日々これ想定外(その弐)

[藤中隆久] 


 いつの間にか経験者のように偉そうにシャドーボクシングを語っているけど、どうして僕がこんな事を詳しく語れるかと言うと、それは、僕が経験者だから。
 その昔、僕はキックボクサーだった。プロのリングでも何戦か戦っている。なので、トレーニングをしているときの意識についても、よくわかる。シャドーボクシングのトレーニングをしているときの意識は、想定した対戦相手(シャドー)に向いていて、まちがっても「自己の内部」には向いていない。対人競技においては、相手に対して意識を向けることは当たり前で、相手に意識を向けながらトレーニングすることで、実戦に有効な技が身につく。

シャドーボクシングのトレーニング
「いまさら…つかれただの拳闘をやめたいだのと…言えねえ…」
Tomorrow’s Joe, vol.14

 現代武道の形稽古も、シャドーボクシングのトレーニングと同じく、目に見えない相手を想定して、その相手に向かって形が想定する攻防の動きをすることが、形稽古ということになるだろう。
 ということは、常に「自己の内部」に意識を向けて、自己と対話をしながら稽古することこそが、強くなる唯一の方法であると考える古武道の形稽古は、現代武道からすれば「意味不明」で「非常識」とさえ考えられるのではないだろうか。
 しかし、ここで考える非常識は、ホントに非常識なのだろうか?

 

生きるための「想定外」問答集

 日本人にとっての常識が、キューバ人にとっては常識ではないかもしれないように、前提が変われば常識も変わる。
 現代武道の前提とする戦いと、古武道の前提とする戦いは、かなり異なる。古武道の時代には、現代的なルールに従った形式の試合は無かったので、前提とする戦いは「ノールール」。だから、相手が何を仕掛けてくるのかはわからない、ということが大前提。   
 その後、現代武道が発展した大きな理由は、ルールを整備して試合ができる競技にしたこと。現代武道では、一試合で少なくとも5,6分は戦う。リングでは、1ラウンド3分で、3ラウンドとか5ラウンドとかを戦う。そして、勝っても負けても、さわやかに健闘をたたえ合って別れることが可能だ。

勝っても負けても、さわやかに
「もう一度、力石の顔を…いいだろうおじょうさん」
Tomorrow’s Joe, vol.9

 かたや古武道では、失敗や負けは、すなわち死を意味する。だから、繰り出した技は必ず成功しなければならないし、戦いには必ず勝たねばならない。なので、5分も6分も戦ったりはしない。一瞬で勝負をつけるという戦い方を想定している。

 このような違いがあれば、稽古法も異なってくるのは当然だろう。ノールールで、失敗が死につながる戦いでは、相手に一瞬のスキを見せることも許されず、また、相手に気配を悟られることも許されない。
 したがって目指すべきは、黒田〔2000年〕が述べるような「軽く、柔らかく、速く、静かで浮いている。しかも美しく動きは消える」種類の動きとなる。あるいは、沖縄にルーツをもつ糸東流空手の宗家の摩文仁賢榮〔2001年〕が述べる「空手本来の形は居着いてはならない。これは素人目からすれば、ふにゃふにゃととらえどころのない動きに映るようです」というような動きこそが、よい動きということになる。
 そのような動き方を身に着けるためには、自己の“いま-ここ”の内部の感覚を意識しながら、形稽古をおこなうことが大切になる。敵からの攻撃は、同じ状況ということはありえず、そういう意味では、常に「想定外」である。
「想定外」の攻撃を受けると、一瞬で、自己の内部は変わる。変わった自己の内部を一瞬で把握し、次の瞬間にもっとも効果的は反撃を繰り出すためには、意識を自己の内部に向けて、感覚を研ぎ澄ませて、その感覚に従ったもっとも合理的な動きを瞬時に選択する必要がある。形稽古は、その瞬時の感覚を養うためになされる。
 関節を中心としたパワフルな技を繰り出す現代武道の動きは、成功することもあれば、失敗することもある。失敗が死を意味するノールールの状況では、そんな動きをするわけにはいかないのだ。

 

生きた自分と 生きた相手

 前回の日記に綴った入試の面接での会話も、前提が違っている。
 受験生は想定内の質問が来ることに微塵の疑いも持たない、という入試を舐めた態度をとっている。ところが面接官としては、受験生やそれを指導する高校の先生が想定している程度の質問など、したくない。どうせ、お芝居のセリフのように覚えてきたことをぺらぺらとまくし立てるだけの結果が目に見えているからだ。受験生の本音を聞くためには、その想定の上を行く質問がしたい。
 面接官がそう考えているのならば、想定問答集を練習することは無意味となる。それよりも、どんな質問をされても、そこで生きた会話ができるようになっておくことが対策となるのではないだろうか。そんな人間になっておくためには、入試が近くなってから面接を想定して練習をしたりしてもダメで、常日頃からいろんなことを自分の頭で考えてみる練習をしておくべきだろう。そういう練習をしておけば、入試が近くなってから特に面接の練習をしたりする必要はない。

 付け焼刃の練習よりも、日々の生き方が大事ということであり、これは決して“非常識”ではなく、むしろ普遍的な真理といってもいいくらいに常識的だと思われるが、いかがだろう。
 となると、たとえばカウンセリングにおける会話も、クライエントに対して、良くなるためにいいアドバイスをするようなものではなく、“いま-ここ”で感じたことを述べてゆくというような会話であるべきではないだろうか。この前提を間違えると、ごくごく常識的な会話をクライエントと一緒にするという、非常識なカウンセリングをする羽目になってしまう。

常日頃から練習を
「燃えたよ……真っ白に……燃え尽きた」
Tomorrow’s Joe, vol.20

 ところで、キューバでは、歌えるか、踊れるか、叩けるか(打楽器ができるか)が、男らしさの条件ということらしい。日本男児たるもの、歌ったり踊ったり楽器を演奏したりなどとチャラチャラするべきではないので、わが国ではそんな男がもてたりはしないが、キューバでは、これができれば、女性にモテモテらしい。
 真面目人間ゆえに、わが国ではイマイチもてない私だが、これで、けっこう歌えるし踊れるし叩けるので、いずれは、キューバに移住しようか? などと考えているところである。どうせ、私の人生は、ずっと、南下しぱなっしなのである。


藤中隆久藤中隆久(ふじなか・たかひさ)
1961年 京都市伏見区生まれ 格闘家として育つ
いろいろあって1990年 京都教育大学大学院教育学研究科修了(教育学修士)
西にシフトして1996年 九州大学大学院教育学研究科博士後期課程修了
南に下りて1999年から 熊本大学教育学部 2015年から教授
6フィート2インチ 
現在200ポンド:当時170ポンド

日々これ想定外(その壱)

[藤中隆久] 


 僕は、かなりの真面目人間だ。どんなことでも真剣に考えて、真面目に発言している(真面目人間なので、女性にもてたりもしない)。
 そんな僕が「入試の面接においては、受験生は想定問答などの練習をせずに、ぶっつけ本番で臨むべき」なんて言っている【前号】。僕としては大真面目に言っているつもりなんだけど、そんな発言によって僕は、ふざけた人だとか、でたらめな人だとかの印象をもたれているようなのだ。いったいどうして、この真面目な男の真剣なる発言が、「でたらめな」という印象を持たれてしまうのだろう?
 それは、僕の言っていることが“非常識”に聞こえるから、かもしれない。確かに、僕が常識だと思っていたことが、他の人からすると非常識だったりすることも、たまにはあるだろう。日本人にとっての常識は、日々熱帯夜を生きているキューバの人にとっては非常識だったりするだろうから。常識とは時と場所によって変わる。
 しかし、僕の「入試の面接はぶっつけ本番がいい」説は、常識として言っているのではない。もっと普遍的な真理として、論じている。

 

相手の出かた次第?

 前回の日記に書いた文楽の「ぶっつけ本番」とは、時と場所によって変わる概念ではなく、普遍的な真理だ。
 三人の人形遣いが、刻一刻と変化し続ける本番の状況のなかで一体の人形を息を合わせて動かすためには、常に“いま-ここ”で人形の体感を共有しておく必要がある。舞台上で何が起こっても、三人が人形の体感を共有しておけば、とっさに対処できる。それは、普段のお稽古を繰り返し重ねていって台本どおりに出来るようになる、などという考え方とは、そもそも目指す芸も、境地も、違うのではないだろうか。

 古武道における「形[かた]稽古」も、同じ発想かもしれない。
剣術、居合い術、柔術などの宗家で振武館黒田道場館長の黒田鉄山〔2000年〕が、形稽古のときの意識について、こう言っている。
「それ以後、今まで意識もしなかった左右の手の返しに明確な違和感が実感されるようになった。[略]こねているという感が終始つきまとうようになった。」

自分自身が対象なのだ

「素振りというものは、いかに、自分の体が意のままに動かないかを知るためのものだ。仮想敵、据え物などが対象ではない。自分自身が対象なのだ。」
 そう、自己の内部の“いま-ここ”を感じるための稽古が、古武道における形稽古。その形稽古のときの意識は自己の内部に向かう。

 ところが、現代武道の形稽古は、その動きを繰り返し練習することによって、動き方を身につけるためにおこなわれるもので、意識を自らの内側に向けることはない。講道館道場指導部の向井〔2008年〕は、形は基本なので正しく身に着ける必要があることを強調したうえで、次のように言っている。
「形による稽古のみでは約束的なものになりがちです。十分な技の効果がないのに受けが勝手に跳んで受け身を取ったりする稽古では、真剣な場面では、少しも技が効かないことになりかねません。」

そのときの意識は仮想敵に向かっている

 ここでは形稽古に、自分の内部の“いま-ここ”を感じながら自己との対話をするというような意味づけを与えたりはしていない。現代武道の形稽古は、相手が想定されていて、そのときの意識は、仮想敵に向かっている。

 

相手のことをシャドーと呼びます

 こうした相手を想定した形稽古は、ボクシングやキックボクシングでの「シャドーボクシング」というトレーニング方法に似ている。
 シャドーボクシングとは、一人でやるものだが、目の前に対戦相手を想定して(この対戦相手のことをシャドーという)動き続けるトレーニング。シャドーが繰り出してくる攻撃を防御しながら、シャドーに向かって自分の攻撃を当てるためのさまざまな動きを繰り返す。
 シャドーが打ってきたと想定する左ジャブを、自分の左手で払い落としながら、次の瞬間に、右ストレート→左ボディブロー→右ローキックというコンビネーションをシャドーに打ち込む。さまざまな想定で防御と攻撃を繰り返しながら、3分間、動き回る。
 このトレーニングはたいへん重要で、キックボクシングのトレーニングは、シャドーボクシングにもっとも時間をかけると言っても過言ではない。いや、過言かな……?

例えば、一日のジムワークのメニューはこんな感じだ。
・ストレッチ2ラウンド
・縄跳び4ラウンド
・シャドーボクシング6ラウンド
・サンドバッグ打ち5ラウンド
・ミット打ち4ラウンド
・首相撲5ラウンド
・腹筋200回
・背筋200回
・ストレッチ2ラウンドなどの仕上げの運動
 これに、筋トレをやりたい人は筋トレを加える。
 試合が近い場合は、マススパーリング3ラウンド、スパーリング3ラウンド、などが加わる。1ラウンドは3分で、1ラウンド終了すると1分の休憩が入る。

強くなるぜ…おっちゃんの期待にそえるようにな

 ほら、やっぱり! シャドーボクシングにいちばん時間をかけているでしょ?
 シャドーの練習に時間をかけることによって、キックボクサーらしい動き方が出来るようになるし、左ジャブ→右ローキックというような基本的なコンビネーションから、右ミドルキック→右ストレート→左フック→右ローキックというような高度なコンビネーションまでも、出来るようになってゆく。シャドーボクシングのトレーニングに時間をかけることで、コンビネーションブローを体に覚え込ませることができる。
(2019年2月16日)


藤中隆久藤中隆久(ふじなか・たかひさ)
1961年 京都市伏見区生まれ 格闘家として育つ
いろいろあって1990年 京都教育大学大学院教育学研究科修了(教育学修士)
西にシフトして1996年 九州大学大学院教育学研究科博士後期課程修了
南に下りて1999年から 熊本大学教育学部 2015年から教授
6フィート2インチ 
現在200ポンド:当時170ポンド

非常識らしさの発想(2)

[藤中隆久] 


想定無用“いま”のリアル
~前回からの続き~

 文楽の人形遣いの桐竹勘十郎は、内田樹との対談のなかで、稽古に関して次のような発言をしている。

 「僕は、最近冗談半分で稽古なんかしても無駄だからって言ってるんです。だって、舞台稽古を何日もやっても、ただの段取り稽古でしかない。(略)うちの師匠は、ものすごく段取りが嫌いで、『段取り芝居ほどつまらないものはない』とおっしゃっている。だから、ぶっつけ本番大賛成。」

 これを読んで「文楽の人形遣いなんて“ぶっつけ本番”が通用するお気楽な世界なんだ」と思ったらそれは、そう思った人のほうがお気楽なのだ。文楽は決してお気楽な世界ではない。何十年もかけて弟子修行をしながら芸を高めてゆく、きわめて厳しい伝統芸能である。
 文楽は、真ん中の主遣い、右の足遣い、左の左遣いの三人が一体の人形に、舞台で語られている浄瑠璃のストーリーを演じさせる芸能である。三人で一体の人形を動かし、まるで人間のような動きをさせるのである。人形の体と手と足がバラバラにならないよう三人で一体の動きが出来なければいけない。しかも、人形遣い同士は言葉で意思疎通はできないので、三人の動きをお互いに感じながら、無言で意思疎通をしながら、人形に一体の動きをさせるのである。言葉を使わずに感覚だけで相手の意図を感じる訓練が必要である。俗に「足遣い十年」といわれていて、人形の足を体と連動させて動かせるようになるまでに十年はかかる、ということなのである。
 前述の勘十郎は、足遣いを15年やったとのことである。このときの訓練は、いまここを感じることに尽きる。ぶっつけ本番の舞台という緊迫した状況のなかでいまここをリアルに感じることが、すなわち訓練となる。それぞれの人形遣いが人形の体感をいまここで共有し、それぞれが、その感覚に問いかけ続けながら人形を動かせば、そのとき、自然に人形の体と腕と足が一体となって、お芝居のシーンと調和のとれた動きとなっているはずである。つまり、人形遣いはいまここの感覚に照合しながら動くことがもっとも大切である。段取り稽古ばかりやると、いまここの「照合する感覚」は鈍化してゆく。

非常識らしさの発想-後編

 僕は面接で、受験生といまここの会話をしたいのだ。受験生には質問に対して、いまここで感じたことを答えてほしいのだ。面接官の問いに対して、想定してきた答えを思い出しながら、よどみなくスラスラと答えようとする意識は、「いまここで自分が感じたことを言葉として紡いでこうとする思考」の妨げになるはずだ。人間同士の会話は、ちょっとした言葉のニュアンスで、受け止め方や感じ方は変わるはずだし、受け止め方が少しでも違えば、そこでまた何かを新たに感じるはずだ。そのような“やりとり”を、入試の面接という場で僕はしたいのだ。
 試験官も面接がどのような方向に進むかは予測不能。だから、想定問答などは無意味。受験生としては、想定していない方向に会話が進むと不安になるかも知れないが、それこそが、面接の醍醐味なのだ。自分が想定していない方向に会話が進むと不安になって、それを圧迫面接と受け取るような人は、あまりに精神も頭脳も脆弱ではないだろうか。
 受験生がいまここで考えた末に出した答えに対しては、当然、僕だって、ものすごく真剣に、いまここで感じたことを答えるだろう。そのような“やりとり”を繰り返してゆけば、ふたりのあいだに交わされる会話のクオリティはどんどん高まってゆくだろうし、そのような“やりとり”を繰り返してふたりの共同作業により到達した結論は、非常に説得力のあるものになっているはずだろうし、面接が終わったときには、ふたりともに、爽快な気分になっているだろう。

《どうして、我が大学を受験したんですか?》
『はい、まずは、教育実習制度の充実です。貴学では豊富な経験を段階的に積むことができるので、理論と実践の両面からしっかり学べると思ったからです。以上です。』

こんな会話は、僕はまったく望んではいない。

《どうして、我が大学を受験したんですか?》
『地元だし、偏差値的に受かりそうだから受験したんですが……。でも、今日来てみたら、面接官の先生方がみんな優秀で、イケメンで、わたしの受験の理由はコレだ! って、いま、思いました。』

僕は爽快な気分になって、思わず言ってしまうかもしれない――《もう、君、合格!!》
(2019年1月8日)


藤中隆久藤中隆久(ふじなか・たかひさ)
1961年 京都市伏見区生まれ 格闘家として育つ
考えなおして1990年 京都教育大学大学院教育学研究科修了(教育学修士)
九州に渡り1996年 九州大学大学院教育学研究科博士後期課程修了
南下して1999年から熊本大学教育学部 2015年から教授
推定5.8フィート 154ポンド

非常識らしさの発想(1)

“ここ”に居るのは君と僕(2018年11月9日)


藤中隆久藤中隆久(ふじなか・たかひさ)
1961年 京都市伏見区生まれ 格闘家として育つ
考えなおして1990年 京都教育大学大学院教育学研究科修了(教育学修士)
九州に渡り1996年 九州大学大学院教育学研究科博士後期課程修了
南下して1999年から熊本大学教育学部 2015年から教授
推定5.8フィート 154ポンド


 最近の大学入学試験は複雑で、いろんなタイプの試験が、年間に何度もある。僕も、試験監督やら、面接やら、会場警備やらを、訳もわからず言われるがままにやっている状態だ。それにしても、何でもやればいいってもんじゃないだろうと思う。適材適所という考えが大事だろう。僕が面接官をやることは「適材」を「適所」に配置しているとはいいがたい、と我ながら自信をもって断言できる。これが会場の警備ならば、僕もその適材性をいかんなく発揮して見せる自信はある。しかし、数々の自信はほとんど考慮されることもなく、毎年毎年、不適材な僕が、入試の面接という不適所な仕事を割り当てられているのだ。



「面接官に向いていない」という自信があるが、その自信はどこから来るのかといえば、僕は面接でいつも退屈するところにある。時には不快な気分にもなるからだ。受験生からすれば、面接官を退屈させようとか不快にさせようとかは、まったく思ってないはずだ。にもかかわらず僕は退屈になり不快感を感じているわけだから、面接官としての適性はないということだろう。

 ほとんどの受験生は、僕の質問に対して、待ってました! とばかりに、まるでお芝居の台詞をしゃべるように、スラスラとよどみなく答える。しかし、こんな絵に描いた餅のような答えをよどみなくスラスラと返された日には、まるで、僕との対話を全身全霊で拒否されているような気分になる。こんなやりとりを、何十人もの、ほほを染めた三つ編みの高校生と繰り返さなければならないわけだから、退屈になるのは当たり前ではないだろうか。

 この受験生たちは僕のことを「人格をもったひとりの人間」という風に想像してみたこともないのだろう。面接官が僕であれ、同僚Bであれ、同僚Cであれ、お芝居のように台詞をスラスラと答えるのだろう。どの試験官にでもお芝居のようにスラスラと同じ台詞を言うのなら、その場にいるのが僕である必然性はまったくない。いっそのこと、その場にボイスレコーダーでも置いて、それに向かって質問の答えを吹き込むよう指示してもいいのではないか、と思ってしまう。つまり、面接という場で僕は受験生から、人格をもったひとりの人間とはみられてはいなくて、ボイスレコーダーのような物とみられているのだ。人間を人間扱いせずに機械のように扱っている相手に対して、僕が不快を感じるのは、当たり前ではないだろうか。たとえ、相手が、ほほを染めた三つ編みの少女だったとしても。



 僕は面接の場で人間同士の会話をして、もっと受験生とわかりあいたいのだ。ふたりのあいだで会話を弾ませ、会話のクオリティを高めたいと願っているのだ。会話が弾んだ結果として、思わず受験生の肩をたたきながら《もう、君、合格!》という失言をする覚悟さえも、僕にはあるのだ。そんな失言をしてしまっても、きっと同僚Bが《いまのは冗談だからね》ととりなしてくれるはずだから大丈夫だろう、と高をくくってもいる。そんな面接ならば、退屈したり不快になったりはしないだろうと思う。

 お芝居のようによどみなくスラスラと答える面接戦略は、きっと、受験生が自分で考えてやっているわけではないだろう。受験生は高校や予備校で指導を受けて、訳もわからないままにやっているだけなのだろう。高校では面接のための想定問答集をつくり、想定問答どおりを面接の場でよどみなく演じるための訓練に余念がないのだろう。しかしながら、面接用の想定問答や訓練なんか、しないほうがいいと僕は思う。想定問答をつくったり訓練したりという戦略には、「真剣さが足らない」と感じられる。面接とは常に真剣勝負。だから、まったく準備などをせずに、想定問答もつくらずに、ぶっつけ本番で挑むべきなのだ。

 受験生からすれば、「ぶっつけ本番で面接を受けたりすると、落とされるんじゃないか」との心配があるのかもしれない。「ぶっつけ本番で面接を受けると、言葉に詰まったり沈黙してしまったりしてしまうんじゃないか」という不安があるのかもしれない、あるいは「間違ったことや言ってはいけないことを言ってしまう」という不安があるのかもしれない。しかし、詰まったり、沈黙したりするということは、つまり、いまここで一生懸命考えて、自分のなかにある“まだ言葉になっていない思い”と必死に格闘しながら、それを言葉にする努力をいまここでやっている、ということなのだ。“いまを真剣に生きる姿”を受験生が目の前で見せているわけだから、僕などは、詰まるたびに、沈黙するたびに、いまを真剣に生きている三つ編み少女の面接点を5点アップしてあげるつもりだ。

~次回に続く~