の違いのような個別文化の違いよりも、「グローバリズム」のほうが重い問題になってくるでしょうね。つまり「世界全体の文化均質化の方向へ向かっている」ことへの視線です。

常連さん
常連さん

グローカルや、ダイバーシティみたいな話をからめて。

村井俊哉
村井さん

精神医学は社会学というような大きな分野ではないので、基本的に病気になった人に対して、精神疾患という病気に対して、文化的なファクターがどう影響するかという問題から考えることになるわけですが。

常連さん
常連さん

国民の「気質」分類が合っているかどうかよりも、病気としてどう捉えられるか…。

村井俊哉
村井さん

たとえば自殺率の高さというのは、気候だけでは説明できません。たしかに北の国では高くて南の国は低いけれども、イタリアの自殺率の低さを単に「暖かい国だから」というだけでは説明できない。そこには、カトリックが自殺を禁じていることなど、「文化」の要因が絡んでいるはずです。
ドイツと比べたらイタリアのほうが所得が低いし、ドイツのほうが社会保障がしっかりしているはずなのに、自殺率というアウトカム(outcome)で見ると、イタリアのほうが良い。この事実は、「気候」や「宗派」の違いだけでは説明がつきづらいのではないでしょうか。

常連さん
常連さん

遺伝子なんかが着目されたり?

村井俊哉
村井さん

もちろん、そう言う人もいます。ただ、歴史のなかでヨーロッパの民族はすごく混ざり合っているので、自殺しにくい遺伝子/しやすい遺伝子というのが淘汰を重ねるには何世代かかるかということを考えると、遺伝子だけでは説明できず、まさに「文化」と呼んでおくしかないようなことがらが影響しているのだろうと思っています。

常連さん
常連さん

統計的・疫学的な視点からは「自殺」の他になにか重要なテーマは…?

村井俊哉
村井さん

どちらかというと、イタリア人とドイツ人の国民の文化差なんていうのは、気楽な話題です。もうちょっとシリアスな問題は、世界じゅうの紛争地域での精神疾患の比率が、一般の人口と比べてどうなのか? というテーマがあります。
当たり前ではありますが、うつと、不安と、PTSDは紛争地帯では明らかに高くなります。
「この地域の人たちは戦闘民族の血を受け継いでいるので、子どもは生まれたときから銃を与えられてこそ生き生きと育つのだ」みたいな言説を耳にすることもありますが、こうした考えが基本的にはおかしい、ということをこうした疫学研究は指摘してくれます。でも、そのあたりまえのデータを出すのがけっこう大変なのです。多文化間の比較というのは、すごく難しいんですよ。

カフェ・ミラーの日本庭園の池
▲この施設じつは むかし「日独文化研究所」…

それは文化? それともシステム?

村井俊哉
村井さん

面白いですよね、文化って。自分たちがつくったものによって自分たちが縛られるというのが文化なんですよね。ある種の思い込みで「日本人はこうあらねばならない」とかいう意識が自分や周りの人の行動を決めていく。そして、自分と周りの人でつくったルールで自分たちを拘束していく、という…。

常連さん
常連さん

民族間とか人種間もあるけれども、ひとつの国のなかでも、たとえば、世代間で「文化」が違うとか…。昔は何があっても学校に行けと言われていたのが、今は、行って死ぬなら行かないほうがいい、と言われています。

村井俊哉
村井さん

そういう意味では、ぜんぜん文化と関係ないと思われているいろんな病気も、文化で説明したほうがいいかもしれないですよね。たとえば「ゲーム依存」が疾病として位置づけられましたが、若い世代の人たちにとってゲームって、文化なんですよね。

常連さん
常連さん

ネット依存もそう。

村井俊哉
村井さん

そういう「文化依存」症候群というか、その世代の人たちに特有の症状は興味深いですねぇ。世代が違っていたって人はみな何らかの“弱点”を同じように持っているはずで、たまたまそのときの環境によってある症状が出るわけじゃないですか。そのときの文化によって、症状は違った形で出るわけですね。たとえば、妄想ひとつとっても、今だと「インターネットを通じで自分の考えが盗用されている」と訴える人が多いですが、昔だと「テレパシー」が定番でした。

常連さん
常連さん

“依存”がどこに表れるか? に時代や社会が見える…。

 

村井俊哉
村井さん

表面は違うけれども根っこのところは一緒で、その精神症状が異なる現れ方をするという視点で考えると、若い世代の「ゲーム依存」にあたるものが、今の高齢者の世代では何でしょう?
よく言われるのは、団塊の世代とかをイメージして「ワーカホリック」が挙げられます。でも、僕はちょっと違うかなと思ってね…。なぜなら、一部のワーカホリックな人はどんどんワーカホリックになりますが、多くの人はそうはならないので、世代を象徴しているとはいえないでしょう。

常連さん
常連さん

世代を象徴する、「ゲーム」に当たるようなもの… うーん、なんだろ? たとえば「健康至上主義」とか…? 「アンチエイジング」とか…?

村井俊哉
村井さん

“依存”するのは、それを取り上げられたら、もう、そわそわしてしょうがない対象です。ゲームのように、周りから見たらそんなことしてるより勉強をしたほうが良いにきまってるのに、それをしたくてたまらないし、取り上げられたら激しく怒る。そんな対象が、今の高齢者にとっては何だと思いますか?

常連さん
常連さん

「健康」に夢中なるのは、傍から見てそんなに非合理ではないか…。

村井俊哉
村井さん

僕は見当をつけているものがあります。クルマ!

常連さん
常連さん

えっ? あぁ!

村井俊哉
村井さん

高齢者の一定割合に、クルマを手放せない人がいます。もちろん全員ではないですよ。また、都市部の生活者ではなく他に交通手段がなく、クルマに乗りたくなくてもそれができない人もたくさんいます。なので話は首都圏など都市部生活者に限りますが、クルマの維持費を考えたらタクシーに乗ったほうが安い人でも、手放せない。

常連さん
常連さん

人の命を奪ってしまうし。

村井俊哉
村井さん

事故が起きたらもう取り返しがつかないから、子どもの世代が『お父さん、もうクルマやめはったら?』と言う。なのに、なかなかやめてくれなくて、すごく苦労しているご家庭は多いと思うんですよね。これまではクルマは“依存”という観点では、おそらく誰も考えてこなかったんだけれども、この「手放せない」感からして、実はそうかもしれないと思っています。時代性でいうと、若い頃にはクルマというのがステータスの証しになっていて、自由を得られもする。仕事を離れて自分の時間が持てる。

常連さん
常連さん

社会の風潮や仕組もそのようにお膳立てしてきた。

村井俊哉
村井さん

ネット依存でも、スマホ依存でも、それが無いと成り立たないように社会が変わっていくなかで生じていますよね。クルマが便利な生活になると、鉄道とかバスへのニーズが減って、廃線となる。そうすると、ますますクルマが必要となって、クルマを二台もつことを前提に郊外に一戸建とかを買う。郊外だからどうしてもクルマが手離せない。
こう考えると、文化と関係する病気というのは、本人だけで起きてくるものではなくて、社会全体と本人との相関で出来てくることがわかりますよね。電車やバスの便の悪い不便な地域では、クルマに頼るしかないではないか、それを依存というのはおかしい、という意見はもちろん至極まっとうな意見ですが、そもそも社会全体が、自家用車を前提とした方向へと依存してきたので、結果として個々人としては「クルマ依存症」という状態ではない人も、クルマに依存せざるを得ない状態になっているともいえるかもしれません。

常連さん
常連さん

原発依存も連想されます。

村井俊哉
村井さん

まあ言ったら、そういう形で、若いうちからだんだんと緩やかに“依存”状態ができてきて、「はた」と気づいて、もう運転が危ない高齢になったときに、しかも仕事での必要がなくなったときに、それを手放すことができないというような…。

 

村井俊哉
村井さん

もちろん、これは半分冗談で言っているのですが…。文化と結合したこういう精神症状というか、精神疾患というのは、非常にダイナミックな社会状況のなかで、どっちかといったら本人の問題より社会の状況で、つくられていく。その社会の状況というのも、日本文化とか韓国文化という何か固定したものがあるのではなく、もっと流動的です。世代でも動いていくし、その変化によって我々がつくっている環境が変わる。その環境がまたその問題をつくっていく。こうしたものすごく複雑な側面を、精神症状・精神疾患は孕んでいます。

常連さん
常連さん

精神医学には、そこで何ができますか?

村井俊哉
村井さん

もちろん、重症な人はスタンダードな医学的治療を考えなくてはいけません。しかし、本来、その対応の仕方は、個人の病気を治しにいくという医学的対応以外にもあるのでは、という発想が重要です。

常連さん
常連さん

ゲーム依存からどことなく連想してしまうのですが、「ひきこもり」というのも、精神医学の対象とばかりも言えませんよね?

村井俊哉
村井さん

あれは「文化」の側面があるともいえます。強制的に引きこもりを許さないような社会制度だと、あるいは貧困が著しい国だと、ひきこもりは出来ないですよね。あるいは、これらは文化というより「制度」の問題かもしれません。もちろん、大人になっても家族が子どもを世話する、子どもも親の面倒をみるという、日本人のある種の美徳みたいな「文化」が影響しているとは思うんですけれども、だけどやはり、社会制度のほうがより強く影響しているのではないでしょうか。

常連さん
常連さん

たとえばどんな制度とか…?

村井俊哉
村井さん

たとえば、徴兵制というシステムがないことはが大きいと思います。あとは、保険制度とか社会福祉制度とかも関係してきますよね。こうしたことを考えると、ひきこもりとは、日本という国のよい側面の現れのひとつであるともいえるかもしれません。
一方で、日本では失業後の就労再トレーニングの制度が不十分ですよね。NEET(not in education, employment, or training)という言葉がありますが、日本では、このうちのtrainingの影が非常に薄いのです。
もう何十年も前に留学したドイツでは、産業構造の変化のために職業トレーニング中の人は大勢いましたし、そうした人たちはマインドとしては失業者というよりはeducationつまり就学中の人たちに近いものがありました。日本のひきこもりの土壌の負の側面としては、こうしたことがあるのではないでしょうか。

常連さん
常連さん

システムと文化の腑分けはむずかしそうやな。

村井俊哉教授
▲こう見えても「みうらじゅん」ファンの村井さん

いらないところに「はまる」

村井俊哉
村井さん

サブカルチャーも本当は「文化」なので、見逃せませんね。

常連さん
常連さん

何十万人もがつくっている文化ではなくとも…。

村井俊哉
村井さん

何人から文化をつくれるかわかりませんが、人が複数いれば文化ということで…。僕らは何々文化というものに専属しているわけではなくて、たとえば日本文化からある程度影響を受けていたけれども、政治思想としてはグローバリズムみたいなものが染みこんでいる。あるいは、趣味はこうでこう… とかいうことで、ひとりの人がいくつもの文化に所属している状態ですね。そうしてお互いが重なり合っているような状況なので、面白い。

常連さん
常連さん

ということは… 自分のひとりのなかで《多文化間~》って起こり得るわけですね。

村井俊哉
村井さん

ひとりのなかで… そのとおりです。

常連さん
常連さん

頭ではこう考えているんだけれども、体はこう動いちゃう、みたいな。

村井俊哉
村井さん

そうなんですよ。一人の人間の中でこっちの文化とこっちの文化が相容れなくなる。職場での文化と宗教的な文化が自分のなかで折り合いつかないとか…。ほかにも、大人でも社交クラブ、サークル活動みたいなのは盛んじゃないですか。ああいうものもひとつの文化ですよね。個人主義とか何とか言っていても、結局、何かクラブに帰属して安心している…。

常連さん
常連さん

宗教にも、信仰と教会がありますよね。

村井俊哉
村井さん

キリスト教でも、単に個人として神と繋がっているわけではなくて、ある教団に属して、教会に通っていつも同じ人から説教を聞いて、というなかで安心している。そのなかでボランティア活動をしたりして、同志とのつながりを深めているんですよね。人はそういうものに「帰属」しようとする傾向があって、その帰属先で縛られたり安心したりとかしながらやっている。そうしているうちに、いろんな症状が出たりすることもあるみたいな… そんな感じですかね。

常連さん
常連さん

帰属する/しないを折々に自分でコントロールできれば、いいのかなぁ?

 

村井俊哉
村井さん

依存症というのもそうかもしれませんよ。タバコ依存も…。もちろん、他人とはまったく無関係で独りで勝手に依存している人もいますけれども、多くの場合は、なんらかの文化的文脈の中で起きているのではないですかね。

常連さん
常連さん

なんとなく… 一人でやっている感じがしないですね。マリファナや違法ドラッグなんかも…。

村井俊哉
村井さん

依存症って、医学ではあまりそんなふうに考えられていなくて、単に脳の報酬系の問題として捉えられることもあるんですけれども、「文化と結合したものだ」という理解は面白いかもしれませんね。

常連さん
常連さん

さきほどの「クルマ依存」の話にも近くなるかもしれませんが、ハーレー軍団のおじさんたちも、やっぱり独りではやらないですね。

村井俊哉
村井さん

申し訳ないですが、何が楽しいのかと僕らは思っている。うるさくて迷惑だし… 事故のリスクがあって… お金もかかってるし… 真夏に革ジャン着て、「なにがええんか!」と。その仲間集団に所属していない僕らから見たらそうなんですけど…。

常連さん
常連さん

本人たちは自由と帰属を満喫している。

村井俊哉
村井さん

そういうふうに考えたら、文化自体を「依存症」と言ってもいいのかもしれません。となると逆に、依存症を「文化」に格上げしてもいいわけだよね。適度な範囲でやっているものに関しては…。

常連さん
常連さん

依存はなはだしい「学会」活動はとっくに文化を名乗っていますが…。

村井俊哉
村井さん

精神神経学会については、これを単に文化というのは言い過ぎで、あれはまあ… 無いとまずい…

常連さん
常連さん

システム。

村井俊哉
村井さん

極論ですが、少なくとも《多文化間精神医学会》とかは、無くてもいいと思うんです。そういうのは文化です。

常連さん
常連さん

帰属して依存している。

村井俊哉
村井さん

うん。帰属しているけど、無くてもいい。それがまあ、文化ですかね。

常連さん
常連さん

おもしろいなぁ。なくてもいいというのが「文化」の規定。うん、確かに… 無いほうがいい場合もあるぐらいの…。

 

村井俊哉
村井さん

無くてもいいというのは、バカにしているのではなくて、本当はそれが大事なんですわ。無くてもいいものが存在する世界は素晴らしいですね。
『中世の秋』という名著で知られるを書いたホイジンガ(Huizinga)人が「人間とは何か」を定義するときに、「ホモ・ルーデンス」という言葉を使った。「人間とは、遊ぶ動物である」と。人間とは知性のある動物(ホモ・サピエンス)と言われていたなか、遊ぶ動物と定義したわけです。「こんなに遊ぶのは人間だけだ」ということですね。

常連さん
常連さん

「遊びをせんとや生まれけむ」みたいなね。

村井俊哉
村井さん

まさにそうです。“遊び”って、凝ってしまって依存してしまうものですよね。そして、どの遊びに凝るか? 依存するか? は、人それぞれ違う。そこが“遊び”の特徴でしょうね、全員同じ遊びをやっていたら変だと思うんですよね。なんでそうなるのか不思議なんですが…。

常連さん
常連さん

それぞれ違う“遊び”を、それぞれでやっている。

村井俊哉
村井さん

ここのところがやっぱり、おもしろい。人間の人間らしいところですね。だから、精神医学というのは、よく考える必要があるでしょうね。ある種「合理的でない」もの、「無くていい」ものを悪もの呼ばわりして全部切り捨てていくと、人間を全部殺すようなことになるんです。だから、“遊び”は残しつつ、「でもやっぱり、ここの部分は…」というような限度を超えたものに対しては“病気”として見ていくというような。なにかそういう、ちょっと広めの風呂敷みたいなもので考えておく必要があるんです。

常連さん
常連さん

なるほど、なるほど。うん…。

カフェ・ミュラーのスイーツ
▲ちょっと広めのお皿で 文化は美味しい

開催のお知らせ
第26回 多文化間精神医学会 学術総会
第26回 多文化間精神医学会 学術総会
日程:2019年11月30日(土)・12月1日(日)
会場:龍谷大学 深草キャンパス


▪️会長講演
多文化の時代〜多文化概念の多様化と精神医学〜
演者(会長):村井俊哉(京都大学 精神医学教室)


ほかにも特別講演、教育講演、学会賞受賞講演、シンポジウム、ワークショップ、産業医学セッション、一般演題等
詳しくは、総会公式サイトをご覧ください。
https://jstp26.jpn.org/

(2019年10月24日掲載)


■協力:カフェ・ミュラー/取材:木立の文庫

まちかど学問のすゝめ 其の三

どうして? 科学が芸術を語るの??


●村井俊哉(木立のカフェ・マスター):1966年生まれ、京都大学医学研究科精神医学教室教授
●諏訪太朗:1972年生まれ、京都大医学病院精神科神経科助教
●植野仙経:1976年生まれ、京都大学医学研究科大学院生
●常連さん(木立のカフェ・ナビゲーター):1967年生まれ、勤務編集者を経て現在、出版プランナー

 

常連さん
常連さん

今日はいつものGROVING KITCHENを出て、京都市左京区吉田にあるカフェ・ミュラーさんにお邪魔しています。《木立のカフェ》マスター村井さんのお誘いで、すぐ近くの病院からお医者さんお二方が“おしゃべり”に来てくださいました。
ここカフェ・ミュラーさんは、ゲーテ・インスティテュート・ヴィラ鴨川(荒神橋上る)のなかにあって、河畔に憩う“ゆりかもめ”たちの喋り声も聞こえてきそうな、緑の多い素敵なカフェです。

カフェ・ミュラーの日本庭園
▲本場のドイツ料理が味わえるカフェ・ミュラーの日本庭園

 

ありきたりでないものをどう観る?

村井俊哉
村井さん

最近、まったく普通の生活人の目線での関心事、たとえば「人生」とか「子育て」とかのことを、脳科学の専門家がコメントするようになっていますね。そういうことをコメントするのは、一時は“文化人”だったこともあるかな? 芸能人化した文化人が…。
昔は精神科医も、たとえば「なぜニクソンはこうなったか」といった風に歴史上の人物についてコメントする役割を果たしていましたよね。“芸術”についてもそうです。なぜ、精神科医や脳科学者にそれが求められるんでしょうか?

植野仙経
植野さん

精神科医や脳科学者が芸術を語ることについては、僕はどちらかというと懐疑的で、芸術のことは芸術家に、芸術評論であれば評論の専門家に任せるべきだと思っています。精神科医は芸術のシロウトなんですから。
ただ、芸術の文脈では理解がむつかしい、それまでの芸術の歴史や流れから外れている、人やその作品を理解するときには、精神医学が役に立つことがあるかもしれないですね。

村井俊哉
村井さん

たしかに、それはそうだよね。歴史のなかで「浮いた」人というのは、たしかに… われわれが語るべきでしょうね。ノーマルな人の芸術に精神医学の小難しい理論を当ててもしょうがないわけです。ノーマルな人の発想と明らかに違うものが出てきたときに、それを理解する手立てとして、精神医学的な知識、例えば「自閉スペクトラム症の人たちがどういう感性を持っているか」という知識を使ってみるというのは、自然なことですよね。素手でそれを理解するよりもわかりやすい。

植野仙経
植野さん

いわゆる現代芸術は理解がむつかしいと思われがちだけれども、それまでの芸術の歴史やその作家が置かれた状況が背景にあって、その背景に照らし合わせることで、「なぜそのような表現がなされたのか」が理解しやすくなる。一方で、芸術の文脈のみでは理解がむつかしい場合には、精神医学的な知識は、理解するために役立つのかもしれませんね。

村井俊哉
村井さん

それにしても謎なのは、「精神科医が芸術を語るのは当たり前」と思われているじゃないですか。だけど、例えば耳鼻科医は芸術を語らないですよね。これはなぜなんですか?!

植野仙経
植野さん

たしかに、芸術をかたる耳鼻科医に比べると、芸術をかたる精神科医のほうが多そうですね。もしかすると、“芸術”も“精神の病い”も、どちらとも精神の所産だという前提があるからでしょうか。そういえば、精神医学の一分野に「病跡学」がありましたね。たとえばゴッホのような芸術家に関して、その人が患った疾患と創造行為との関連をあつかう学問ですが、そのおおもとには、狂気と天才ひいては創造性とになんらかのつながりを見てとる、という発想があったとか。

村井俊哉
村井さん

そうですね。そうした芸術家が生む“美”という事柄は、脳なのかどうかわからないけど「精神」の所産であって、腎臓とか肝臓の所産ではないということですね。だから、われわれ精神科医は「そういう意味で芸術をかたってるんだ」という、ちょっとした自覚くらいは要るよね。「かたっていて当たり前」みたいに思っているけど、対象としての臓器(脳)の特性として芸術と関連が深いという前提があって初めてわれわれは語る資格を与えられている、という自覚くらいは持つ必要がありますね。

植野仙経
植野さん

そういえば、“芸術”が精神医学と関連づけられる理由に、もう一つあるんじゃないでしょうか。「ある人が表現したものは、その人の精神のあり方を反映する」という前提があって、その前提のうえでバウムテストのような心理検査が精神医学の領域で用いられていた。そのために、他の診療科の医者に比べて精神科の医者が、表現物とそれを表現した人との関係を、ひいては芸術を語るという流れになったのではないでしょうか。

諏訪さんと植野さん
▲諏訪さん(左)と植野さん

 

浮いた人は浮いた人が診る?

村井俊哉
村井さん

ということを考えあわせると…往年の精神科医が盛んに“芸術”を語ったのは、芸術表現と脳や心の“ありきたりでない”あり方と関連が深いから?ということになるんでしょうかね。

諏訪太朗
諏訪さん

いやいや、ひょっとしてその頃の精神科医は、できる治療や検査が限られていて、「やることがなかったから、治療の対象でない“芸術”について語っていた」ということはないでしょうか?

村井俊哉
村井さん

わかりました。公式の答えは「腎臓ではなく脳あるいは心が芸術を生み出しているからである」。でも現実の答えは「腎臓内科よりも精神科医は暇だから」と (笑)。

植野仙経
植野さん

医者の地位はどうでしょう。昔は、「医者は教養人でもある」みたいな風潮は無かったでしょうか。そのような社会的な位置づけも影響していそうに思います。

村井俊哉
村井さん

ああ、それはありますね。昔は万能人みたいなタイプの人がいて、医者でもあるし芸術家でもあるような人がいましたからね。

諏訪太朗
諏訪さん

昔の医者には美術品のコレクターも多くいましたしね。

村井俊哉
村井さん

ということで“美”には、脳の所産であるというだけではなくて、もっと社会的な背景があることが見えてきましたね。医者の地位とか、教養人として期待される役割とか…。そうした「医者」としての社会的な特性に「精神科医」としての対象臓器の特性がからんで、精神科医が“芸術”を語ってきた、というのは確かでしょう。

 

個別への眼差をもういちど

諏訪太朗
諏訪さん

もうひとつ、芸術というものの捉え方にも違いがあったかもしれませんよ。その昔、西洋近代社会のなかではサロンや画家同士のコミュニティ、もっと固いものだと美術アカデミーによる教育などによってかたちづくられた「これが芸術」というものがある程度しっかりあったと思います。

村井俊哉
村井さん

ゲーテ、太平記、古典。そうした「教養」と呼ばれるものが、しっかりあった。いまの“病跡学”は「教養」じたいが変わって“芸術”も変わって、という抗うことのできない流れに漂う小舟みたいなものでしょうか。
先日の病跡学会で、伊藤若冲についての発表を聴いて、「若冲って、そんなふうに理解したらええんや」と腑に落ちたというのが、実は収穫でした。自閉症といった視点で見ると、彼の芸術は非常によく理解できるな、と。「自閉症という特性『の水脈』…」「〜『の傾向』がある」という巧妙な言い方だったのですが。

諏訪太朗
諏訪さん

いまどきは診察をしてもいない人について、「芸術家の誰それは何病だ」とアグレッシブに言ってしまうと、かなり批判されますよね。「この作品のこういうところは、〇〇症の徴候と考えても矛盾はないんじゃないか ?」というくらい。それがギリギリですよね。

村井俊哉
村井さん

しかしその一方で、個人情報保護法ができて現実の患者さんについてのいわゆる症例研究というのも論文にも出せなくなってきていますよね。そうすると面白いことに、ひょっとすると今、個人の細かいところ、「この方はこんな家庭環境で育って、そうなった」ということを精神科医が語るときに、意外と具体的なところを出せるのは“病跡学”の領域かも… ? ということになりませんか。昔の人についてだから、ある程度推測は入るけど。

植野仙経
植野さん

そのような「個別」を見る流れ、それも具体的な事例を詳細にみるということは、医学においてとても重要だとおもいますね。ただ個人的には、病跡学の面白さは、ゴッホのような個々のケースを詳細に検討しながら、もう一方では天才的な人物を集団的にまとめて疾患や体質ないし気質、今風にいえば遺伝的素因や性格傾向といった、いわば「一般」的なことと関連づけてゆくところにあったのではないかと思います。そして、それは当時の最先端の医学的アプローチでもあったのだろうと思うんです。それらの「個別」と「一般」を見るアプローチを現代的なものにアップデートしていくと、“病跡学”のような分野は面白くなるんじゃないかと。

村井俊哉氏
▲木立のカフェのマスターは村井俊哉氏(京都大学大学院医学研究科教授)

 

答えの求めかたを語りあおう

諏訪太朗
諏訪さん

病跡学に限らず、「芸術評論」という語りがあるかもしれないですね。読んでいてさっぱりわからなかった小説を、例えば臨床心理学の偉い人が書いた解説を読んでから読み直したらすごく面白かった、ということありません? そうした「学び方」の学びの場になるかもしれませんね。

植野仙経
植野さん

それは同感ですね。そのような解説や評論を書ける人は限られているとはおもいますが… ともあれ、そうした文章を読んでいるときには、アプローチの方法を学ぶという感じがしますよね。なにかの「答え」を学ぶというよりは、「答えの求め方」や「問いの立て方」を学ぶといいますか。

諏訪太朗
諏訪さん

それには肴があったほうがいいですね。絵とか? ケースカンファレンスのようなもので、その集団が共有している切り口から解釈の方法を探ると言いますか。上手くいくと、芸術を医者の視点から見ているところが面白いということになり、一般の方々が芸術のみならず、精神医学や脳科学を理解する糸口にもなるかもしれません。
ちなみにうまくいかないと、「専門家の言うことはよくわからん。役に立たん。」と、非専門の方からの興味をますます遠ざけることになる。昔は専門家による閉じたコミュニティを「よし」とする傾向もありましたが、現在では開かれていることがより重視されるようになってきていますよね。

植野仙経
植野さん

医学の視点からみた解釈が芸術や芸術家を理解する役にたつと思われたとしても、それは謎を解き明かした気になってもらっているというだけかもしれませんがね。ただ、芸術そのものとはまた違った視点からみることで、「これは興味深いポイントだ」といった着眼点を提供している、ともいえるかもしれません。

村井俊哉
村井さん

専門家としてのいろいろな経験とか知識とかが端々に感じられて、知的で教養に満ちていて…。それでいて、割と普通のことばでライブで話すので、脱線したりして…。こんな感じでもし仏像について語るとしたら、要するに「みうらじゅん」の世界ですね !

植野仙経
植野さん

そのような語りは、とても面白いですよね。物事の見方を知るというのは、いってみれば星々をただの「星の集まり」と見るのではなく、「星座」として見るようになることだと思うのですが、星々をみるさまざまな見方を手に入れる… それが教養ということだと思いますね。

常連さん
常連さん

なるほど… 一つひとつの星の物理的な成り立ちを考える学問もあれば、「星たちをどう観るか? 観えたものをどう束ねて眺めるか?」を考える学問もある。そんな色んな立ち位置から、脱線 OKの「ルール無用のジャングル」で語り合う、そんな場に《木立のカフェ》が成ればなって想いますねぇ。
さて、そんなで今日は、植野さん、諏訪さん、《木立のカフェ》に遊びに来てくださり、ありがとうございました!


お客さんの自己紹介

諏訪太朗
諏訪さん

諏訪太朗(すわ・たろう)
普段は統合失調症・双極性障害・うつ病など病態のうち、薬物治療が充分に効果を示さない症例の臨床を主に行っていますが、精神医学史や漫画に関する原稿を書くこともあります。

植野仙経
植野さん

植野仙経(うえの・せんけい)
精神科医として仕事をする傍ら、精神医学にかかわる概念的な問題にも関心があり、哲学的な文献を読んでみたり、いろいろと考えをめぐらせたりしています。

関連情報
第66回 日本病跡学会総会 開催のお知らせ
日時:2019年7月6(土)・7日(日)
会場:龍谷大学 深草キャンバス

「ところで、病跡学っていったい何?」(会長講演:村井俊哉)
ほかに特別講演、教育講演、シンポジウム、懇親会等
詳しくは、公式サイトで
http://www.kuhp.kyoto-u.ac.jp/~psychiat/pathog66.htm

(2019年6月30日掲載)


■協力 カフェ:カフェ・ミュラー/取材:(株)木立の文庫 編集部/編集:前回のお客さん

まちかど学問のすゝめ 其の二

真実はひとつだろうか? 後半
(2019年1月22日)


●村井俊哉
1966年大阪府生まれ、バックパッカーを経て現在、精神医学者
最新著『精神医学の概念デバイス』(創元社, 2018年)
●お客さん
1969年神奈川県生まれ、歴史学研究者を経て現在、臨床歴史家
●常連さん
1967年大阪府生まれ、勤務編集者を経て現在、出版プランナー

▲村井俊哉氏(京都大学大学院医学研究科教授)最新著『精神医学の概念デバイス』(2018年)
▲村井俊哉氏(京都大学大学院医学研究科教授)最新著『精神医学の概念デバイス』(2018年)

前回からつづく(2018年10月30日に収録されたトークの後半)

 

村井俊哉
村井さん

今日このカフェで話し始めたときは、「専門性の低さは“アクセスしやすさ”にある」と思っていたんですけど、こうして考えていくと、「専門性のない分野とは“いろんな意見があるということが当然だ”と思われているような分野だ」という見方もできるかもしれませんね。「自分にはよくわからないけど答えはひとつのはずだ」というような分野には、人はあまり口を挟まない。「それは専門家に任せておこう」と思いますよね。

常連さん
常連さん

人間に関することでも、「遺伝子」の話は専門家に任せるけれど、「気持」の話は素人のわたしでも口を挟めそう、とか。

村井俊哉
村井さん

歴史なんかは微妙で、最終的には真実はひとつのはずなんですけど、見つかっていない部分も多いので、けっきょく解釈が勝負となる。

常連さん
常連さん

文芸批評などでも客観性・専門性は成り立ちにくいですね。「あなたは批評してもいい」という暗黙の基準を満たした人が批評の専門家なんでしょうか。ネット社会もそうですよね。インフルエンサーと位置づけられた人だったら発言が尊重される、みたいな。

村井俊哉
村井さん

医師免許のような資格もないですからね。分かれ目は、ファンの多さと説得力だけですね。あとは、言っていることの全体的な「整合性」でしょうね。たとえば、作品と自分の言っていることとが整合性をもっているか?

お客さん
お客さん

毎回毎回、違うことを言っていないとか。

村井俊哉
村井さん

あと、発言者自身が何かを“クリエイト”しているかどうか。たとえば、昔の有名な哲学者は割と思い切ったことを大雑把に語ったじゃないですか。それに対して、そうした哲学者について研究をしている人は、ものすごく精確性を重視しますよね。

お客さん
お客さん

そう、「哲学学者」ですよね。でも、そこに“クリエイト”したものを乗せている人は、その人自身が「哲学者」と見なされる。

村井俊哉
村井さん

おもしろいじゃないですか。

常連さん
常連さん

精神医学にも、精神医学者と精神医学学者さんがおられたり……?

村井俊哉
村井さん

精神医学史学会とかでは、事実を丹念に調べた報告がたくさんあります。ただ、そうして調べたことが、現代の精神医学に対してどういう影響をもっているかを述べることに対して、例えば患者さんへのスティグマ克服に向けて我々は歴史から何を学ぶのかといったことへの意見表明という点で、研究者らはちょっと慎重すぎるように感じることはあります。せめて、一般読者向けにその成果を伝える場合には、調べたことだけ書かずに、思い切った意見を言ってもらいたいと思うんですよ。

お客さん
お客さん

どこかしら「意見を言ってしまうと、専門家じゃなくなっちゃうかも」っていう怖さがあるかもしれない……。

村井俊哉
村井さん

その「専門家」という言葉には、たぶんいろんな意味があるんでしょうね。いま、話しながら考えてきたのは「中立性」という言葉の意味なのですが、“わからなさ”みたいなものもやはり「専門度」の基準ですよね。素人の“アクセスしにくさ”ということで、今日、話し始めたときの最初の直感に戻ることになりますが……。

▲いろんな意見の言いやすさ、アクセスのしやすさをめぐって、村井教授
▲いろんな意見の言いやすさ、アクセスのしやすさをめぐって、村井教授

 

“中途半端”をもういちど

常連さん
常連さん

前回の《カフェ》という場面のテーマでいうと、唯一の真実かどうかわからないことが、対話のなかで思いつくままに語られていく場、そんな《カフェ》の意味が、話題になりましたね。

村井俊哉
村井さん

昔は、精神医学の専門家はけっこう“思いつくまま”に語っていたと思うんですけど、語られなくなったのは、専門性に対する疑問がよく突きつけられているからじゃないでしょうか。「いい加減なことを言ってるんじゃないのか」という疑念に対して防衛的にならざるを得ない。だから「私たちの言っていることはこんなに中立的で、私たち専門家はそうやすやすとは自分の“思いつき”を口にしないのだ」という態度をとることになる。
患者さんは医療保険で病院に来られているし、ということは精神科医も国のお金で仕事をしているわけです。そして当然ながら「専門性」とか「中立性」を持った専門家になりなさい、とこれまで養成されているので、そうした態度になるのも当然のことですよね。
それでも、精神医学が本来扱っているもの自体、つまり“こころ”とは、素人でもアクセスしやすいものですよね。それからもうひとつ、精神医学は「自分の人生はどうあるべきか」といった話にも関係してきますよね。こうしたことについては色んな意見があるのがむしろ当たり前であって、「専門性」を持ちにくいはずなのです。ところが精神科医は「専門性」という鎧でガードしなければならない立場にある。
そうしたことを考えていくと、この不均衡のなかでストレスが溜まっている精神医学の専門家のこころの“オアシス”として、こころの“バランサー”として、専門家が専門性を離れたような意見を気軽に言うような場所というのがあってもいいのかなと思っています。《カフェ》が大事というのは、そういうところですね。

常連さん
常連さん

歴史の畑でも、いろんな談義が自由に交わされるフィールドがあったりします? 学会とは別に。

お客さん
お客さん

いやぁ、どうかな。昔は、専門家と専門家でない人の“あいだ”みたいな人がたくさんいて、さっきおっしゃっていたような『歴史散歩』が書けるような中学高校の社会の先生とか、そういう層が割とたくさんいたんですけど、いまはちょっと、そういう層が失われているような気がしますね。いまも昔も、「もの知り」ということではなく直接対象を観たり集めたりしている人は強いです。
昔は理科などでも、蝶を集めているとか星を観るのが好きだとか、半分は学者みたいな中学高校の先生がいっぱいおられたと思うんですけど、いまはすごく減っています。そういう層こそが、「専門家」からすれば、最高の応援団でもあり、ある意味では逆にいちばん厄介だ、ということかもしれませんが……。

村井俊哉
村井さん

“中途半端”というのが難しくなっているのではないでしょうか。いま、言われたことは、精神医学においても、けっこう真理をついていると思います。中間的な人たちが減ってきているのを感じます。なんでもかんでも「専門家に聞け」となるのも、やはり違うなという気がするんですよねえ。

お客さん
お客さん

あの層がけっこう大事だったんじゃないかと、わたしは思います。

常連さん
常連さん

心理学の本への“中間層”のニーズが減っているのもそこかもしれませんね。ちょっと小難しい本は、本当の素人の人じゃなくて、割と本を読むのが好きな層がないと成り立たないじゃない。いまは売れるのはそういう“中途半端”な読み物ではなくて、「こうすれば治る」みたいなハウツーもの、それこそダイエット本とか、コーチングとか。自己啓発みたいなものとか、そんなふうになってきていて。

お客さん
お客さん

歴史の分野でも、「信長の経営術」とかいうほうが売れるのかな。『歴史散歩』みたいな感覚が薄れているかもしれないですね。その領域を、実際に歩くという意味だけじゃなくて「歴史の世界を遊ぶ」というような感覚が…。
歴史だけじゃなくて、理科もそうですし、文学とかでも、たぶん中学高校の先生が「星の世界」とか「文学散歩」とかいう一種の教養書のようなものを書いている文化というのがあったと思うんですが……。

常連さん
常連さん

それこそ「本屋さん散歩」もなくなってますしね。

村井俊哉
村井さん

本屋でウロウロすること自体が楽しかったんですけど…… 本を買うというよりも。

お客さん
お客さん

目当てのものをというのではなくて、「本屋にいる」という時間がありましたからね。

▲精神医学でも歴史学でも、学問には専門家とアマチュアによるアプローチがあった
▲「まちかど学問」から”中途半端”の復権を夢みる、村井教授とお客さん

 

ウロウロ“探索”のすゝめ

村井俊哉
村井さん

確固たる目的があっての研究ではなく、答えがひとつでもなく中立的でもない、“中途半端”な「ぶらぶら散歩」ということから、いま考えてみると、じつは今日のいちばん初めの「自分の足で歩く」という話題にもつながりそうなんです。

お客さん
お客さん

出張の前後に東海道8kmを2時間かけて歩く、という……!

村井俊哉
村井さん

最近どこかで読んだある哲学の考え方というか、誰でも思いつくことではあるんですけど。われわれは、時間とか空間とかでできた三次元か四次元の「箱」のようなものの中を移動しているというイメージをなんとなく持っているじゃないですか。でも実際には、こちらの経験の側から考えると、「われわれが経験したり動いたりするからこそ、変化があるからこそ、時間があるんだ」という考えがあるんです。
そう考えると今度は「時間だけなく空間も、主観から構成される」ということになりますよね。もちろん止まっていても空間はあるんですよ。自分が止まっていても、近距離に視野を合わせたり遠距離に合わせたりで空間を探索することができますからね。でも、基本的に空間は、そこに決まった三次元の地図があるというよりも、「われわれが動いて発見していく」という見方もできますよね。
精神医学では主観と客観を行き来してそういう見方をするのが得意なので、「時間」については、そういう観点からの優れた論文もいくつも出ています。客観的な時間に対して主観的な時間というものを見直そうという感じの……。このことは空間についても同じことで、移動というのはいちばん「空間」を主観で認識しやすいですよね。

お客さん
お客さん

動いて地図を作っているようなものですよね。自分で足を運んでナンボ、というか、わたしが歩いて初めて空間の大きさが決まってくる、というか。

村井俊哉
村井さん

理屈だけで言うと、googleのストリートビューを見ていても同じものが見えるはずなんですけど、自分で行ったり能動的に動く探索というものがあって、それはとても大事だと思います。歴史ある町のおもしろさというのは、そこにありますよね。過去の時間軸が加わるので、現代だけでなく昔どうだったかを想像するとか……。この探索となると、断片だけ取り出してもおもしろくないです。ある時代のあるエピソードだけ取ってきて、次はまったく別のエピソードに飛んで、などと調べていってもね。

常連さん
常連さん

いまはインターネットから情報を引っ張ってくる。移動するときも「次はあそこを左に曲がりなさい」というように誘導されて行き着くわけですが、それは探索ではなくて、ゴールへの移動。書物の役割もそんな風に変わってきているんじゃないかなぁ。この事柄についての知識を得て、次はあの事柄の情報を得る、という感じに……。昔はかなり“探索”的な読書を愉しんでいたのが、ぼく自身も懐かしいです。

村井俊哉
村井さん

たとえばこの本(『精神医学の概念デバイス』)との関係で言うと、精神医学というのは「概念」を探索しているところがあって、それがおもしろいわけです。ある概念からある概念にたどり着き、また次の抽象概念に移動して、という風に探索しているわけです。カントみたいな感じに「基本概念がまずあって、世界はこのように構築されている」というのではなくて、実際には概念についても、われわれは「概念の空間」を探索をしているわけです。精神医学のおもしろさは“探索”のおもしろさにあるのかもしれませんね。探索しているうちにだんだんその「空間」に親しくなってくるので、ますます関心が深まっていく。
最近、それがなかなか難しくなっているのは、ネット時代にあって、観光とか歴史とかに対する興味が薄れていることと同じかもしれないですね。

常連さん
常連さん

ネットでも「サーフィン」というスタイルで“サーチ”はしているんですけどね。
たしかに知識は増えていきますが、何が違うかというと……。

お客さん
お客さん

違うのは、足を使うことかな。

村井俊哉
村井さん

五感はけっこう大事で、それが制約条件になるのがよいのかもしれませんね。行かないと出来ないし、行けない所には行けないですから。いきなり日本からブラジルに飛んだりはしないので、制約条件がある。ネットの場合、その制約条件が希薄ですよね。旅行では完全に五感が頼り。あるいは……自分の五感が制約条件になって、からだに入ってくる感じでしょうか。

常連さん
常連さん

からだに入る、ねえ。

村井俊哉
村井さん

旅行に行っても、覚えていることってほとんど、道に迷ったとかいうことですよね。史跡とかを見に行ったあとも、「あそこで苦労した」とかばかり覚えていて、肝心の目的地はそれほど記憶に残らないですよね。

お客さん
お客さん

途中のアクシデントのことばっかり、からだの感覚として滲みついて残っている。

村井俊哉
村井さん

専門領域の話もやっぱりそういうもので、「これが正解」というのがポンとあって「これを読んでおいてください」と言われるよりも、ウロウロ探索しているときの堂々巡りのほうが印象に残る。

常連さん
常連さん

ただし、空回りではなく……。

村井俊哉
村井さん

酒の入った場では、酔っていない人から見たら完全に空疎な会話がでぐるぐる回ってしまいますよね。カフェぐらいがいいです。たぶん、いま《GROVING BASE》でのトークのほうが、学者が飲み会で話していることよりは意義があるんじゃないですか。

お客さん
お客さん

答えがひとつでない“散歩トーク”が、カフェの醍醐味ということ? かな。

カフェでのトークは、からだで何かをつかむ「まちかど学問」にお似合い
▲カフェでのトークは、からだで何かをつかむ「まちかど学問」にお似合い

■協力 カフェ:GROVING BASE/取材:篠田拓也・但馬玲/編集:Office Hi

まちかど学問のすゝめ 其の一

真実はひとつだろうか? 前半
(2018年10月30日)


Cafetalk over “truth” (the former)

●村井俊哉
1966年大阪府生まれ、精神医学者。京都大学大学院医学研究科教授
最新著『精神医学の概念デバイス』(創元社, 2018年)
●お客さん
1968年神奈川県生まれ、歴史家
●常連さん
1967年大阪府生まれ、GROVING BASE住人

村井俊哉氏(京都大学大学院医学研究科教授)
▲村井俊哉氏(京都大学大学院医学研究科教授)
常連さん
常連さん

今回も 《GROVING BASE》カフェへようこそ! 今日も歩いてのご来店ですね。いつも動きやすそうな出で立ちですが、その靴は……。

村井俊哉
村井さん

この靴は前から見るとビジネスシューズみたいなんですけど、じつはスニーカーなんです。会議とかにもこれで十分ですしね。この週末も東京での出張の前に時間があって、この靴で東海道を藤沢から戸塚まで8km歩いてきました。

お客さん
お客さん

藤沢から戸塚まで! わたし神奈川県の出身なんですが…… あそこはアップダウンがあって、歩くのに慣れていても2時間はかかりますね。

村井俊哉
村井さん

ハイ、遊行寺坂。この2時間という制約がちょうど人間の体験には好都合なのかもしれませんね。人間の脳の処理能力には限界があるので、8kmを一気に見渡せと言われても結局、処理できないじゃないですか……。私はいつも『〇〇県の歴史散歩』っていうのを持って旅行するんですが、あのガイドブックを見ながらの2時間というのが、とてもいい具合なんです。

常連さん
常連さん

オッ『歴史散歩』シリーズ〔山川出版社〕ですね! こちら(お客さん)たしか…… 歴史の専門家さんでしたよね? 前回のカフェ・トークでは《専門家と素人》という話題(精神医学や臨床心理学は「素人」的な学問/歴史学や哲学は「専門家」的な学問、との話)もありましたし…… いっしょにお喋り、いかがでしょう。

村井俊哉
村井さん

あの『歴史散歩』シリーズの著者の多くは郷土史家ですよね、中学校の先生とか。でも、ものすごくよくできている。そういう意味で“歴史”というジャンルは、素人からもアクセスしやすいといえるのでしょうか。

お客さん
お客さん

そうですね。「アクセスのしやすさ」っていうことの中身を考えると、ひとつには理系の学問のような実験装置とかが要らない。身近に図書館や資料館があれば文献も集められるし……。

村井俊哉
村井さん

僕は昔バックパッカーで海外を旅行していたんですが、ジャングルを遡って川の真ん中からジャブジャブ入って上陸するんですけど、昔の専門書に『このあたりはまだまだ人が来ていない村がある』と書いてあったのを思い出して、行ってみるんですが、人類学の専門家よりも先にバックパッカーが先に来ているということもありました。

お客さん
お客さん

どっちが専門家かわからないですね。

健脚な村井氏。かつてはバックパッカーとして地球を歩き倒したとか
▲健脚な村井氏。かつてはバックパッカーとして地球を歩き倒したとか

素人の“アクセス”と一家言

村井俊哉
村井さん

そんな比較文化学も「足で稼いでアクセス可」な分野ですよね。もうひとつ、「直感でアクセス可」と思われる学問に、精神医学があります。ほんとうは割とアクセス困難と思うんですが…… 例えば、素人は薬を使えないし……。でも、素人だけど「自分のほうがよくわかっている」と思えてしまうところが精神医学にはあります。それにも一理はあるんだけど……。

お客さん
お客さん

心理学みたいな話題についても、素人ながら誰もが一家言ありますよね。

村井俊哉
村井さん

そういう不思議なところはありますよね。精神科の診療場面でも、患者さんに対して専門家的にはこうなっていますと言うと、『いや、あなたはそう思うかもしれないけど、わたしはこう考える』と言われる方が結構いらっしゃるのです。それは患者さんであることもあるし、付き添いでこられた職場の同僚の人が、自分の思う精神論みたいなものを述べられることは割とあることです。でもそんなこと、精神科以外の科では、まぁ滅多に言わないですよね。専門家の言ったことを信じるか、他の専門家に聞くかですよね。

お客さん
お客さん

素人がわかりそうに思わない分野って、どんなものがあるでしょう?

村井俊哉
村井さん

例えば宇宙工学なんて、ふつうの人は一家言もっていないですよね。

お客さん
お客さん

星が好きな人はいっぱいいるけれども……。じゃあ逆に、専門家というのは何をもって自分の専門性を自覚するのでしょう…… 知識量なのか? 関わってきた時間の長さみたいなものか? それとも技術みたいなものなのか?

村井俊哉
村井さん

もうひとつあるのは、たぶん資格ですね。

お客さん
お客さん

それがあると、たぶんわかりやすいですね。

村井俊哉
村井さん

資格というのは要するに形だけのことではあるんですけど、それでも、資格を持つ本人に対しても社会に対しても「専門性」を担保しているところがありますね。何を担保しているかというと、経験年数と知識です。一定の経験年数が受験資格になっていますし、試験の成績で知識を担保することができます。一応はそうなんですけど、よく考えてみると危うい土台の上にあることは確かですね。経験や知識や資格が十分だとしても、そもそもその分野そのものが確かなのか? と。

お客さん
お客さん

精神医学でも、そういう視点はありますか?

村井俊哉
村井さん

昔から繰り返し、疑いの目が向けられてきたように思います。ただ、そうした疑いの意見をさらによくみていくと、精神医学の専門性を疑う意見には二つの方向があるように思うのです。
ひとつは「他の医学の進んだ分野に比べると、科学としていい加減だ」という意見。証拠も少ないし、自然科学としての基礎がなっていない、ということがよく言われるんですね。私はこの分野の専門家ですので、そうした意見に対しては、いやそんなことはない、精神医学もけっこう科学的だと意見しなければならないのです。
そして、もうひとつの疑念があります。それは私自身見落としていて、最近ある方から言われてああそうだなと思った、まったく反対の方向からの意見なのです。「精神医学は本来サイエンスなどであるべきではない。それなのにサイエンスの体裁をとった、近代資本主義が生み出した悪しき行為である」みたいな意見です。
精神医学とは本来はこころとこころの触れ合いなので、科学の体裁などとるべきでない! と言って批判する人がいる一方で、反対側の人は、まだまだサイエンスとしての体裁が不十分で、もっと科学にならないといけない! と批判するのですね。

精神医学と歴史学、「ひと」を扱う学問領域のアプローチを語り合う
▲精神医学と歴史学、「ひと」を扱う学問領域のアプローチを語り合う

“おもしろさ”のツボ

お客さん
お客さん

それは歴史学も同じかもしれないです。

村井俊哉
村井さん

たぶんそうでしょうね。歴史学は僕の知る範囲だと、精神医学と同じ時期に同じ議論がありました。自然科学がどんどん発達して、19世紀の終わりくらいに割と本気で「すべて自然科学になるんじゃないか」という期待が高まっている時期がありましたね。
たとえばナポレオンがロシアに侵攻したのはなぜか? という問いへの自然科学からの答えとして、当時のロシアの地政学的条件とか気象条件とかいったことで説明するという方向に学問が振れたのではないかと思うのです。それに対して、ナポレオンがロシアに攻め込んだことをナポレオンの性格とかそういうことで説明するというやり方もあって、歴史の説明は、やはり個人の動機が大事だ、という意見も根強くあって、そうしたなかで、歴史学という学問がふたつに割れるということになった時期があったのではないでしょうか。
ちょうどこの時代に、精神医学にもふたつの方法があることに気づいた先人がいました。精神医学でも、個別の動機よりも、リスクファクターとか検査データとかいったものがはるかに重要だという専門家と、いやいや「こう思ったからこうした」という動機のほうが大事だ、という専門家になんとなく分かれていく流れができたのですね。いまでもその分裂が残っている点は、歴史学と一緒ではないでしょうか。

お客さん
お客さん

人物史の流れと、必ずしもそのときの判断ではなくて法則のようなものがあるというような流れと。個人的には、わたしも最初あるいは最近は、人物がおもしろいと思っていました。つい最近までは制度とかがおもしろいというように変わっていて……。学問の流れとしては、理系的にやるのと文系的にやるのとで、あまり明確には分かれていませんが、基本的には「実証」が大事だということかもしれません。

村井俊哉
村井さん

織田信長はあの時こう思ってこうしたんじゃないかな? とかいうのはダメなのでしょうか。

お客さん
お客さん

だいたい一般的には、テレビでも「信長の判断」の感じのほうが受けると思いますけど……。研究としては、信長個人の判断だったとしても、「そう判断した、という証拠を持って来い」という考え方、それを「実証」ということばで表現しているかもしれません。

村井俊哉
村井さん

僕はドイツに旅行したときに、ドイツの小さな町の歴史に、それこそ郷土史家的な意味で詳しくなって、向こうの研究者と話をしたんです。そして『よく知っていますね』と褒められて、それは嬉しかったんですけどね。でも『ぼくたち専門家の実際の研究では、そのときどこの村では税金をどのように課したとかいうことを地道に調べているだけです』と言われたことがあります。

お客さん
お客さん

そうですね。おもしろい/おもしろくないは、やっぱり…… 調べたりした作業の上に「どう表現するか」というところにも分かれ目があって……。

村井俊哉
村井さん

本当に統合された視点というのは、ちゃんと証拠を置いた上におもしろい解釈があるみたいな……。その点でも、精神医学と歴史学はかなり似ているところがありますよね。

お客さん
お客さん

あくまでも実証の上に“物語”を描くという。

村井俊哉
村井さん

こうしたことを考えるときに、私たちがどういう観点からそれぞれの研究や書物を評価しているかというと、やはり「専門性」ということを評価していると思うのです。特に、自然科学から見た専門性という場合には、「客観性」が重要視されますよね。じつは客観性という言葉にはいくつもの意味があるのですが、そのなかに「人によって異なる意見が出てこない。誰がデータを取っても出てくる提案は一緒だ」という意味での客観性が、自然科学では重要視されています。

お客さん
お客さん

最後にニュートラルな主張が出てくることこそが、よい自然科学である、と。

村井俊哉
村井さん

それに対して客観性を重要視しない分野では、「あなたの言っていることと私の考えは別だ」ということを皆が堂々と言っている。ロボット工学とかでそんなことを言わない理由としては、「自分にはよくわからないから」というのもあります。ただ、もうひとつ、“真実はひとつのはずだ”という前提があるので、“いろんな意見がある”ということが前提とされていない、という理由もあると思います。

お客さん
お客さん

なるほど…… そうか。

ナチュラル感があふれるGROVING BASEのカフェでトークは続く…
▲ナチュラル感があふれるGROVING BASEのカフェでトークは続く…

「真実は一つだろうか? 後半」の掲載は2019年1月22日(火)
【木立のカフェ】次回のお喋りは1月25日(金)の予定です
興味のある方は【お問い合わせ】フォームからご連絡ください。


■協力 カフェ:GROVING BASE/取材:篠田拓也・但馬玲/編集:Office Hi

木立のカフェ OPEN!

煎りたて 挽きたて 淹れたての一杯(2018年9月3日)


talking with 村井俊哉氏(京都大学大学院医学研究科精神医学教室 教授)
cafe @ GROVING BASE(京都市下京区新町通松原下ル)

村井俊哉氏

村井俊哉
村井さん

《木立の文庫》サイト立ち上げにあたっての“カフェ”のオープンですね。《木立の文庫》全体もそうなんでしょうけど、このコーナーでも、半分バーチャルな「語り場」のようなコンセプトで、ゆったりした感じはするんだけど専門的な話もして、というようなレベルで皆さんと交われるといいですね。

常連さん
常連さん

その昔“カフェ”という場にはそんな時間が流れていましたね。どうということのない世間話もするんだけども、一杯のコーヒーで四時間粘って、日替わりの談義に花を咲かせて……という。

無目的で無計画に発想が交わる

村井俊哉
村井さん

今はそういう場がだんだん無くなってきています。なぜそうなってきたかというと、私のような精神科医療に携わる者も含めて「ひとのこころ」をあつかう分野で働く人、たとえば心理系の人が忙しくなってきて、漫然と語り合うなんていう暇がなくなったこと。それと、国の政策とかもあるんですけど、研究費を取ってミーティングをしてその報告書を書くというような「型にはまった」セッティングを守る必要が非常に大きくなってきたこと。

常連さん
常連さん

考えたりしゃべったりというのは、そういう「お膳立てされた」場所でやる。

村井俊哉
村井さん

そういう場所で、しかも最初に研究計画を出して、それを着々とやれというような……。要は、国の税金を使ってやっているので、そういう形になってきているのです。「単にしゃべる」ということがほとんどなくなっているんです。

常連さん
常連さん

そうなんですよね……いまの社会は。ただ話す、無目的で計画もなく、という場に餓えているような気がするのです。それもネット空間ではなくて……。

村井俊哉氏

村井俊哉
村井さん

昔はよくやっていたんですよね。僕が研修医に入った30年近く前の頃は、だいたいそんな感じで“カフェ”談義がありました。当時、有名な木村敏(きむら・びん)教授がいらっしゃって、先生を囲む読書会とかがあって、読書会自体でもフリーなディスカッションをするんですけど、その後に、木村先生もいらっしゃったと思いますし、若手だけだったこともあるのですが、すぐに居酒屋に飲みに行くということはなくて、コーヒーを飲みに行きました。僕もお酒を飲むのはすごく好きなんですけど、考えてみたら“カフェ”もすごく必要かな、と。そういう時間が今はなくなっていると思います。

常連さん
常連さん

飲み会には飲み会の役割がありますけど。

村井俊哉
村井さん

飲み会での話というのは、議論を深めるためというよりは、基本的には親睦を深めることが目的ですね。たとえば共同研究のネゴシエーションをしたり、仲良くなって次につなげるとかの目的であって、そこでもう一歩発想が湧くというようなことではない。

常連さん
常連さん

ゆるやかな勉強会といった場もありますが……。

村井俊哉
村井さん

勉強会とか研究会でも、だんだん時間が短くなると、フォーマットができちゃうんですよね。シンポジウムだと、一人20分話して最後に総合討論を20分とるとか、それではほとんど話はできないですよね。なので、そもそも総合討論で何を話すかについて、前もってお約束ができていたりということがあるんです。

村井俊哉氏

村井俊哉
村井さん

こういう場があったらいいかなと、ずっと思っていました。皆さんに体験してもらうのは《木立の文庫》Web Baseだけど、僕たちは実際にカフェに来て話をするというのがいいと思います。

常連さん
常連さん

そうですね。ウェブサイト用に書いてバーチャルにカフェっぽく演出するという手もありかもしれないですけど、そうではなく、現実のカフェという時間・空間でリアルに話す。

村井俊哉
村井さん

そういうコンセプトで、僕がしゃべらせてもらったり、あるいは別の方に来てもらったり、一緒に話したり、いろんな形がとれますよね。三、四人で話すこともできる。

常連さん
常連さん

いいですね。ところ変わればテーマも変わる。

村井俊哉
村井さん

今日は「カフェ」そのものがテーマですけど、何とでもできる。たぶん呼ぶ人によって自然に出てくると思うんですね。テーマなんて、話しているうちに多少動いてもいい。それがやっぱり“カフェ”の良さだと思うので……。

現場と学問のあいだからの発信

村井俊哉
村井さん

こうしたコンセプトの“カフェ”があったらいいかな、と思っていたのには二つの理由があります。ひとつは、僕らのやっている分野では、普通の医者とか心理臨床家とかが、現場で頑張って仕事しているんですけど、本格的な学問というよりは、やや素人的な学問をしている、という点です。

常連さん
常連さん

ん? 素人的……?

村井俊哉氏

村井俊哉
村井さん

歴史学とか哲学とかでは、本格的に文献をきっちり押さえて決まった作法でものを言う、決して単なる個人のオピニオンではない本来の学問です。そういうものはカフェで話すよりもむしろ研究室で考えたほうがいい。それと較べると、われわれの学問というのは、素人ではないけれども半分素人みたいなところがあるんです。われわれの業界にも非常に人気のある中井久夫(なかい・ひさお)先生のようなカリスマ的な人たちがおられます。こうした人たちの書いたものに、私も皆さんも非常に感銘を受けるかもしれませんが、それらが学問のフォーマットを完全に整えた学術論文かというと、そうではない。でも、それがやはり必要で、現場と学問の中間ぐらいのところからの発信は非常に大事なんです。それを容れていくようなフォーマットとして、“カフェ”というセッティングは非常にいいのではないかと思います。

常連さん
常連さん

そうか。そういう発想・発信には、パソコンに向かう部屋ではなく、“カフェ”での語りあいのシーンがお似合いということですね。

村井俊哉
村井さん

そういう意味で、このスタイルがいいのではないかと思ったんです。もうひとついいなと思うのは、いま僕らがいる場所です。京都人は京都をほめ過ぎるから鬱陶しがられるんですけど、やはり今日だってこの〈GROVING BASE〉という空間がいいので、発想が湧いてくる。これが仮に京都以外の場所からの発信だとしたら、ネットでのバーチャルな意見交換でもいいかもしれないですね。せっかく京都から発信するので、ここに限らずいろんなリアルな“カフェ”から発信したほうがいいのかなと。

常連さん
常連さん

そのほうが等身大で体温のある話を交わせそうな……。

木立のカフェ1

常連さん
常連さん

このたび《木立の文庫》発足にあたっての“カフェ”開店ということですが、そもそも《木立の文庫》そのものにもそういうイメージを抱いています。いろんな植生があって動物がいるなか、いろんなものたちが集まってくる。おのおのの「多様な個」が立っているなかで、それぞれが影響しあって、たえず変化しながら場がつくられていく。そこには小川も流れているかもしれないし、虫が飛んでくるかもしれない……そういうリアルな「場」感覚というのが、“カフェ”にとてもマッチしているような気がします。

村井俊哉
村井さん

確かにそうですね、木立と個立ち。それと、もうひとつの“カフェ”の良さとしては、合宿しているわけではないので自由に出入りが許される、というところがありますね。徹底討論となるとちょっとしんどいですが、変化が許される“カフェ”では、今おっしゃったように個が立って……。

常連さん
常連さん

一人抜けてもいいし。

村井俊哉
村井さん

また、別の場所に帰って仕事をするわけで……。

常連さん
常連さん

そうですね。いっとき集まっては帰っていく。

“木立のカフェ” 次回は11月
(案内ご希望は当サイト【お問い合わせ】まで…!)


■協力 カフェ:GROVING BASE/取材:伊藤洋子・小林依里子/編集:Office Hi