「根回し」のほんとうの意味は

[中島由理]


雑木林に戻そうと思っている荒地に来春に移植するための木の周りを掘り進めている。

根回しという言葉のもともとの意味を知ったのは、木を植え替えたときだった。

根回しとは、植え替える半年前にあらかじめ根を切っておいて、細い根を発生させて、新しい土地に活着させやすくすることである。
太い根を断ち切ることには躊躇しそうになるけれど、古い根を切るとそこからしなやかで生き生きとした新しい毛細根が出てきて、根はにわかに活性化する。

見知らぬ場所に移動させられた木は、その瑞々しい根で大地の滋養を活発に吸収し、新しい場所にしっかり根付かせようと勢いよく大地を掘り進めてゆく。

 

落葉樹の場合、ある程度成長した木でも、活動期にあらかじめ古い根を整理し、新しい根を発生させておいてから、地上部が休眠している時に移植すれば、しっかり根付いてくれる。
根を切った分量に相当する上部の枝葉も切っておく。切った根が送っていた分の水や養分が枝葉に届けられなくなるからだ。

植え替えられてしばらくは、昔の場所になじませてきた枝葉が新たな場所には違和感を感じさせるけれど。
数年もたつと、最初からそこにあったかのように、その場にふさわしい姿へとしなやかに変えていくのは見事である。

 

移植された木は、本来ありえない移動という事件に遭遇して、根と枝葉を削られ、生まれ故郷から追われても新しい場所でさらに大きく、生き生きと新たな生の営みを紡いでいる。

木は一部を失っても、生きようとする生命力そのものが削がれることはないように見える。

「大いなる生命」は無際限に充溢しようとしているかのようである。
生命が流れている限り、失うものは何もないのかもしれない。

失ったように見えても、やがて尽きない泉の水がそこを満たし、溢れてゆく。

無際限の生命の泉に繋がっているなら、自分にとってもう必要のない古びた根は解き放って、そこに新たな根を活性化させて新しい養分を吸収し、より大きく、瑞々しくいのちを沸き立たせる未知の場所へと広がっていけるのかもしれない。

オオカメノキの紅葉
オオカメノキの紅葉

 

低山の低木の中でとりわけ大きな葉が印象的なオオカメノキ。

山の中の大きな木の陰で、肩身の狭そうな貧相な枝振りだったオオカメノキを、庭の主役の位置に据えた。

根元を林の腐葉土でたっぷり覆って、新しい根に行き渡るように水やりは欠かさないようにした。

 

朝陽があたる広々とした空間で枝をたわわに広げ、数年たった今、貫禄ある姿になってきている。
とりたてて手はいれていない。
木がその空間に合わせて絶妙な姿へと変身していくのに任せている。

 

春には無数の花を咲かせてくれる。
山では見たことがないような、ものすごい数の花なのである。


中島由理 (なかじま・ゆり)
京都市生まれ、同志社大学で哲学・倫理学を専攻。
自然の中での人の立ち位置を考えるなか“ほんとうの自然”を自分の目で確かめるため、自然農を試み、日本各地の原生林や高山を訪ね歩く。人の手の入らない自然の中に、驚くような調和とうつくしさを見つけて、「森」をモチーフに油彩・水彩で表現。現在、山梨県小淵沢町に居を移し、身近に自然と接しながら、制作を続ける。
●中島由理 公式サイト
http://www.ne.jp/asahi/yuri/gallery/index.html

和して同ぜず

[中島由理] 


冬の時期は花も咲かず、広葉樹は葉を落とし、森の樹々は沈黙している。

 

常緑の針葉樹は冬にも葉を落とすことはないけれども、枝だけになった広葉樹の木々に歩調を合わせるかのように、寒くなるにつれ少しずつ渋い色調に変えている。

違和感なく、枝だけになった茶色の広葉樹林に溶け込んでいる。同じ色になるのではなく、違う色だけれど、調和している。
その姿を見て、ふと、「和して同ぜず」という言葉が浮かんできた。

冬の森
Harmonize but not agree.

森の樹々は、各々全てが個性的で全てが違った姿でありながら、全体として見事に調和している姿にいつも感嘆させられる。

樹も花の時期など主張すべきときは主張もする、けれども、決して悪目立ちしたり、浮き上がることがない。
どの樹もその場所にふさわしい姿に変えても、ナラの樹はナラの樹でありながら、森全体として調和している。

多様なものが、本質を変えることなく、皆が同じになることなく、和する道を体現している。

 

人工的に植林された杉林を見慣れていたせいか、初めて見た自然林のその見事な配色や配置の見事さに感激したものだった。

遠くから眺めると、とんがった針葉樹がまばらに絶妙なアクセントを描きながら、リズムを刻みながら林をかたちづくっている。
スギやヒノキばかりだと遠目で見ても重すぎる。広葉樹の合間にポツポツと見えているのが、絶妙なのである。

 

スギやヒノキだけ植えられた林は薄暗くて気味悪く、尖った落ち葉が堆積しているだけで下草があまり生えない。
緑の砂漠、その表現どおり殺伐として、そこから早く遠ざかりたいような気配がする。
それは効率のみを考えた、多様な命を顧みないこころの表れなのかもしれない。

歩いて楽しく、目に美しい森、多様なものが混在しながらも、調和しているそんな森であるように、周囲の林を管理している。
薪ストーブに使う樹もいろいろあっていい。
じっくり長く温めるには、広葉樹の小楢やクヌギの薪が良いし、針葉樹は焚付けや一気に温度を上げるのに役立ってくれる。
いろんな状況に対処するには、いろいろな樹種、大きさの薪があるといい。

冬の森の樹木
They like this space, and they are fine.

日本の低山は広葉樹だけでなく、まばらに針葉樹もあってこそ、変化に富んだ風景を見せてくれる。

ある時、樹木医に雑木林に生えている赤松を伐採してはどうかと相談したところ、
「彼らはここが気に入ってここで元気にしているのだから、このままの方がいい」と言われた。

赤松はこの八ヶ岳近辺では植林したものが多く、その種がやってきて自然に芽生えたようだったが、その姿があまり好みではなかった。
けれど、ここ八ヶ岳山麓では冬の強すぎる風も、常緑の赤松や一位の木が和らげてくれているのだった。
生命がここに生を受けて在るということは、ここでなければならなかったという必然的な理由があるのかもしれない。

 

寒いところで生きる針葉樹は雪がよく似合う。


中島由理 (なかじま・ゆり)
京都市生まれ、同志社大学で哲学・倫理学を専攻。
自然の中での人の立ち位置を考えるなか“ほんとうの自然”を自分の目で確かめるため、自然農を試み、日本各地の原生林や高山を訪ね歩く。人の手の入らない自然の中に、驚くような調和とうつくしさを見つけて、「森」をモチーフに油彩・水彩で表現。現在、山梨県小淵沢町に居を移し、身近に自然と接しながら、制作を続ける。
●中島由理 公式サイト
http://www.ne.jp/asahi/yuri/gallery/index.html

萌芽更新

[中島由理] 


冷たい風が吹き渡る季節、雑木林の木々は沈黙を守っているかのようだけれど、時折木を切る音が響いてくる。

材にするにも薪にするにも、茸のホダ木づくりも、木が休眠している寒い時期がいい。
 
 
 
木を切るということにはかなり抵抗はある。
木に近づいてみると、思った以上に太く、相当に重い。その重さは生命の重さのようにも感じられる。
切り口を見ると、樹皮のすぐ内側は鮮やかな緑色をしていて、水気を帯び、冬季は休眠しているとはいっても生命活動を続けていることを肌で感じる。

一切皆伐のような大がかりな伐採は環境面でも問題を起こすこともあるけれど、
少しずつ使わせていただきながらの伐採なら、かえって林を若返らせて活性化させ、自然は恵みを絶やすことなく与えてくれるということを
ここににきて実感するようになった。
 
 
 
最近は街中にも雑木林の風情を感じさせる株立ちの木が植えられることが多くなっている。

多くの木は芽生えてから一本立ちで大きくなるが、薪として使われてきた雑木林では、薪にふさわしい大きさになると伐採する。
その切り株からは、何本も萌芽してきて、株立ちの姿に生まれ変わるのである。

その萌芽力には驚く。更地にしようと直径30cmくらいの小楢の木を伐採し地上部が見えないように深くまで切ってもらったのだが、毎年そこから何十本もの若芽が出てくるのだった。それを何度も全て抜き取っても、萌芽は数年間続いた。

 

里山を彩る木の多くは地上部を切ってもその個体は地下で生き続けていて、春になると勢いよく萌芽してくる。
令法(リョウブ)の木などは、小さな切り株からでも何十本も萌芽してくる。
新芽はすくすく育って、20年もすれば立派な株立ちの木に育つ。
リョウブであるという、その生命の核心は変わることなく、それまでとは全く違った新しい姿に生まれ変わるのだ。
真新しく再生した木々は、若木のように生き生きと花を咲かせている。低い位置で花開いたリョウブの花は、人にも芳しい香を届けてくれる。

雑木林の木は、見かけが細くて若々しい木でも、もしかしたらかなり古参の年長者なのかもしれない。

株立ちになった令法(リョウブ)の木

雑木を切って更新することで、その周りにも変化とにぎわいをもたらすこともある。

道沿いに張り出した幹を幾本か伐採して、風通しがよくなって明るくなった森には、足元にも新風が吹きはじめた。

 

目覚め季節がやってくると、それまで薄暗くてひっそりとしていた林床が、色とりどりの菫の花や、木漏れ陽に呼応するように青く輝く筆竜胆(フデリンドウ)花で彩られ、にわかに華やぎを見せている。

林床に姿を見せたフデリンドウの花

新年早々に届いた《木立の文庫》さんの案内に切り株のイラストが描かれている。

新しい季節の訪れとともに、その切り株から三本の新しい主枝が萌芽してくる気配がする。
どんな木立の風景がひらかれてくるのか楽しみである。


中島由理 (なかじま・ゆり)
京都市生まれ、同志社大学で哲学・倫理学を専攻。
自然の中での人の立ち位置を考えるなか“ほんとうの自然”を自分の目で確かめるため、自然農を試み、日本各地の原生林や高山を訪ね歩く。人の手の入らない自然の中に、驚くような調和とうつくしさを見つけて、「森」をモチーフに油彩・水彩で表現。現在、山梨県小淵沢町に居を移し、身近に自然と接しながら、制作を続ける。
●中島由理 公式サイト
http://www.ne.jp/asahi/yuri/gallery/index.html