まちかど学問のすゝめ 其の二

真実はひとつだろうか? 後半
(2019年1月22日)


●村井俊哉
1966年大阪府生まれ、バックパッカーを経て現在、精神医学者
最新著『精神医学の概念デバイス』(創元社, 2018年)
●お客さん
1969年神奈川県生まれ、歴史学研究者を経て現在、臨床歴史家
●常連さん
1967年大阪府生まれ、勤務編集者を経て現在、出版プランナー

▲村井俊哉氏(京都大学大学院医学研究科教授)最新著『精神医学の概念デバイス』(2018年)
▲村井俊哉氏(京都大学大学院医学研究科教授)最新著『精神医学の概念デバイス』(2018年)

前回からつづく(2018年10月30日に収録されたトークの後半)

 

村井俊哉
村井さん

今日このカフェで話し始めたときは、「専門性の低さは“アクセスしやすさ”にある」と思っていたんですけど、こうして考えていくと、「専門性のない分野とは“いろんな意見があるということが当然だ”と思われているような分野だ」という見方もできるかもしれませんね。「自分にはよくわからないけど答えはひとつのはずだ」というような分野には、人はあまり口を挟まない。「それは専門家に任せておこう」と思いますよね。

常連さん
常連さん

人間に関することでも、「遺伝子」の話は専門家に任せるけれど、「気持」の話は素人のわたしでも口を挟めそう、とか。

村井俊哉
村井さん

歴史なんかは微妙で、最終的には真実はひとつのはずなんですけど、見つかっていない部分も多いので、けっきょく解釈が勝負となる。

常連さん
常連さん

文芸批評などでも客観性・専門性は成り立ちにくいですね。「あなたは批評してもいい」という暗黙の基準を満たした人が批評の専門家なんでしょうか。ネット社会もそうですよね。インフルエンサーと位置づけられた人だったら発言が尊重される、みたいな。

村井俊哉
村井さん

医師免許のような資格もないですからね。分かれ目は、ファンの多さと説得力だけですね。あとは、言っていることの全体的な「整合性」でしょうね。たとえば、作品と自分の言っていることとが整合性をもっているか?

お客さん
お客さん

毎回毎回、違うことを言っていないとか。

村井俊哉
村井さん

あと、発言者自身が何かを“クリエイト”しているかどうか。たとえば、昔の有名な哲学者は割と思い切ったことを大雑把に語ったじゃないですか。それに対して、そうした哲学者について研究をしている人は、ものすごく精確性を重視しますよね。

お客さん
お客さん

そう、「哲学学者」ですよね。でも、そこに“クリエイト”したものを乗せている人は、その人自身が「哲学者」と見なされる。

村井俊哉
村井さん

おもしろいじゃないですか。

常連さん
常連さん

精神医学にも、精神医学者と精神医学学者さんがおられたり……?

村井俊哉
村井さん

精神医学史学会とかでは、事実を丹念に調べた報告がたくさんあります。ただ、そうして調べたことが、現代の精神医学に対してどういう影響をもっているかを述べることに対して、例えば患者さんへのスティグマ克服に向けて我々は歴史から何を学ぶのかといったことへの意見表明という点で、研究者らはちょっと慎重すぎるように感じることはあります。せめて、一般読者向けにその成果を伝える場合には、調べたことだけ書かずに、思い切った意見を言ってもらいたいと思うんですよ。

お客さん
お客さん

どこかしら「意見を言ってしまうと、専門家じゃなくなっちゃうかも」っていう怖さがあるかもしれない……。

村井俊哉
村井さん

その「専門家」という言葉には、たぶんいろんな意味があるんでしょうね。いま、話しながら考えてきたのは「中立性」という言葉の意味なのですが、“わからなさ”みたいなものもやはり「専門度」の基準ですよね。素人の“アクセスしにくさ”ということで、今日、話し始めたときの最初の直感に戻ることになりますが……。

▲いろんな意見の言いやすさ、アクセスのしやすさをめぐって、村井教授
▲いろんな意見の言いやすさ、アクセスのしやすさをめぐって、村井教授

 

“中途半端”をもういちど

常連さん
常連さん

前回の《カフェ》という場面のテーマでいうと、唯一の真実かどうかわからないことが、対話のなかで思いつくままに語られていく場、そんな《カフェ》の意味が、話題になりましたね。

村井俊哉
村井さん

昔は、精神医学の専門家はけっこう“思いつくまま”に語っていたと思うんですけど、語られなくなったのは、専門性に対する疑問がよく突きつけられているからじゃないでしょうか。「いい加減なことを言ってるんじゃないのか」という疑念に対して防衛的にならざるを得ない。だから「私たちの言っていることはこんなに中立的で、私たち専門家はそうやすやすとは自分の“思いつき”を口にしないのだ」という態度をとることになる。
患者さんは医療保険で病院に来られているし、ということは精神科医も国のお金で仕事をしているわけです。そして当然ながら「専門性」とか「中立性」を持った専門家になりなさい、とこれまで養成されているので、そうした態度になるのも当然のことですよね。
それでも、精神医学が本来扱っているもの自体、つまり“こころ”とは、素人でもアクセスしやすいものですよね。それからもうひとつ、精神医学は「自分の人生はどうあるべきか」といった話にも関係してきますよね。こうしたことについては色んな意見があるのがむしろ当たり前であって、「専門性」を持ちにくいはずなのです。ところが精神科医は「専門性」という鎧でガードしなければならない立場にある。
そうしたことを考えていくと、この不均衡のなかでストレスが溜まっている精神医学の専門家のこころの“オアシス”として、こころの“バランサー”として、専門家が専門性を離れたような意見を気軽に言うような場所というのがあってもいいのかなと思っています。《カフェ》が大事というのは、そういうところですね。

常連さん
常連さん

歴史の畑でも、いろんな談義が自由に交わされるフィールドがあったりします? 学会とは別に。

お客さん
お客さん

いやぁ、どうかな。昔は、専門家と専門家でない人の“あいだ”みたいな人がたくさんいて、さっきおっしゃっていたような『歴史散歩』が書けるような中学高校の社会の先生とか、そういう層が割とたくさんいたんですけど、いまはちょっと、そういう層が失われているような気がしますね。いまも昔も、「もの知り」ということではなく直接対象を観たり集めたりしている人は強いです。
昔は理科などでも、蝶を集めているとか星を観るのが好きだとか、半分は学者みたいな中学高校の先生がいっぱいおられたと思うんですけど、いまはすごく減っています。そういう層こそが、「専門家」からすれば、最高の応援団でもあり、ある意味では逆にいちばん厄介だ、ということかもしれませんが……。

村井俊哉
村井さん

“中途半端”というのが難しくなっているのではないでしょうか。いま、言われたことは、精神医学においても、けっこう真理をついていると思います。中間的な人たちが減ってきているのを感じます。なんでもかんでも「専門家に聞け」となるのも、やはり違うなという気がするんですよねえ。

お客さん
お客さん

あの層がけっこう大事だったんじゃないかと、わたしは思います。

常連さん
常連さん

心理学の本への“中間層”のニーズが減っているのもそこかもしれませんね。ちょっと小難しい本は、本当の素人の人じゃなくて、割と本を読むのが好きな層がないと成り立たないじゃない。いまは売れるのはそういう“中途半端”な読み物ではなくて、「こうすれば治る」みたいなハウツーもの、それこそダイエット本とか、コーチングとか。自己啓発みたいなものとか、そんなふうになってきていて。

お客さん
お客さん

歴史の分野でも、「信長の経営術」とかいうほうが売れるのかな。『歴史散歩』みたいな感覚が薄れているかもしれないですね。その領域を、実際に歩くという意味だけじゃなくて「歴史の世界を遊ぶ」というような感覚が…。
歴史だけじゃなくて、理科もそうですし、文学とかでも、たぶん中学高校の先生が「星の世界」とか「文学散歩」とかいう一種の教養書のようなものを書いている文化というのがあったと思うんですが……。

常連さん
常連さん

それこそ「本屋さん散歩」もなくなってますしね。

村井俊哉
村井さん

本屋でウロウロすること自体が楽しかったんですけど…… 本を買うというよりも。

お客さん
お客さん

目当てのものをというのではなくて、「本屋にいる」という時間がありましたからね。

▲精神医学でも歴史学でも、学問には専門家とアマチュアによるアプローチがあった
▲「まちかど学問」から”中途半端”の復権を夢みる、村井教授とお客さん

 

ウロウロ“探索”のすゝめ

村井俊哉
村井さん

確固たる目的があっての研究ではなく、答えがひとつでもなく中立的でもない、“中途半端”な「ぶらぶら散歩」ということから、いま考えてみると、じつは今日のいちばん初めの「自分の足で歩く」という話題にもつながりそうなんです。

お客さん
お客さん

出張の前後に東海道8kmを2時間かけて歩く、という……!

村井俊哉
村井さん

最近どこかで読んだある哲学の考え方というか、誰でも思いつくことではあるんですけど。われわれは、時間とか空間とかでできた三次元か四次元の「箱」のようなものの中を移動しているというイメージをなんとなく持っているじゃないですか。でも実際には、こちらの経験の側から考えると、「われわれが経験したり動いたりするからこそ、変化があるからこそ、時間があるんだ」という考えがあるんです。
そう考えると今度は「時間だけなく空間も、主観から構成される」ということになりますよね。もちろん止まっていても空間はあるんですよ。自分が止まっていても、近距離に視野を合わせたり遠距離に合わせたりで空間を探索することができますからね。でも、基本的に空間は、そこに決まった三次元の地図があるというよりも、「われわれが動いて発見していく」という見方もできますよね。
精神医学では主観と客観を行き来してそういう見方をするのが得意なので、「時間」については、そういう観点からの優れた論文もいくつも出ています。客観的な時間に対して主観的な時間というものを見直そうという感じの……。このことは空間についても同じことで、移動というのはいちばん「空間」を主観で認識しやすいですよね。

お客さん
お客さん

動いて地図を作っているようなものですよね。自分で足を運んでナンボ、というか、わたしが歩いて初めて空間の大きさが決まってくる、というか。

村井俊哉
村井さん

理屈だけで言うと、googleのストリートビューを見ていても同じものが見えるはずなんですけど、自分で行ったり能動的に動く探索というものがあって、それはとても大事だと思います。歴史ある町のおもしろさというのは、そこにありますよね。過去の時間軸が加わるので、現代だけでなく昔どうだったかを想像するとか……。この探索となると、断片だけ取り出してもおもしろくないです。ある時代のあるエピソードだけ取ってきて、次はまったく別のエピソードに飛んで、などと調べていってもね。

常連さん
常連さん

いまはインターネットから情報を引っ張ってくる。移動するときも「次はあそこを左に曲がりなさい」というように誘導されて行き着くわけですが、それは探索ではなくて、ゴールへの移動。書物の役割もそんな風に変わってきているんじゃないかなぁ。この事柄についての知識を得て、次はあの事柄の情報を得る、という感じに……。昔はかなり“探索”的な読書を愉しんでいたのが、ぼく自身も懐かしいです。

村井俊哉
村井さん

たとえばこの本(『精神医学の概念デバイス』)との関係で言うと、精神医学というのは「概念」を探索しているところがあって、それがおもしろいわけです。ある概念からある概念にたどり着き、また次の抽象概念に移動して、という風に探索しているわけです。カントみたいな感じに「基本概念がまずあって、世界はこのように構築されている」というのではなくて、実際には概念についても、われわれは「概念の空間」を探索をしているわけです。精神医学のおもしろさは“探索”のおもしろさにあるのかもしれませんね。探索しているうちにだんだんその「空間」に親しくなってくるので、ますます関心が深まっていく。
最近、それがなかなか難しくなっているのは、ネット時代にあって、観光とか歴史とかに対する興味が薄れていることと同じかもしれないですね。

常連さん
常連さん

ネットでも「サーフィン」というスタイルで“サーチ”はしているんですけどね。
たしかに知識は増えていきますが、何が違うかというと……。

お客さん
お客さん

違うのは、足を使うことかな。

村井俊哉
村井さん

五感はけっこう大事で、それが制約条件になるのがよいのかもしれませんね。行かないと出来ないし、行けない所には行けないですから。いきなり日本からブラジルに飛んだりはしないので、制約条件がある。ネットの場合、その制約条件が希薄ですよね。旅行では完全に五感が頼り。あるいは……自分の五感が制約条件になって、からだに入ってくる感じでしょうか。

常連さん
常連さん

からだに入る、ねえ。

村井俊哉
村井さん

旅行に行っても、覚えていることってほとんど、道に迷ったとかいうことですよね。史跡とかを見に行ったあとも、「あそこで苦労した」とかばかり覚えていて、肝心の目的地はそれほど記憶に残らないですよね。

お客さん
お客さん

途中のアクシデントのことばっかり、からだの感覚として滲みついて残っている。

村井俊哉
村井さん

専門領域の話もやっぱりそういうもので、「これが正解」というのがポンとあって「これを読んでおいてください」と言われるよりも、ウロウロ探索しているときの堂々巡りのほうが印象に残る。

常連さん
常連さん

ただし、空回りではなく……。

村井俊哉
村井さん

酒の入った場では、酔っていない人から見たら完全に空疎な会話がでぐるぐる回ってしまいますよね。カフェぐらいがいいです。たぶん、いま《GROVING BASE》でのトークのほうが、学者が飲み会で話していることよりは意義があるんじゃないですか。

お客さん
お客さん

答えがひとつでない“散歩トーク”が、カフェの醍醐味ということ? かな。

カフェでのトークは、からだで何かをつかむ「まちかど学問」にお似合い
▲カフェでのトークは、からだで何かをつかむ「まちかど学問」にお似合い

■協力 カフェ:GROVING BASE/取材:篠田拓也・但馬玲/編集:Office Hi

まちかど学問のすゝめ 其の一

真実はひとつだろうか? 前半
(2018年10月30日)


Cafetalk over “truth” (the former)

●村井俊哉
1966年大阪府生まれ、精神医学者。京都大学大学院医学研究科教授
最新著『精神医学の概念デバイス』(創元社, 2018年)
●お客さん
1968年神奈川県生まれ、歴史家
●常連さん
1967年大阪府生まれ、GROVING BASE住人

村井俊哉氏(京都大学大学院医学研究科教授)
▲村井俊哉氏(京都大学大学院医学研究科教授)
常連さん
常連さん

今回も 《GROVING BASE》カフェへようこそ! 今日も歩いてのご来店ですね。いつも動きやすそうな出で立ちですが、その靴は……。

村井俊哉
村井さん

この靴は前から見るとビジネスシューズみたいなんですけど、じつはスニーカーなんです。会議とかにもこれで十分ですしね。この週末も東京での出張の前に時間があって、この靴で東海道を藤沢から戸塚まで8km歩いてきました。

お客さん
お客さん

藤沢から戸塚まで! わたし神奈川県の出身なんですが…… あそこはアップダウンがあって、歩くのに慣れていても2時間はかかりますね。

村井俊哉
村井さん

ハイ、遊行寺坂。この2時間という制約がちょうど人間の体験には好都合なのかもしれませんね。人間の脳の処理能力には限界があるので、8kmを一気に見渡せと言われても結局、処理できないじゃないですか……。私はいつも『〇〇県の歴史散歩』っていうのを持って旅行するんですが、あのガイドブックを見ながらの2時間というのが、とてもいい具合なんです。

常連さん
常連さん

オッ『歴史散歩』シリーズ〔山川出版社〕ですね! こちら(お客さん)たしか…… 歴史の専門家さんでしたよね? 前回のカフェ・トークでは《専門家と素人》という話題(精神医学や臨床心理学は「素人」的な学問/歴史学や哲学は「専門家」的な学問、との話)もありましたし…… いっしょにお喋り、いかがでしょう。

村井俊哉
村井さん

あの『歴史散歩』シリーズの著者の多くは郷土史家ですよね、中学校の先生とか。でも、ものすごくよくできている。そういう意味で“歴史”というジャンルは、素人からもアクセスしやすいといえるのでしょうか。

お客さん
お客さん

そうですね。「アクセスのしやすさ」っていうことの中身を考えると、ひとつには理系の学問のような実験装置とかが要らない。身近に図書館や資料館があれば文献も集められるし……。

村井俊哉
村井さん

僕は昔バックパッカーで海外を旅行していたんですが、ジャングルを遡って川の真ん中からジャブジャブ入って上陸するんですけど、昔の専門書に『このあたりはまだまだ人が来ていない村がある』と書いてあったのを思い出して、行ってみるんですが、人類学の専門家よりも先にバックパッカーが先に来ているということもありました。

お客さん
お客さん

どっちが専門家かわからないですね。

健脚な村井氏。かつてはバックパッカーとして地球を歩き倒したとか
▲健脚な村井氏。かつてはバックパッカーとして地球を歩き倒したとか

素人の“アクセス”と一家言

村井俊哉
村井さん

そんな比較文化学も「足で稼いでアクセス可」な分野ですよね。もうひとつ、「直感でアクセス可」と思われる学問に、精神医学があります。ほんとうは割とアクセス困難と思うんですが…… 例えば、素人は薬を使えないし……。でも、素人だけど「自分のほうがよくわかっている」と思えてしまうところが精神医学にはあります。それにも一理はあるんだけど……。

お客さん
お客さん

心理学みたいな話題についても、素人ながら誰もが一家言ありますよね。

村井俊哉
村井さん

そういう不思議なところはありますよね。精神科の診療場面でも、患者さんに対して専門家的にはこうなっていますと言うと、『いや、あなたはそう思うかもしれないけど、わたしはこう考える』と言われる方が結構いらっしゃるのです。それは患者さんであることもあるし、付き添いでこられた職場の同僚の人が、自分の思う精神論みたいなものを述べられることは割とあることです。でもそんなこと、精神科以外の科では、まぁ滅多に言わないですよね。専門家の言ったことを信じるか、他の専門家に聞くかですよね。

お客さん
お客さん

素人がわかりそうに思わない分野って、どんなものがあるでしょう?

村井俊哉
村井さん

例えば宇宙工学なんて、ふつうの人は一家言もっていないですよね。

お客さん
お客さん

星が好きな人はいっぱいいるけれども……。じゃあ逆に、専門家というのは何をもって自分の専門性を自覚するのでしょう…… 知識量なのか? 関わってきた時間の長さみたいなものか? それとも技術みたいなものなのか?

村井俊哉
村井さん

もうひとつあるのは、たぶん資格ですね。

お客さん
お客さん

それがあると、たぶんわかりやすいですね。

村井俊哉
村井さん

資格というのは要するに形だけのことではあるんですけど、それでも、資格を持つ本人に対しても社会に対しても「専門性」を担保しているところがありますね。何を担保しているかというと、経験年数と知識です。一定の経験年数が受験資格になっていますし、試験の成績で知識を担保することができます。一応はそうなんですけど、よく考えてみると危うい土台の上にあることは確かですね。経験や知識や資格が十分だとしても、そもそもその分野そのものが確かなのか? と。

お客さん
お客さん

精神医学でも、そういう視点はありますか?

村井俊哉
村井さん

昔から繰り返し、疑いの目が向けられてきたように思います。ただ、そうした疑いの意見をさらによくみていくと、精神医学の専門性を疑う意見には二つの方向があるように思うのです。
ひとつは「他の医学の進んだ分野に比べると、科学としていい加減だ」という意見。証拠も少ないし、自然科学としての基礎がなっていない、ということがよく言われるんですね。私はこの分野の専門家ですので、そうした意見に対しては、いやそんなことはない、精神医学もけっこう科学的だと意見しなければならないのです。
そして、もうひとつの疑念があります。それは私自身見落としていて、最近ある方から言われてああそうだなと思った、まったく反対の方向からの意見なのです。「精神医学は本来サイエンスなどであるべきではない。それなのにサイエンスの体裁をとった、近代資本主義が生み出した悪しき行為である」みたいな意見です。
精神医学とは本来はこころとこころの触れ合いなので、科学の体裁などとるべきでない! と言って批判する人がいる一方で、反対側の人は、まだまだサイエンスとしての体裁が不十分で、もっと科学にならないといけない! と批判するのですね。

精神医学と歴史学、「ひと」を扱う学問領域のアプローチを語り合う
▲精神医学と歴史学、「ひと」を扱う学問領域のアプローチを語り合う

“おもしろさ”のツボ

お客さん
お客さん

それは歴史学も同じかもしれないです。

村井俊哉
村井さん

たぶんそうでしょうね。歴史学は僕の知る範囲だと、精神医学と同じ時期に同じ議論がありました。自然科学がどんどん発達して、19世紀の終わりくらいに割と本気で「すべて自然科学になるんじゃないか」という期待が高まっている時期がありましたね。
たとえばナポレオンがロシアに侵攻したのはなぜか? という問いへの自然科学からの答えとして、当時のロシアの地政学的条件とか気象条件とかいったことで説明するという方向に学問が振れたのではないかと思うのです。それに対して、ナポレオンがロシアに攻め込んだことをナポレオンの性格とかそういうことで説明するというやり方もあって、歴史の説明は、やはり個人の動機が大事だ、という意見も根強くあって、そうしたなかで、歴史学という学問がふたつに割れるということになった時期があったのではないでしょうか。
ちょうどこの時代に、精神医学にもふたつの方法があることに気づいた先人がいました。精神医学でも、個別の動機よりも、リスクファクターとか検査データとかいったものがはるかに重要だという専門家と、いやいや「こう思ったからこうした」という動機のほうが大事だ、という専門家になんとなく分かれていく流れができたのですね。いまでもその分裂が残っている点は、歴史学と一緒ではないでしょうか。

お客さん
お客さん

人物史の流れと、必ずしもそのときの判断ではなくて法則のようなものがあるというような流れと。個人的には、わたしも最初あるいは最近は、人物がおもしろいと思っていました。つい最近までは制度とかがおもしろいというように変わっていて……。学問の流れとしては、理系的にやるのと文系的にやるのとで、あまり明確には分かれていませんが、基本的には「実証」が大事だということかもしれません。

村井俊哉
村井さん

織田信長はあの時こう思ってこうしたんじゃないかな? とかいうのはダメなのでしょうか。

お客さん
お客さん

だいたい一般的には、テレビでも「信長の判断」の感じのほうが受けると思いますけど……。研究としては、信長個人の判断だったとしても、「そう判断した、という証拠を持って来い」という考え方、それを「実証」ということばで表現しているかもしれません。

村井俊哉
村井さん

僕はドイツに旅行したときに、ドイツの小さな町の歴史に、それこそ郷土史家的な意味で詳しくなって、向こうの研究者と話をしたんです。そして『よく知っていますね』と褒められて、それは嬉しかったんですけどね。でも『ぼくたち専門家の実際の研究では、そのときどこの村では税金をどのように課したとかいうことを地道に調べているだけです』と言われたことがあります。

お客さん
お客さん

そうですね。おもしろい/おもしろくないは、やっぱり…… 調べたりした作業の上に「どう表現するか」というところにも分かれ目があって……。

村井俊哉
村井さん

本当に統合された視点というのは、ちゃんと証拠を置いた上におもしろい解釈があるみたいな……。その点でも、精神医学と歴史学はかなり似ているところがありますよね。

お客さん
お客さん

あくまでも実証の上に“物語”を描くという。

村井俊哉
村井さん

こうしたことを考えるときに、私たちがどういう観点からそれぞれの研究や書物を評価しているかというと、やはり「専門性」ということを評価していると思うのです。特に、自然科学から見た専門性という場合には、「客観性」が重要視されますよね。じつは客観性という言葉にはいくつもの意味があるのですが、そのなかに「人によって異なる意見が出てこない。誰がデータを取っても出てくる提案は一緒だ」という意味での客観性が、自然科学では重要視されています。

お客さん
お客さん

最後にニュートラルな主張が出てくることこそが、よい自然科学である、と。

村井俊哉
村井さん

それに対して客観性を重要視しない分野では、「あなたの言っていることと私の考えは別だ」ということを皆が堂々と言っている。ロボット工学とかでそんなことを言わない理由としては、「自分にはよくわからないから」というのもあります。ただ、もうひとつ、“真実はひとつのはずだ”という前提があるので、“いろんな意見がある”ということが前提とされていない、という理由もあると思います。

お客さん
お客さん

なるほど…… そうか。

ナチュラル感があふれるGROVING BASEのカフェでトークは続く…
▲ナチュラル感があふれるGROVING BASEのカフェでトークは続く…

「真実は一つだろうか? 後半」の掲載は2019年1月22日(火)
【木立のカフェ】次回のお喋りは1月25日(金)の予定です
興味のある方は【お問い合わせ】フォームからご連絡ください。


■協力 カフェ:GROVING BASE/取材:篠田拓也・但馬玲/編集:Office Hi

木立のカフェ OPEN!

煎りたて 挽きたて 淹れたての一杯(2018年9月3日)


talking with 村井俊哉氏(京都大学大学院医学研究科精神医学教室 教授)
cafe @ GROVING BASE(京都市下京区新町通松原下ル)

村井俊哉氏

村井俊哉
村井さん

《木立の文庫》サイト立ち上げにあたっての“カフェ”のオープンですね。《木立の文庫》全体もそうなんでしょうけど、このコーナーでも、半分バーチャルな「語り場」のようなコンセプトで、ゆったりした感じはするんだけど専門的な話もして、というようなレベルで皆さんと交われるといいですね。

常連さん
常連さん

その昔“カフェ”という場にはそんな時間が流れていましたね。どうということのない世間話もするんだけども、一杯のコーヒーで四時間粘って、日替わりの談義に花を咲かせて……という。

無目的で無計画に発想が交わる

村井俊哉
村井さん

今はそういう場がだんだん無くなってきています。なぜそうなってきたかというと、私のような精神科医療に携わる者も含めて「ひとのこころ」をあつかう分野で働く人、たとえば心理系の人が忙しくなってきて、漫然と語り合うなんていう暇がなくなったこと。それと、国の政策とかもあるんですけど、研究費を取ってミーティングをしてその報告書を書くというような「型にはまった」セッティングを守る必要が非常に大きくなってきたこと。

常連さん
常連さん

考えたりしゃべったりというのは、そういう「お膳立てされた」場所でやる。

村井俊哉
村井さん

そういう場所で、しかも最初に研究計画を出して、それを着々とやれというような……。要は、国の税金を使ってやっているので、そういう形になってきているのです。「単にしゃべる」ということがほとんどなくなっているんです。

常連さん
常連さん

そうなんですよね……いまの社会は。ただ話す、無目的で計画もなく、という場に餓えているような気がするのです。それもネット空間ではなくて……。

村井俊哉氏

村井俊哉
村井さん

昔はよくやっていたんですよね。僕が研修医に入った30年近く前の頃は、だいたいそんな感じで“カフェ”談義がありました。当時、有名な木村敏(きむら・びん)教授がいらっしゃって、先生を囲む読書会とかがあって、読書会自体でもフリーなディスカッションをするんですけど、その後に、木村先生もいらっしゃったと思いますし、若手だけだったこともあるのですが、すぐに居酒屋に飲みに行くということはなくて、コーヒーを飲みに行きました。僕もお酒を飲むのはすごく好きなんですけど、考えてみたら“カフェ”もすごく必要かな、と。そういう時間が今はなくなっていると思います。

常連さん
常連さん

飲み会には飲み会の役割がありますけど。

村井俊哉
村井さん

飲み会での話というのは、議論を深めるためというよりは、基本的には親睦を深めることが目的ですね。たとえば共同研究のネゴシエーションをしたり、仲良くなって次につなげるとかの目的であって、そこでもう一歩発想が湧くというようなことではない。

常連さん
常連さん

ゆるやかな勉強会といった場もありますが……。

村井俊哉
村井さん

勉強会とか研究会でも、だんだん時間が短くなると、フォーマットができちゃうんですよね。シンポジウムだと、一人20分話して最後に総合討論を20分とるとか、それではほとんど話はできないですよね。なので、そもそも総合討論で何を話すかについて、前もってお約束ができていたりということがあるんです。

村井俊哉氏

村井俊哉
村井さん

こういう場があったらいいかなと、ずっと思っていました。皆さんに体験してもらうのは《木立の文庫》Web Baseだけど、僕たちは実際にカフェに来て話をするというのがいいと思います。

常連さん
常連さん

そうですね。ウェブサイト用に書いてバーチャルにカフェっぽく演出するという手もありかもしれないですけど、そうではなく、現実のカフェという時間・空間でリアルに話す。

村井俊哉
村井さん

そういうコンセプトで、僕がしゃべらせてもらったり、あるいは別の方に来てもらったり、一緒に話したり、いろんな形がとれますよね。三、四人で話すこともできる。

常連さん
常連さん

いいですね。ところ変わればテーマも変わる。

村井俊哉
村井さん

今日は「カフェ」そのものがテーマですけど、何とでもできる。たぶん呼ぶ人によって自然に出てくると思うんですね。テーマなんて、話しているうちに多少動いてもいい。それがやっぱり“カフェ”の良さだと思うので……。

現場と学問のあいだからの発信

村井俊哉
村井さん

こうしたコンセプトの“カフェ”があったらいいかな、と思っていたのには二つの理由があります。ひとつは、僕らのやっている分野では、普通の医者とか心理臨床家とかが、現場で頑張って仕事しているんですけど、本格的な学問というよりは、やや素人的な学問をしている、という点です。

常連さん
常連さん

ん? 素人的……?

村井俊哉氏

村井俊哉
村井さん

歴史学とか哲学とかでは、本格的に文献をきっちり押さえて決まった作法でものを言う、決して単なる個人のオピニオンではない本来の学問です。そういうものはカフェで話すよりもむしろ研究室で考えたほうがいい。それと較べると、われわれの学問というのは、素人ではないけれども半分素人みたいなところがあるんです。われわれの業界にも非常に人気のある中井久夫(なかい・ひさお)先生のようなカリスマ的な人たちがおられます。こうした人たちの書いたものに、私も皆さんも非常に感銘を受けるかもしれませんが、それらが学問のフォーマットを完全に整えた学術論文かというと、そうではない。でも、それがやはり必要で、現場と学問の中間ぐらいのところからの発信は非常に大事なんです。それを容れていくようなフォーマットとして、“カフェ”というセッティングは非常にいいのではないかと思います。

常連さん
常連さん

そうか。そういう発想・発信には、パソコンに向かう部屋ではなく、“カフェ”での語りあいのシーンがお似合いということですね。

村井俊哉
村井さん

そういう意味で、このスタイルがいいのではないかと思ったんです。もうひとついいなと思うのは、いま僕らがいる場所です。京都人は京都をほめ過ぎるから鬱陶しがられるんですけど、やはり今日だってこの〈GROVING BASE〉という空間がいいので、発想が湧いてくる。これが仮に京都以外の場所からの発信だとしたら、ネットでのバーチャルな意見交換でもいいかもしれないですね。せっかく京都から発信するので、ここに限らずいろんなリアルな“カフェ”から発信したほうがいいのかなと。

常連さん
常連さん

そのほうが等身大で体温のある話を交わせそうな……。

木立のカフェ1

常連さん
常連さん

このたび《木立の文庫》発足にあたっての“カフェ”開店ということですが、そもそも《木立の文庫》そのものにもそういうイメージを抱いています。いろんな植生があって動物がいるなか、いろんなものたちが集まってくる。おのおのの「多様な個」が立っているなかで、それぞれが影響しあって、たえず変化しながら場がつくられていく。そこには小川も流れているかもしれないし、虫が飛んでくるかもしれない……そういうリアルな「場」感覚というのが、“カフェ”にとてもマッチしているような気がします。

村井俊哉
村井さん

確かにそうですね、木立と個立ち。それと、もうひとつの“カフェ”の良さとしては、合宿しているわけではないので自由に出入りが許される、というところがありますね。徹底討論となるとちょっとしんどいですが、変化が許される“カフェ”では、今おっしゃったように個が立って……。

常連さん
常連さん

一人抜けてもいいし。

村井俊哉
村井さん

また、別の場所に帰って仕事をするわけで……。

常連さん
常連さん

そうですね。いっとき集まっては帰っていく。

“木立のカフェ” 次回は11月
(案内ご希望は当サイト【お問い合わせ】まで…!)


■協力 カフェ:GROVING BASE/取材:伊藤洋子・小林依里子/編集:Office Hi